ー第7試合 恋人〈コイビト〉ー
第44話「春はお別れの季節」
話の終わった依頼者たちをエレベーターの手前まで送り、一礼をして見送ってから、南場壮一郎は自分の事務所に戻った。
南場に限らず弁護士やこういう職につく人間は、依頼者をとても大切に扱う。
いい依頼者はただの金づるというわけではなく、次の仕事も運んできてくれる大切な水脈でもあるからだ。
さっきまで相談を受けていた応接室は、事務員の女性が片づけている。
普段ならその労をねぎらうところなのだが、今の彼は疲れ切っていたので、すぐに自分の部屋へと向かった。
途中、開けっ放しの戸の内側にいた若手と眼があった。
どうやら帰り支度をしているようだ。
「あれ、南場先生、まだいらしてたんですか?」
「そうだよ。僕は忙しくてね。君こそ、こんな時間に早めのご帰宅かい? いい身分だね。ボスの僕が疲労困憊でいるっていうのに」
「そういう愚痴は止めてくださいよ。センセーの個人的な顧客さんだったんじゃあないのですか。私には絡めない案件なんでしょ」
「そりゃあそうだがね。疲れた上司をねぎらう気持ちはないのかい? ああ、寂しい。学生ゼミの時から兄貴のように面倒を見てきてやったというのに」
「酔っ払いみたいですよ、センセー。で、どんな面倒事なんですか? 確か離婚案件とか言ってましたよね」
「ああ、聞いてくれよ~」
そういうと、南場は部下のスペースに入り込んだ。
ついでにさっきまで応接室の片づけをしていた事務員にコーヒーを注文する。
しかも、二杯分。
居座る気満々の上司に部下は苦虫を潰したような表情を浮かべた。
「いやね、
「ご本人じゃなくて、息子さん夫婦の?」
「そうなんだ。しかも、美男美女のアベックでね。高収入だし、いいところに住んでいるし、子供も二人いる。文句のつけようのない夫婦だ」
「それがどうして、離婚を? 片方が浮気でもしましたか? それで有責側が離婚請求したけれどできないからどうにかならないか、とかいう……」
部下のいかにも弁護士らしいコメントに南場は首を振った。
「そんなのなら、どんなに楽か」
「……離婚案件は面倒なのが多いですからね。でも、センセー、あの依頼者の仕事は全部僕が担当するからね。手を出さなくていいよ! とかおっしゃっていましたよね。だったら、私は関与しませんからね」
「君、やってよ」
「やりません。―――話ぐらいは聞いてあげますけど」
一から育ててやった恩師に対して生意気なことを言う部下である。
「……離婚事由がおかしくてさ」
「笑えるんですか?」
「そっちの可笑しいじゃない。イカレテいるとかの方のおかしいだよ」
「―――古今東西、不倫した夫婦の片割れの言い分とかはだいぶ奇々怪々ですから、その一種みたいなもんですかね」
「さっきまで話し合ってたんだけどね。双方の言っていることは同じなんだよ。離婚事由は共通している。ただ、その原因で離婚はないだろう……と」
「性格の不一致? 夜の生活の相性? 不妊? 浮気じゃなければ、だいたい、こんなものじゃないんですか?」
「違うんだ」
南場は手にしていた資料を見せた。
実際は部外秘なのだが、知ったことか。
「どれどれ―――って、一文だけじゃないですか。……うわっ」
思わず部下が引くのがわかった。
不倫の末のハメ撮り写真とかのほうがまだ良さそうな気がする。
その一文を見ただけでなんとなく面倒事すぎる気がしてしまうぐらいなのだから。
少なくとも、三十年近い南場の法曹生活において、こういう文章はみたことがない。
頻繁に目にするのは、HANAKOとか女性向け雑誌の方だろう。
「なんですか、これ? 『離婚事由の申し立て原因 = 東京都三鷹市、武蔵野市内にまたがる都立公園である、井の頭恩賜公園において、夫婦共同でボートに乗ったことによるもの』って……」
「読んで字のごとく、だよ」
呆れたように資料に目を通す部下。
ますます呆れた顔になる。
「こんなので離婚できるはずがないじゃないですか。……でも、いや待てよ。夫婦双方の離婚意思は合致しているんだから、普通に離婚できるのか。協議離婚だったら、理由なんかどうでもいいんだし。させてしまえばいいと判断を変えますよ、私は」
「……そこで、双方の両親が反対してんだよ。僕にはその説得も頼まれていたというわけさ」
「仲人にやらせればいいじゃないですか」
「やらせて駄目だったから、僕のところにきたんじゃないか。法律的に説得してくれって。でも、そんなのできたら苦労しないよ。あの夫婦に必要なのは、弁護士じゃなくてカウンセラーだ」
どうしても離婚意思の堅い夫婦を説得できずに、何時間も費やしてしまったせいで南場は疲れているのだ。
もう、早く家に帰って子供と遊んで癒されたい。
「絶対、これは他に原因があるでしょう。もともとうまくいっていないとか」
「それがあったら苦労しないよ。二人とももう憑りつかれたように、『井の頭公園のボートに乗ったから別れなければならない』を繰り返すだけでさ」
「で、先生はどうしたんです」
「匙を投げたさ。こんなの弁護士の仕事じゃない」
さすがに部下も事情を理解してくれたらしく、少し同情の混じった視線になった。
