第422話「〈裏柳生〉柳生美厳」
少し前―――
あるところで、こんな会話があった。
「おまえは冬弥と一緒にパラシュートを使って降りろ。おれたちは〈軽気功〉が使えるから、先に行くぞ」
「いや、ボクも行くぞ!」
「はーん? おまえ、パラシュートなしで飛び降りて地上スレスレのところで〈軽気功〉の極技〈浮舟〉を使って体重を消せるのか? 〈
「できるね! 気功術全般、ある程度はできる!」
すると、皮肉そうな物言いで、
「無茶と無理は違うぞ。できないことはできないと素直に認めろ」
「―――それはそうだけど」
「なに、升麻へはおれたちも借りがある。最近、借りが増えすぎて利子の計算が面倒になっているところだ。丁度いい返済のチャンスなんだ邪魔をするな」
「ヘリコプターの燃料代かい」
「プラス、うちの斬りこみ部隊の時給だな。おれも
背後から回ってきた人影が、甲斐甲斐しくパラシュートを装着してくれるので大人しく為すがままになりながら、改造巫女装束の人物は言った。
「ボクらだって京一には貸しばかりさ。まあ、今回はキミたちに頭を下げて運んできてもらった手前、言うことを聞いてやるけど」
「なんでそんなに偉そうなんだ。うちのヘリに便乗している癖に」
「そうでないと間に合いそうになかったからだよ。でないと〈裏柳生〉になんか頼むもんか」
「恩をきちんと感じろ」
「―――でも、わざわざ総帥のキミまでが来てくれるとは思わなかった。どんな心境の変化なんだ」
黒い忍び装束と忍び専用の直刀ではなく、そりのついた大刀を腰から下げた美女は気怠そうに言う。
「おれたちは剣士であって、忍びだ。そして、忍びというやつは、前金を全額受け取ったら逃げ出すことができないものなのだ」
全額前払いとは、すなわち全面的に信じられたということであり、つまりは信頼されているということだ。
当然、裏切ってしまうこともできる。
忍びのように策略の多い世界に生きるものならそちらの方を選んでも心は痛まない。
しかし、だからこそ、策も嘘もなにもなく真っ正面からこられると逆に絶対に裏切れなくなるのだ。
たった一年の付き合いだが、〈裏柳生〉は升麻京一というただの少年にそれだけの貸しを受けてしまった。
いざというときに、とるものもとりあえず、秘蔵の兵員輸送のヘリコプターを出してしまったうえ、総帥自らが刀を持ち出して駆けつけるほどの。
「……妖怪退治は忍びの仕事じゃないぞ」
「わかっているが―――渡世の義理だ」
ガラっと扉が開けられ、外気が流れ込んでくる。
足元には奥多摩の山並みがあった。
下界を覗きこんでいた忍び装束の一人が叫ぶ。
「いました! 升麻殿です! 例の霧隠の忍びと、捩子くれた容姿の化け物に追われているようです!」
「わかった。先回りして、〈浮舟〉で降りるぞ。準備を知ろ」
「御意」
そして、忍び装束の美女、柳生美厳は御子内或子に言った。
「おまえたち、〈社務所〉の媛巫女だけが関東を護っていると己惚れないことだ。我ら〈裏柳生〉は、おまえらよりも前からずっと、江戸の御代から関東守護の役目についていたんだぜ」
「―――ボクの京一を頼む」
「任せろ」
美厳はまるで自分の家の玄関から踏み出すように、何もないヘリコプターの外に落ちた。
パラシュートもつけず、それどころかどんな装備もしていないまま。
己の身に着けた〈軽気功〉の術のみを頼りにである。
「―――〈浮舟〉。全身の重みの一切を消す〈軽気功〉の奥義。ったく、忍びってのは凄いもんだ」
或子は感嘆しながら
◇◆◇
「……〈裏柳生〉」
霧隠が呟いた。
同じ忍びだからすぐに正体がわかったのだろう。
というか、美厳さんがさっさと名乗りをあげていたから当たり前か。
人間とは根源から違う発条を有しているかのように、何十メートルもの距離を一っ跳びで超してきた〈金太郎〉が空中で枝を掴んで、方向転換をして着地する。
あのまま〈裏柳生〉の集団に突っ込めば斬られると、本能が悟ったのだろう。
野生というのは限りなく厄介だ。
「ほお、ただのエテ公という訳ではなさそうだ」
白刃を煌めかせ、僕らを護る壁となった美厳さんたち〈裏柳生〉の面々に対して、敵意こそ覗かせているものの、〈金太郎〉はまったく仕掛けようとはしない。
美厳さんの自然体に剣尖を垂らした構え―――確か柳生新陰流では「無形の位」というはずだ―――がどれほど攻防一体なのか悟っているのだ。
ゆえに動かない。
例え身を翻して逃亡を図っても、後ろからバッサリとやられることが、妖怪の脳みそでさえも想像できるのだ。
御子内さんがライバル視している相手は枚挙にいとまがないが(ていうか、彼女はたいていの強者に対して同じ態度だ)、その中でも特に意識しているのが美厳さんだというのは伊達ではない。
