―第85試合 邪神戦線 6―
第676話「邪神なにするものぞ」
御子内或子は用意された〈護摩台〉の上で人の息吹を感じていた。
最初はC教徒とヨグソトト教団、そして第三勢力たちによる三つどもえの争いで戦場となり、次は地底から噴き出した泥の雨に蹂躙され、彼女と〈ダゴン〉の追いかけっこで荒らされた挙句、〈五娘明王〉と〈深きもの〉どもとの激闘で完膚なきまでに破壊された海上の資源開発基地は、もう廃墟を通り過ぎてごみ溜めといっても過言ではなかった。
すでに海から上陸してきた〈深きもの〉どもはほとんどが蹴散らされ、蠢いているものはほんのわずかだ。
その中で、東西南北に別れた四人の親友たちが神通力を巡らせて四角い結界を作り上げ、それはいつもの馴染みきったプロレスのリングにも似た〈護摩台〉になっていた。
四本のロープがないのはノーロープデスマッチだとおもえばそれでいい。
コーナーポストがないので空中殺法に多少の不都合があるが、ルチャ・リブレのレスラーではない或子にはさほどの影響はない。
大切なのは、雰囲気だ。
自分の力を完全に引き出すためには馴染んだ環境に身を置くのが一番いい。
通常のスポーツに置いてもやはり自分のホームで戦った方が断然勝率が違ってくるのは数字上でも明らかである。
どれほど優秀なチーム、選手でもやはりアウェーの声援やブーイングに晒されたときは、肉体が緊張を強いるものだからだ。
それだけは経験を重ねるしか道はなく、例えば国際経験の有無が勝敗を左右するのは経験の大切さを物語っている。
御子内或子ほどの闘士でもそうだった。
慣れない環境での、初見の敵との戦いではいつも苦戦した。
敗北は知らないが、いつだって油断したら終わりの戦いばかりだった。
なのに、彼女は齢十八にして三桁を越す妖魅と激突し、ことごとく退けてきた。
その舞台はほとんどがこの〈護摩台〉でのことだ。
晩秋の神社で、深夜の校庭で、冬の住宅街で、海風の吹く砂浜で、渋谷の公園で、聖地後楽園で、絶海の孤島で―――〈護摩台〉の上でなら或子は負けたことがない。
〈
だから、こんな東京湾の海上にまで〈護摩台〉が設えられたことは奇跡であり、ありえないことであった。
しかし、これを用意したのもすべて人の業だ。
親友たちが力を使い、後輩がそれを紡ぎ、そして誰よりも信頼している相棒が人間の形を変えてまで用意してくれたのだ。
足元から優しい気持ちが伝わってくる。
升麻京一の心だった。
どうやったのかはわからない。
だが、先行してこの〈ハイパーボリア〉に辿り着いた同い年の少年は、邪悪なものどもの企みを打ち砕いたのみならず、不可思議な力をもってこの場に彼女のための
先のことはわからない。
京一を助けるための手段もわからない。
しかし、今は彼のなしてくれた奇跡の助力を活かすために立ち向かわなければならなかった。
「でりゃあああああ!!」
〈
二十メートルの体長を誇る圧倒的な体格差を持つ怪獣と正面切ってやりあえると確信できるほどの爆発的な身体能力を得たのだ。
十分な助走と踏み込みができれば、或子の脚力は15メートルの高さまで跳びあがれる。
そして、振りかぶって放たれる拳の重さは―――約10トン。
前屈み気味の姿勢の〈クトゥルー〉=〈ダゴン〉にとって、そのパンチは顔面の中央に突き刺さるほどの威力を持っていた。
例えば、170センチの人間に対して16センチの小人が挑んだとしよう。
単純に考えてサイズは十分の一だとしても、その小人の肉体に秘められた力が十分の一を超えていたとしたら、戦いの帰趨はわからなくなるだろう。
しかも、〈クトゥルー〉=〈ダゴン〉は升麻京一の張った結界〈護摩台〉のおかげで著しく力を減退させられていた。
なんとこの時点で、ちっぽけな人間でしかないはずの御子内或子と邪神の似姿の間の戦力差というものは、かなりの開きはあったとしても、どうにもならないほどに絶望的なものではなくなってしまっていたのである。
〈社務所〉が想定していたものとは違う形ではあったが、それよりもはるかに効果的で、かつ、人間のしぶとさが結実したカタチだった。
ゆえに、或子のただの拳の一撃はサイズ差を無効化したかのように邪神の爛れた脳幹をぐらつかせた。
