第208話「殺人鬼と退魔巫女」
いきなりの衝撃的出来事であったが、運転しているヴァネッサさんは落ち着いていた。
運転中に何かアクシデントに見舞われた場合、ハンドルを左右に強く切ってしまったり、ブレーキを踏んでしまうのがデフォなのだが、彼女は違っていた。
冷静に、なんとアクセルをゆっくりと踏み込んで、車体の安定に努めたのだ。
何が起きたかを把握するよりも、プリウスαが事故らないように少し離れた場所の駐車場に乗り入れる。
ほんの三十秒ほどの、いかにヴァネッサさんが修羅場をくぐり抜けてきたのかがわかるテクニックであった。
一方の僕はというと、助手席側の窓を突き破ってきた腕とその持ち主を見て、顔をこわばらせていた。
作業用の黄色いヘルメットと顔に汚れた布をぐるぐると巻き付けた巨漢であった。
黄土色のツナギ姿なのだが、着られるサイズがよくあったなというぐらいに上背があり、しかも筋骨隆々だ。
走行中の車に特攻して来たからか、腕を伸ばしきれずに運転しているヴァネッサさんにまでは届ききらないが、執拗に掴もうとしている。
後部座席の僕の目の前でのことなので、ほとんど悪夢のような光景だ。
「京一、ロックを開けろ!!」
「あ、うん!」
僕はロックを外して、ドアを開けるようにすると、どけっと御子内さんが僕越しにドアを蹴り飛ばした。
開いたドアが巨漢にぶつかる。
バランスを崩したのか、巨漢は揺らいだ。
車が走行中なので両足が引きずられているからか、そのままずり落ちそうになる。
突っ込んでいた腕と指が開いたドアの縁にかかり、ギリギリ振り落とされない。
恐ろしい力だった。
「京一、もう一度!」
僕は御子内さんに倣ってドアを蹴った。
そのショックでドアの縁を掴んでいた指が剥がれる。
鈍い連続音をたてて、巨漢は道路に投げ出された。
慌てて後ろを見ると、壊れた人形のように巨漢は道路を転がっていき、三回転ほどしたら止まった。
その間に、プリウスαは駐車場に辿り着く。
僕は巨漢から眼を離せなかった。
もしかしたら死んでしまったかもしれないとじっと目を凝らしていると、信じられないことが起きた。
無残に道路に叩き付けられていたはずの巨漢がのっそりと立ちあがったのだ。
ツナギのあちこちが汚れて裂けていたが、本体にはまったく影響はなさそうだった。
ふらつきもせず、痛みをこらえているようでもない。
それどころか、腰のベルトに差していたらしい、長い鉈のようなものを抜いて手にしていた。
あれで僕たちを殺そうというのだろうか。
「―――呆れたタフネスぶりだね。とりあえず人間なんだろ?」
「ええ。ただし、何度も死んでは甦ってきた怪物です」
「なるほどね。皐月がやられるのもわかる。異常なものをひしひしと感じる。〈護摩台〉なしだとちょっときついかもしれない。……京一」
「ああ、簡易結界だね。いいよ」
清めたテグスで周囲を囲って、紙垂を突き立てて、弱いけれど結界を使うやり方だ。
リングみたいな〈護摩台〉を設置するのに比べれば結界の効果はお話にならないけれど、渋谷の〈七人ミサキ〉事件なんかでは意外と結果を出せているやり方だった。
ただし、こんな車のない駐車場では巻き付けるものがないからもっと狭いところにいかないと。
「あっちの方に特撮ヒーローが戦いそうな入り組んだ場所がありそうだ。そっちに行こう」
「言い得て妙だね」
「OKです」
僕らは近づいてくる巨漢―――殺人鬼〈J〉を尻目に走り出した。
どう見ても歩いているだけなのに、ぴったりとくっついてくるのはどういうことなのだろう。
一瞬、前を見ただけで次に振り向いたら、すぐ後ろにやってきている。
「―――瞬間移動でもしているのか」
「死霊憑きなんてあんなもんさ」
「……あれが死霊なの?」
