第374話「妖怪〈絡新婦〉」



 玄関で僕らを出迎えてくれた女は、一見、ごく普通の美人の奥さんという様子だった。

 縦じまのふっくらしたセーター、膨らんだスカート、黄土色のカーディガンという格好はという感じである。

 彼女がおかしいとすぐには誰も思わないだろう。

 ただ、僕は玄関の扉が開いたと同時に漏れ出してきた冷気にぞわりと鳥肌が立つのを感じた。

 理由は一つだ。

 この女性の目は

 少なくとも太陽の下を歩くことはできそうもない、まさにという有様だった。

 やや上目遣いにこちらを見てくるのが、探られるようで不愉快だ。

 口元が捻じれている。

 美貌に相応しいものではない。

 有名大学のミス・キャンパスにありがちな、いかにも将来はテレビ局のアナウンサーになりそうな顔だちなのに、この双眸があるだけでしくじっている。

 出会った人間の半分は憂いのある瞳とみるだろうが、残りの半分は昏い眼と嫌うことだろう。


「あなたが不知火さん? 私が柳の家内です」

「初めまして、奥様」

「……どうぞお上がりください。こんなところで話をするのもなんでしょうから。ところで、あなたは?」


 奥さん―――柳晴海は僕と視線を合わせた。

 三和土にいる僕と眼を合わせたのに、やや上目遣いなのが微妙に恐ろしい。

 とはいえ、ここで怯んでいる余裕はない。


「奥寺さんの知人です」

「あなた、高校生ぐらいしか見えないけれど?」

「高校生で間違っていません」

「そう。とにかく上がってくださいな。少しお話をしましょうか」


 柳晴海はこちらを一瞥すると、そのまま家の奥へと入っていく。

 昼間なので玄関に電灯がついていないからか、建物の中はとてつもなく暗い。

 太陽光を採り入れる窓がないのだ。

 ないというのか、塞がれているのか、はたしてどっちだろう。

 それに空気が淀んでいるからだけでなく、妙に湿気が多いようだった。

 総じていうと、建物が全体的に闇の中に沈んでいるといえた。

 ほんの数歩だけで、柳晴海の姿が消えていく。

 ……ように見える。

 いや、溶け込んでいるのか。

 薄暗い暗闇そのものに。


(わかりやすいぐらいに、妖怪変化っぽいね)