強者のオーラというよりも彼女が醸し出しているのは、怪物の恐怖だった。
触れれば切れる、まさに剣気そのものといった存在だった。
覚悟して踏み込んだとしても、一瞬で両断されてしまうしかない。
そんな未来しかありえそうにない。
これが武蔵野柳生の総帥の実力なのだ。
『グルルルルルル……』
〈金太郎〉はすでに動かない。
完全に美厳さんの剣気に囚われている。
「動かないのならこちらからいくぞ」
するすると美厳さんが前に出る。
退魔巫女たちとはまったく違う、まるで能のような足捌きだった。
柳生新陰流の開祖ともいえる柳生石舟斎は、その奥義として金毘羅流の能を採り入れていたという。
それが何百年経っても子孫たちに受け継がれているのだ。
小川のせせらぎのように密やかに、コマ送りのように進む足の動きに〈金太郎〉は反応できなかった。
ただし、首筋に迫る美厳さんの刀・三池典太の閃きを髪の毛一本の差で躱すことだけはできた。
人のものよりも長い腕がお返しとばかりに繰り出されたが、刀の柄を不思議な動作で上に撥ね上げた美厳さんの技によって切り裂かれる。
敵の懐に入り込んでいるのだから、刀を持つ方が取り回しの点で不可能なはずなのに、あまりにも玄妙な剣の冴え。
おそるべし柳生の新陰流。
斬られたといっても表皮程度なのか、〈金太郎〉は無事に横に跳んだ。
そしてなんと折れて落ちていた太い木の枝を掴むと、そのまま振るう。
総重量でいえば三十キロ近いものを楽々と振るうのは化け物の膂力だ。
しかし、それとて美厳さんにとってはどうということはない。
三池典太で容易く一刀両断してしまう。
あまりにも強い。
まともに対峙しては斬られるしかないのだ。
だから〈金太郎〉は別の木の陰に一度隠れた。
体勢を立て直すという知恵だろう。
樹齢何百年ぐらいの直系五十センチはあるだろう楡の木の裏に隠れた。
これで美厳さんは左右のどちらかに回り込むしか、〈金太郎〉を倒す術がなくなった。
―――はずだった。
しかし、美厳さんは三池典太を一度、鞘に納刀し、一度腰を落とす。
「新陰流にはない技だが……樹断の太刀と洒落込もうか」
美厳さんが選んだのは「居合い」。
古流の彼女たちならば抜刀術とでも言うべきか。
納刀した状態で刀を神速で振り抜き相手を斬るという技だ。
もっとも、いかに大男といえど、木の陰に隠れた敵に使うのは意味がないはず。
障害物の向こうには届かないのだから。
だが、その無意味という考え自体がもっと無意味なのだった。
僕は知っていた。
あの御子内さんでさえも警戒するその神技を。
「いやあああ!」
普段の気怠そうな様子はどこかに吹き飛んでしまったかのような、裂帛の大気合い!
居合いの静なるイメージとは真逆の竜巻の如き剣気に、辺りの枯れ葉、木の枝、種々の草、すべてが突風でも吹いたように舞い上がる。
〈気〉が物理的に作用するなんて、退魔巫女たちでもほとんどありえない現象だった。
何かを察した〈金太郎〉が後ずさったが、すでに遅かった。
隠れていた木から離れた妖怪の赤いひし形の前掛けがはらりと大地に落ち、わずかに遅れて割れた腹筋が紅い線を描いて横に裂ける。
新しくできた女の口のように。
さらに少しして一人と一体の間に立っていた樹がふらりと揺れて、横に倒れていった。
「まさか、ぶった切ったっていうのか!」
あまりのことに霧隠が目を剥いた。
美厳さんの三池典太の一閃が大木をものともせずに、〈金太郎〉ごと両断したなんて普通は思いつかない。
だが、そんな奇跡すら起こすのがホンモノの剣士なのだ。
そして、柳生美厳は剣の怪物であった。
「……トドメを刺すか、升麻?」
美厳さんが訊いてきた。
それに対して霧隠が、
「早く刺した方がいいと思います。あれは危険すぎる」
まだ〈金太郎〉に命といえるものがあるのは、さすがは妖魅というところか。
危険な存在であるという霧隠の意見ももっともだ。
でも、僕の返事は違っていた。
「美厳さん。〈裏柳生〉の人たちがいるのなら少し周囲を探って欲しいんだけど」
「なんのためだ?」
「おそらく、こいつが怒り狂っている原因が転がっているはずなんだ。そいつらが無事なら、その妖怪を見逃してあげたい」
「京さん、何を!?」
「わかった。おまえら、升麻のいうことに従え」
〈裏柳生〉の面々が散っていく。
残ったのは僕と霧隠、美厳さん、そして腹を切られて蠢く妖怪だけになった。
「相変わらず甘い生き方だな、おまえは」
「趣味……みたいなものだから」
「?」
それから、忍びたちが僕の望んだ成果を持ち寄ってきたのにはさすがの一言であった。
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