「断定はできないけれど、ほとんど死霊と融合していて、妖怪とたいして変わらないレベルになっているのはわかるよ」
「……〈
「あれに比べたら芸はなさそうだけど」
執拗にこちらを追ってくる殺人鬼を振り切ろうと走っても、あっちは悠々とついてくる。
まるでどこからかモニタリングされているように精確だ。
退魔巫女として日々トレーニングを重ねている御子内さんと、日頃のガテン系バイトのせいで体力のある僕についてこられるヴァネッサさんもなかなかだけど。
彼女の手にはいつのまにか拳銃が握られている。
よく日本に持ち込めたね。
拳銃を目の当たりにしても驚かなくなった僕も大概なんだけど。
「……いつも、あんなのに狙われているんですか?」
「さすがに〈歩いている死者〉は初めてです。母もそんな経験はないそうですけど」
「でしょうね」
実際、運転しているだけであいつが釣れたのだから、スターリング家の女性陣のフェロモンみたいなものは本物なのだろう。
この調子では子供の頃から相当危険な目にあってきているはずだ。
さっきの冷静なドライブテクニックもわかるというものである。
ただ、それだけ彼女がどれほど苛酷な少女時代を送ってきたかを顕著にしめしていたともいえる。
そうでなければ、あんな落ち着いた処置はできないはずだ。
「ヴァネッサさんはこれが終わったらアメリカに戻られるんですか?」
「―――できたら、ここに留学したいです。本国に比べると平和で殺人鬼が少ないみたいですから、人生で一度ぐらいは普通の生活がしたいと思っています」
「殺人鬼がいないと平和なんだ……」
でも、産まれてからなんの罪もないのに、ずっと人殺しに目をつけられそうになりながら生きるって、きっと辛いことばかりなのだろう。
僕には同情することしかできない。
そんな日常を想像することだって難しいのだから。
「いいんじゃないかな。留学先は〈社務所〉に頼めば斡旋してもらえるだろ。FBIのコネを日本で使うよりは安上がりだ」
と、御子内さんが言う。
彼女は懸命に簡易結界を張れそうな場所を探しながら、僕たちの会話を聞いていたのだ。
「……でも」
「デモも生産調整もないよ。子供の頃から、そんな危険な生活を送ってきたというのなら、少しぐらいはのんびりとした生き方を体験したって誰も文句は言わない。いや、ボクが言わせない」
「或子さん……」
「だから、この件が片付いたらFBIに話を通して留学でも何でもしたらいい。あんな殺人鬼ごときに振り回される人生なんてくそ食らえさ」
御子内さんは廃工場の一画、なにやらトロッコのような滑車があり、周囲を足場で固められた地点にテグスを張りだした。
僕もその手伝いをする。
慣れたもので一分もたたず、簡易結界は張れた。
あとはここに〈J〉を誘い込むだけだ。
僕たちが結界の真ん中に入って囮の餌役になることで、それは足りる。
「御子内さん」
「……ボクも小さい頃に、わりと酷い目にあった記憶があるからね。大して戦う力もない子供相手でも妖魅どもは構わずに襲い掛かってくる。持って生まれてしまっただけのものために、理不尽な目に合ってもいいなんてことは決してない。だから、ヴァネッサ……」
廃工場の入り口に不死身の巨漢が姿を現した。
てらいも小細工もない。
表から僕らを殺そうと鉈を振りかぶりながら。
それを見やりつつ、御子内さんは宣言した。
「ボクにはキミらスターリング家の女性の宿命を止める力はない。だけれど、降りかかる火の粉をぶっ飛ばす力はある。―――薄汚い人殺しなんぞ、ボクが絶対に仕留めてやるさ」
御子内或子は、不死身の殺人鬼と真っ向から対峙した。
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