第373話「蜘蛛の罠が待つ」



 柳萩人やなぎはぎとの家は、ごく普通の一軒家だった。

 いや、普通とはいえないか

 まだ二十代後半のサラリーマン夫婦が池袋から電車で二駅ほどの場所に、こんな家を持てるなんて相当のお金持ちでないと。


「えっとですね。この家は柳萩人名義になっていて、登記もされています。ご両親が、質屋のチェーン店を経営していてかなり裕福な家庭の出身だったようですわね。」

「新婚の息子のために、新築ではないとはいえ都内の一軒家を丸ごとプレゼントですか。凄いなあ」


 築二十年程だろうか。

 夫婦だけで暮らすには贅沢な気がする。

 猫の額ほどだけど庭もあるし、駐車スペースには車が止めてあった。

 フォードのフィエスタだ。

 アメリカのビッグスリーのフォードだが、このフィエスタはヨーロッパフォードの車でWRCでも上位に食い込む名車だった。

 日本でもフィエスタなら買ってもいいという車好きは多い。

 とはいえ、これも年齢と職業を考えると身分不相応だ。


「あれは、なんですか?」


 僕は庭の一角を指さした。

 何かがキラキラと光っている。

 無数の光が浮いているように見えた。


「―――蜘蛛の巣ですわね。まったく、わかりやすすぎる」

「どういう意味ですか?」

「京一さん、よく観察してみてください。この家の敷地内には色々なところにピンと糸が張り巡らされているはずです。ほら」


 腕を掴まれて、引きよせられるとこぶしさんのいい匂いがした。

 シャンプーとかではなくて、きっと香水だ。

 鼻につくほどではない、とても優しい匂いだった。

 大人の女性という感じである。


「見えますか」


 身体を擦りつけるようにして、こぶしさんの指の先を視る。

 ぴったりとした黒い手袋をはめた彼女の手は軒の一角を指していた。

 光る糸がここにも張られていた。

 近くにあるからわかるが、間違いなく蜘蛛の糸だった。

 それを踏まえてよく見渡すと、確かに至る所に蜘蛛の巣が張っている。

 手入れが為されていないという訳ではないだろう。

 木の葉やゴミなんかは綺麗に掃き掃除されているようだったし、特別汚いという様子はない。

 フィエスタのボンネットや窓ガラスさえも汚れていないのだから。

 それなのに、こんなに大量の蜘蛛が湧いているなんて……


「あれ。でも、蜘蛛自体はいないんですね」

「いいところに気が付きましたね。ここにはたくさんの巣が張っていますが、主人であるはずの蜘蛛はいない。要するに、巣を張っただけで蜘蛛が放置しているということです。では、それはなんのために?」

「……荒れた感じをつくるため、とか」

「いえ、ちょっと違います。これは、ある意図を有しています」


 そういうと、こぶしさんは最も近くにあった蜘蛛の巣を二本の指先で切り裂いた。

 ベルリンに降る赤い雨みたいな一閃だった。

 凛々しい男装はしているのに普段はのんびりしたお姉さんっぽく見えるが、この人が格闘技の達人であることは知っている。

 確か、截拳道ジークンドー

 截拳道は、あのブルース・リーが幼少期より学んだ詠春拳などのカンフーを土台に、レスリング、ボクシング、サバット、合気道、柔道などのさまざまな格闘技、技術を取り入れて作った武道―――いや、哲学かもしれない―――である。

 截拳道ジークンドーの意味は、「相手の拳をつ(防ぐ)道」という意味であり、単なる武術としてだけでなく「生きていく上で直面する障害を乗り越える方策や智恵」

 ということでもあった。

 そんな截拳道ジークンドーをこぶしさんがどうやって習い覚えたのかはさすがに知らない。

 ただ、彼女の強さは後輩にあたる御子内さんたちと比べてもまったく遜色ないはずだ。

 むしろ、経験が豊富な分だけ後輩を遥かに上回っている可能性が高い。

 とは言っても、実のところ、僕はこぶしさんの戦いについては松戸での〈口裂け女〉事件で少しだけみたことがあるだけだ。

 どんな技を使うのかはあまりわからない。

 こぶしさんは退魔巫女の統括ということで、まず実戦にでることはないらしい。

 あの時は関東のほとんどの退魔巫女を集めてもまだ人手が足りない戦いだったからだが、たいていの場合は出陣しないのだ。

 そもそも、この年上の女性と二人きりで行動するということ自体わりと初めての体験のような気がする。

 しかし、どうして今回に限り僕なんかに付き合ってくれる気になったのだろう。


「来るわね」


 すると、玄関の脇についているインターホンが押してもいないのに反応した。


『何か、御用ですか?』


 若い女の声だった。

 インターホン越しでもわかる、何か異様な響きがあった。

 あえて言語化するのならば、それは―――誘惑するかのような色気だろうか。

 艶にして色、だ。

 桜井が言っていた「人妻の色香」というものだろうか。

 だが、感覚的におかしいということもわかった。

 僕が一年以上つきあってきた退魔巫女との妖怪退治で培ってきたものが囁くのだ。

 

 警戒しろ、と。

 油断するな、と。


「―――柳晴海さんでしょうか?」

『晴海は私ですが……』

「よかった。わたしは不知火というものです。あなたの御友人のことについてお話があって伺いました」

『友人……ですか?』

「はい。奥寺瑛作という方です」


 インターホンは沈黙した。

 奥寺さんの名前がこの静けさを呼び起こしたのだろう。

 そして、晴海さんという女は何を思っているのか。


『……お入りください。お茶でも飲んでいってくださいな』

「ありがとうございます」


 切れたインターホンをしばらく見つめていたが、こぶしさんが動き出したのでそれについていく。


「……さて、ここから先は敵地と思った方がいいわね」

「敵地、ですか」

「ええ。この家の中は妖怪の棲家よ」

「晴海さんは妖怪……ということでいいんですか」

「そう、十中八九あの女は〈絡新婦じょろうぐも〉よ」


絡新婦じょろうぐも〉。


 その妖怪が奥寺さんを自殺に追いやったのか……?


 僕はこの事件の顛末をぜひとも知らなくてはならない。

 強く、そう決意していた。



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