「まあ、確かに。その後は?」
「法律的にいくのは諦めるみたいだった。なんか、知り合いの神社で御祓いをしてしまうとか言っていたな」
「いきなりオカルトですか。悪霊に憑りつかれたわけじゃあるまいし」
「家族からすればそう見えるんだろ。どうだい、君なら何とかなるんじゃないのかい? わりとそういうの得意だろ」
だが、部下はぶんぶんと首を振って否定した。
「い・や・で・す! 私はもうそういう仕事はやらないと決めているんです。だいたい、どうして離婚を阻止するために神社に行くんですか」
「さあ。井の頭公園には弁財天の神社があるからそのせいじゃないかな」
「―――まったくわりと旧家の考えることってわかりませんね。すぐに神頼みやオカルト話を持ち込むのだから」
こうして、ある法律事務所に持ち込まれた離婚事件は別の専門家の手に委ねられることになった。
通常ならば、すべてのトラブルの解決のための最期の砦である弁護士の手を放れたものは、もうどうにもならなくなるのが常である。
しかし、ある種の事件は、さらに深い闇の底、普通の人間には考えられない領域へと持ち込まれ、解決へと導かれることになる。
そして、今回の事件の解決役に選ばれたものは……とある退魔巫女であった。
◇◆◇
「……それでね、明日の夜に試合があるから、京一には〈護摩台〉を設置してほしいんだよ」
土曜日の昼間に、我が家にやってきた御子内さんが、僕に資料の入った封筒を渡してきた。
中を見ると、明日設置するリングの(御子内さんたちはずっと〈護摩台〉と言っているが、僕にとってはリングか……よくて〈結界台〉だ)図面だ。
なんと池の上に造るらしい。
まともなスペースがないということだが、これ、ちょっと素人の僕には難しい気がする。
「大丈夫だよ。明日は、ボクたちの社務所からも人員が派遣されるらしいから、京一が一人だけでやらなくてはならないということはない。ただ、ボクの専属として手伝って欲しいということなんだ。キミがいないと調子が出なくてね。―――お願いできるかい?」
「うん、任せて。もう何回も御子内さんの手助けはしてきたからね。それに、こういう難しそうな場所に造るのも勉強だよ」
「良かった。さすがは京一だ。助かるよ」
今日の御子内さんは、通っている武蔵立川高校の制服姿だ。
学校帰りに寄ってくれたらしい。
僕が引き受けたことで気分を良くしたのか、目の前に出されていた駅前の人気店〈フサクドール〉のチーズケーキを美味しそうに口に入れていた。
食べ物を笑顔で食べる人はいいね。
ほっこりするよ。
とニマニマしていたら、御子内さんの隣で話を聞いていた妹が素っ頓狂な声を上げた。
「いや、ダメですよ、お姉さま! 井の頭公園はダメです!」
一応、退魔巫女としての御子内さんと僕の会話には口を挟まないという約束をして同席させたのに、いきなり何を言い出すのやら。
こいつはケーキをもう完全に食べつくしている。
ちなみに、御子内さんはこの僕の妹―――
しかも三千円も、だ。
普段のうちでは〈フサクドール〉クラスの店のケーキはクリスマスにだってだされることはない。
もちろん、僕や僕の友達のためになんか絶対に補助金は支出されない。
この差別的待遇はいったいどういうことなんだろうね。
「どうした、涼花。いきなり」
「ダメですってお姉さま!」
妹はどういう訳か御子内さんをお姉さまと呼ぶ。
妖怪〈高女〉に助けられたときの恩義かどうかは知らないが、物凄くこの超絶可愛い退魔巫女に懐いていて、血を分けた兄である僕を蔑ろにするぐらいなのである。
実に納得いかない。
「何がダメなんだ?」
「い、井の頭公園でデートをするカップルは別れるという伝説があるんデス! しかも、これは強固なものとされていて、とてもまずいんデス!」
「なんだって!!」
「ですから、お姉さまとお兄ちゃんが井の頭公園に行くことは反対なのデス!」
語尾に妙なアクセントがついているぞ、妹よ。
なんのキャラなんだか。
だが、その話を聞いて御子内さんまでが顔色を変えた。
「それはマズいな……。やはり明日は京一を呼ばないでおくべきデスか……」
おかしな影響を受けているね。
「あのな、涼花。僕と御子内さんはカップルじゃないし、明日はデートじゃなくて仕事に行くんだぜ。別れる別れないなんて話が当てはまる訳ないだろ? 常識にのっとって判断しろよ」
「バ、バカか、京一! 君はいったい何を言っとるんだ! 伝説を舐めてはいけないぞ! 先人たちの知恵の結晶なんだから!」
「……いや、そもそも明日は妖怪退治をしに行くんでしょ? 別に井の頭公園のジンクスとかをバカにしているわけじゃないけど、―――二人してなにを焦っているのさ。落ち着きなよ」
すると、二人して物凄く白い眼―――ジト目という奴だね―――で睨まれた。
いったいどういうことなのかわからない。
まったくホント女の子というのは扱いづらいもんだよね。
これは、今から少し前、僕と御子内さんが高校二年生になるちょっと前、2015年の春休みに起きた出来事である……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます