第375話「截拳道VS妖怪」



 首元がやや癖ッ毛のショートカット、アニエスベーのぴったりとしたスーツ、そして手の甲に五角形の晴明紋のついた黒手袋をつけた男装の不知火こぶしさん。

 若い巫女たちにはない、落ち着きと柔らかさを兼ね備えた美貌の麗人だった。

 テーブルの反対側に座っている〈絡新婦〉が身じろぎもせずに見つめている。


『―――〈社務所〉の媛巫女。明治の大帝の肝入りで作られた神造組織でしたっけ。しつこく、我らの同胞を狩り立てていると聞いていますわ』

「昔と比べて、だいぶ様変わりしましたけどね」


 柳晴海―――〈絡新婦〉の声がしわがれ始めた。

 まるで喉の乾いた老婆のようだ。

 さっきまでの艶っぽい瑞々しさは完全に失われつつあった。

 一度、閉じられた瞼が上がったとき、白目の部分は消えてしまい、黒と黄色い斑点のような輝きだけになった。

 どことなく、曜変天目茶碗ようへんてんもくちゃわんの、瑠璃色あるいは虹色の光彩の取り巻きのようであった。光を当てると角度によって七色の虹となる国宝のあれである。

 ただ言えることは、国宝の茶碗の美しさとは違い、妖の毒々しさに満ちた黒い光輝だということであった。

 少なくとも人間のもつ瞳ではない。


「無駄な抵抗は止めなさい。この距離でわたしの截拳道の拳を躱せるとは思えません」

『ほざけ、ニンゲン。白い糸のしがらみさえなければ、あなたなど恐れる道理はないわ』

「では」


 アチャッ!


 短い裂帛の気合いとともに膝から下がしなるような蹴りが〈絡新婦〉に向けて放たれる。

 この距離で避けることはできない。

 だが―――

 すっと羽毛が風で舞うように〈絡新婦〉が後方へ飛んだ。

 こぶしさんの蹴りが当たる寸前にその風圧によって飛ばされたかのような柔らかい動きだった。

〈絡新婦〉自身のものとは思えないが、計ったようなタイミングからするとこぶしさんの攻撃を偶然避けたものではないはずだ。

 後ろに飛んだ〈絡新婦〉はキッチンの上に蹲踞のように飛び乗った。


「ほお、いい動きですね。バルーニングを使った回避術ですか。さすがは蜘蛛ということです」


 バルーニングとは、蜘蛛が糸を使ってタンポポの種子のように空を飛ぶ行動のことを言う。

 一か所に集まっている蜘蛛の幼生たちが周囲に飛び散るために使うものだが、うまく上昇気流に乗ると中国大陸から日本にまでやってくることもある。

 そのバルーニングを敵の攻撃からの回避のために使うのは、蜘蛛の妖怪ならではといったところか。

 ただの主婦然とした〈絡新婦〉の全身にキラキラした光沢が見える。

 きっとあれが蜘蛛の糸のはずだ。

 あれをいったいどうやって使ったのかはわからないが、あれほど鋭いこぶしさんの蹴りを躱したのは素直に凄い。


『ニンゲンごときが私に歯向かおうというのか』

「〈護摩台〉がなければあなたたちと五分でやりあえない子供たちならばともかく、わたしはこう見えても強いですからね」


 膝が上がった。

 足元にあった小テーブルを爪先でひっかけて、なんと宙に浮かす。

 そのテーブルが宙にある状態のまま、「ホアチャア!!」と気合と共に蹴った。

 サッカーボールでリフティングする要領なのだけれど、ボールの代わりにしているものがはっきりいっておかしすぎる。

 しかも、テーブルがまっすぐ〈絡新婦〉まで飛んでいき、台所の縁にぶつかって爆散した。

 ガラスの天板が割れたのだ。

 左脚を軸足にして、ほとんど動かさないで上半身の捻りだけでそんな真似をするなんて……

 さすがは御子内さんたちの先輩であり、彼女たちを束ねる統括だ。

 しかし、こぶしさんだけを見ている訳にはいかなかった。

〈絡新婦〉も同時に動いていたのだ。

 あっちは冷蔵庫と天井の隙間にぴたりと背中から貼りついている。

 どうやってあんな風に貼り付けるのものなのか。

 しかもその動きはテーブルが割れたのとほぼ同時だった。

 やはり蜘蛛の化身。

 動きの一つ一つがまともな人間のものとは桁が違う。

 ただし、こぶしさんは平然としたものだ。

 ここには妖怪の力を減じる結界を張る〈護摩台〉もないし、ワイヤーを用いた簡易結界も張られていない。

 真っ向からの力勝負だというのに、さっきまでと変わらない。

 彼女の落ち着きようは、去年、〈社務所〉の重鎮であるという御所守たゆうさんを思わせる。

 この領域に御子内さんたちが辿り着くのは随分と先のことになるだろうな。

 僕が彼女のそんな姿を見ることができるかはわからないけれど。


「ホォォアイヤァァ~~~」


 ジークンドーの使い手らしい、怪鳥の声をあげて、こぶしさんが構える。

 ただの中国拳法と違い、上下に揺れるフットワークと腰を落として斜めに構える独特の構えだ。

 前肢は伸ばして、後ろ肢を曲げる。

 ブルース・リーはフェンシングも取り入れていたというから、その名残が窺われる。

 両掌を掴むように固定して、喉の奥をクゥゥゥゥゥと鳴らす。


「フゥ~~~ アチャ!!」


 こぶしさんが前進した。

 中国拳法の歩法とは違う、高く掲げたハイキックを何度も連発して、その勢いで突き進む。

 天井に貼りついていた〈絡新婦〉が慌てて、避けても鞭のようにしなる足技が追い詰める。

〈絡新婦〉はふわりと動くが、そんなのはお構いなく嵐のような蹴りの連撃が追いかける。

 仕方なく地に降り立った〈絡新婦〉の胸に、「アタァ!」と拳が突き刺さる。

 

『チィ!!』


〈絡新婦〉がその拳を両手をクロスさせて防いだ。

 思った以上に動きがいい。

 見た目、ただの美人でしかなかったが、やはり妖怪なのだ。

 人とは違う、妖魅の力がある。


『ニンゲンめ!!』


 その手が殴りかかるが、それは当たる前にこぶしさんの肘に遮られる。


「アチャアア!!」


 ジークンドーの独特のパンチが腹を抉る。

 吹き飛ぶ〈絡新婦〉が僕の脇を過ぎ去っていった。

 狭い居間の中での戦いだ。

 僕が下手に動くとすぐに巻き込まれる。

 さっと二人から離れようとした時、僕は〈絡新婦〉の首元を見た。

 まさか、というべきものがそこにはあった。

 たった今の短い攻防を思い出す。

 こぶしさんの攻撃には、確かになかったはずだ。

 なのに、どうして、それがある?

 しかも、僕の記憶に寄ればそれは出来たばかりのものではない。

〈絡新婦〉のはだけたセーターの首筋から覗いていたものは、紫に腫れたであった。

 

 なぜ、〈絡新婦〉の肌にそんなものがある。


 よく考えれば、妖怪のふっくらとしたセーターはもしかしてその痣を隠すためのものではないのか。

 この家の中はそんなに寒いものではない。

 暖房もよく効いている。

 だから、そんなセーターを着ている必要性はないはずなのに……


 まさか……


 まさか、そういうことなのか……?

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