 さっきこぶしさんは、彼女のことを〈絡新婦〉と呼んだ。

 一応、最近は妖怪やオカルト、いわゆる妖魅の存在についても勉強することにしたおかげで〈絡新婦〉のことも知っていた。


〈絡新婦〉。


 美しい女に化ける女郎蜘蛛について〈絡新婦〉という漢名をあてた妖怪のことである。

『太平百物語』や『宿直草』といった書物でも取り上げられ、鳥山石燕の「画図百鬼夜行」に描かれていた。

 伝承そのものは日本全国に広がっていて、特定の地域に固まっている訳ではない。

 大蜘蛛というと、かつて大和朝廷との争いに敗れた日本の先住民族とも言われる土蜘蛛系のことを思い出してしまうが、〈絡新婦〉はあまり関係がなさそうだ。

 むしろ、インドから中華大陸、台湾、朝鮮に分布するジョロウグモそのものだと考えるのがいいかもしれない。

〈絡新婦〉の伝承が全国にあるということからそう解するのが適当そうだ。


 この妖怪は、特に美しい女の姿に化けて男を誘う―――夫を作ろうとするのである。

 子をなしたあとで捕って食らえる栄養も兼ねた夫を。

 たいていの男は美しい妖魔に誘われて、それを拒むことはできないだろう。

 伝承では〈絡新婦〉の言葉を疑う男の活躍によって、〈絡新婦〉は正体を見破られて倒される運命なのだが、それまでにどれだけの犠牲が出たことか。

 それは、きっと、この家でも同じことになっていたのかもしれない。


「どうぞ」


 一番奥の、リビングに案内された。

 薄暗い部屋だった。

 雨戸が閉められ、人工の光が照らし出すだけの、どうみても薄暗闇の空間だった。

 一言で表現するのならば、「巣」の中だ。

 妖怪・妖魅がひきこもるための。

 子作りをするための。

 僕は柳晴海がまぎれもなく妖怪〈絡新婦〉であることを確信していた。

 こういうことは滅多に無いのだけれど。

 人間に化けた妖怪が、こうもはっきりと顕現するなんてことはそうはないからだ。

 普通はぎりぎりまで正体を見せない。


「……あなた方、何をしにここに来られたの? 本当に、奥寺くんの知り合い? 私をたばかっているのではなくて?」

「わたし自身は違うわ。こちらの彼が奥寺瑛作の知人なのは間違いないけれど」

「そう。確かに、嘘をついている目ではなさそうね。もっとも、私に男の嘘を見抜く目があるとは思わないけれど」


 柳晴海は自嘲気味に言った。

 どうも疲れ切っているようだった。


「どうやら、あなた、不知火さんだっけ? なんとかいう化け物殺しの組織の人間のようね」

「知っているの?」

「まあ、わたしも古い女だから。こんな姿で大学にまで通っていたけれど、もう何十年生きてきたかわからないぐらいよ」

「〈絡新婦〉。……でいいのかしら?」

「人間どもはそう分類するわね。蜘蛛の妖魅としての私たちを」


 完全に自白を採集してしまった。

 こうもあっさりと妖怪であることを認めるなんて。

 ソファとテーブルを挟んで、僕らと対峙する女は、自らが妖怪であることをあまりにもあっさりと肯定したのだ。

 大学に通っていたと言っていたっけ。

 それは奥寺さんの言っていたことそのままだった。


(―――おれは大学で彼女と出会い、憧れていたんだ。同じ想いをもっていた奴らはたくさんいたから、ライバルには事欠かなかった。でも、結局は大学も違うはずの柳が射止めたんだ)


 大学で奥寺さんはこの女と出会ったといっていた。


(……たまたまうちの大学の文化祭にやってきた柳が、彼女を見初めて積極的にアタックしていたんだ。それで結局、彼女の心を射止めたのは柳だった)


 この女はそんな頃から、生贄の男を探していたのだ。


「それで奥寺さんも餌食にしたんですか」


 僕は柳晴海―――〈絡新婦〉に訊ねた。

 彼を池袋駅で自殺するように仕向けたのはあなたなのか、と。


「していないわ」

「嘘だ!」


 嘘をついている。

 絶対に。

 この妖怪は、絶対に彼を殺すか、もしくはその引き金を弾いたはずだ。

 そうでなければ彼が自殺を選ぶとは思えない。

  

「あなたが嘘をついていないという保証はない! あなたは人の世界に潜り込んで来た妖魅じゃないか!」

「すべての妖怪が嘘をつくというの? あなた、意外とわからずやね」

「―――奥寺さんは言っていた。あなたが自分の夫を殺してくれと唆したと。実際に、彼はあなたの囁きに負けて旦那さんを殺そうとした。あなたが唆したんだ! それを嘘だとは言わせない!」


 だが、僕の弾劾を受けても〈絡新婦〉は身じろぎもしない。

 まるですべてが心外だとでも言わんばかりだ。

 妖怪のくせに。


「あなたは、自分が夫である柳さんにDVを―――ドメスティックヴァイオレンスをされていたと嘘をついて、お人好しの奥寺さんを唆した。あなたに惚れてしまっていた奥寺さんはその言葉を鵜呑みにしてしまった」

「残念ね。私が夫にDVを受けているのは本当のことよ。だから、私が奥寺くんを騙したなんてことはないわ」

「それも嘘だ! あなたは自分が妖怪であることを隠して、柳さんと結婚し、奥寺さんを人殺しにしようとした。僕が止めなければあの人は殺人犯になっていたはずです」

「ああ、あなたが奥寺くんを止めたという人なのね。へえ、それでわざわざこんなところまで来るなんて……」


〈絡新婦〉は昏い目で笑う。


「おめでたいわね。人間」

「あんた!!」


 立ち上がろうとした僕の腕をこぶしさんがとった。


「まあまあ、落ち着いてください。京一さん」

「こぶしさん……」

「この女性ひとが〈絡新婦〉だとしても、わたしがいる限り何もできはしませんから」


 こぶしさんは男装の麗人らしく、長い脚を組んで余裕の表情だ。

〈絡新婦〉の怖い睨みも効き目がない。


「でも、こぶしさん……」

「とりあえず落ち着いてください。あなたにしては珍しく苛立っていますよ。冷静さも欠いています」

「あ……」


 それは確かにそうだ。

 僕らしさというものがあるとして、今の態度はまったくいつもと違う。

 客観的に自分の行動を見られない。


「あなたは奥寺瑛作を助けられなかったということに関して後悔が強すぎるのですよ。それは悪いことではあれませんが、褒められたことではありません」

「……どういうことですか?」

「それはそのうちにわかるはずです。さて、〈絡新婦〉。いえ、柳晴海と呼べばいいのかしら? あなたには訊きたいことがあります」

「何も答える気はないわよ」

「でしたら、拳で語るまでですね。どれだけわたしの鉄拳を受けて黙っていられるか、試してみましょう」


 僕を引っ張ってソファーに座らせるのと逆に、こぶしさんは立ち上がった。

 黒い革の手袋をきゅっと締める。


「現役は退いたとはいえ、わたしも〈社務所〉の媛巫女だった女ですよ。たかが化け蜘蛛ごときには負けはしません」


 不知火こぶしさんは、〈絡新婦〉を前にしてもまるでランチでも食べに来たかのように平然とした顔をしていたのだった。




 

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