『!!!!』
邪神はその緑色の液体とヘドロで汚れた鱗に包まれた貌をしかめた。
人間が読み取れる範囲では知性も理性も欠片もなさそうにみえる貌に明らかな痛みを受けたことによるひきつりが生じたのである。
入った。
四方から、戦いの趨勢を見守っていた〈五娘明王〉たちは見抜いた。
ちっぽけな或子の拳が〈クトゥルー〉=〈ダゴン〉に苦痛を与えたのだ。
邪神は動いた。
両手を掲げて、その掌で或子を叩き潰そうと手を合わせる。
しかし、自然落下には従わず、拳を当てた衝撃を回転することで逃がし、さらに空中に留まっていた或子はそのまま右の飛び蹴りを同じ個所に当てた。
今度は多少の苦痛では済まなかった。
〈クトゥルー〉=〈ダゴン〉の顔がひしゃげ、ややのけぞる。
体勢が崩れたことで掌で挟み込もうとした目測が狂い、或子は蚊のように潰れなかった。
それどころか、邪神の突き出た牙を踏み台にしてさらに跳びあがる。
そして、その体勢から縦に一回転して同回し回転蹴り―――いや、踵落としを〈クトゥルー〉=〈ダゴン〉の頭頂に見舞った。
邪神とて肉体があればそこには急所が生まれる。
快速艇アラート号の体当たりを受けて星雲状に分解してしまった1925年の時とは違い、〈ダゴン〉の肉体に顕現した〈クトゥルー〉には実体があった。
御子内或子の鍛え抜かれた技から生じるダメージで苦しまざるを得ないのだ。
媛巫女たちの素手の一撃には清浄なる〈気〉がこもっているため、邪悪な魔力で動く妖魅たちにとっては毒を撃ち込まれたように浸透し、筋肉・骨・内蔵を傷つける。
彼女たちが人間の決戦存在と呼ばれるのは、中味を破壊することができるように接近戦を猛特訓された結果、姑息な人間たちの使う術も武器も通さない邪神の表皮を確実に打ち抜くことができるからである。
今、御子内或子が〈クトゥルー〉=〈ダゴン〉に痛打を与えたように。
立て続けに三撃を与えた或子はそのまま床に降り立った。
まだ反撃がないのはわかっている。
一時間近くかけた〈ダゴン〉との追いかけっこ、先ほどの顕現した不動明王への攻撃、それらを分析した結果、邪神の動きの質と速度はだいたいの見当がついている。
だから、もし、やってくるとしたら……
「これだ!!」
巨大な肢の裏が降ってきた。
〈クトゥルー〉=〈ダゴン〉は手が短く、それで攻撃してくるとは思えない。
やってくるとしたらまた後肢でのものだけだろう。
尻尾は使わない。
使うと仮定はしておくが、余程のことがない限りは使わないだろう。
この邪神はおそらく人のように振る舞う本能を有している。
足の裏をかろうじて躱すと、或子は返す刀で〈クトゥルー〉=〈ダゴン〉の足の三本指の一本にしがみついた。
指は彼女の上半身ほどの長さと太さを持っていた。
がっしと両手で抱えたと同時に、跳びあがり、空中でがぶる。
ネックブリーカーの要領で捻られた邪神の指はありえない方向に曲がり、耳障りな破壊音を立てる。
或子はまず〈クトゥルー〉=〈ダゴン〉の指の一本を完全にへし折ったのだった。
足の指というものは偶蹄目でもない限り、体重を乗せるために必要な部位である。
例えばつま先は歩行・走行に対するブレーキのために重要な部位であり、ここに力が籠められないと移動がスムーズにいかなくなる。
しかも、軸足だった場合、ふらついたときに身体が支えられなくなるという不利益を被る。
生き物の急所の一つといってもいい。
そこを破壊されたのだ。
〈クトゥルー〉=〈ダゴン〉にとっては痛い損害だった。
逆に或子にとっては会心の攻撃だったともいえる。
ダメージを与えたからではない。
彼女の得意なスタイルが通じたから、である。
御子内或子が得意とする、巫女レスラーの技が決まったからであった。
「いける、通じる、ぶっ倒せる!!」
この世を荒らす邪悪な神々を掴んでは投げて叩きのめす、正義の退魔巫女である御子内或子のやり方で行けるのだ。
だから、勝てる。
邪神だろうとなんだろうと、ボクは〈
それが巫女レスラーであった!!
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