第210話「死ぬことよりも……」



 火の回りが異常なほどに早かった。

 かつてこういう危険なシチュエーションに置かれたことはないけれど、ほとんどスクラップと廃材しかないような場所で、何がこんなに燃焼しているのかわからない。

 ただ言えるのは、僕たちが殺人鬼を誘い込んだはずなのに、気が付いたら逆にピンチになってしまっていたということだ。

 紅蓮の炎がたち、ぱちぱちという音と熱気と煙が押し寄せてくる。

 四方からの熱気のせいですぐに汗がでてきて、流れ込む黒煙も濃度と量を増していく。

 さっきまでうつ伏せになっていた〈J〉はすでにのっそりと立ちあがっていた。

 ヘルメットの下から見える双眸がこちらを睨みつけている。

 殺すつもりなのだ。

 この火事の中でも。

 人間らしい瞳の輝きもない死んだ魚のような眼をした殺人鬼がいる。

 ちらりとヴァネッサさんをみた。

 彼女は殺人鬼を睨み返していた。

 決して負けない、屈しない、という意志がこもった視線だった。

 しとどに流れ落ちる汗さえも気にしていない。

 この瞳で、この眼差しで、スターリング家の女性たちは理不尽に襲い掛かる殺人者たちと渡り合ってきたのだ。

 そして、それは彼女からしてこの極東の島国でも同じことなのだろう。

 親子代々、彼女たちが勝ち取ってきた未来と生命は神聖なまでに尊い。

 僕たちと〈J〉の間に、巫女装束の背中が割って入る。

 元気づける様に声をかけて来てくれた。


「もう少し、辛抱してなよ。人はそう簡単に焼け死んだりはしない」

「……だね。ちょっとばかり温いけど」

「恵林寺の快川かいせん和尚ではないけれど、心頭を滅却しちゃえば火事場も戦場さ!!」


 うん、全然違うけど、御子内さんの戦慄したくなるほどのいくさ人ぶりは伝わってきたよ。

 その間に火が迫り、炎が屋根まで舐めはじめる。

 なんと〈J〉のツナギに火がついても、あいつは一向に怯まない。

 焼け死ぬのも平気とでも言いたいかのように。


「―――不死身の〈J〉は、レポートによると焼き殺された後に、湖の中に叩き落されたことがあるそうです」

「死体は?」

「発見されませんでした。ただ、そこにいるので生き返ったのだろうと言われています」


 なるほど。

 焼き殺された程度では死なない、ということか。

〈社務所〉が退魔巫女を送ったわけだ。

 世の中には信じられないことが山のようにあるから、不死身の人間がいたって別におかしいことはない。

 だけど、僕が良く知っていることがある。

 どんな不死身の化け物がいたって、それよりも強い人はいる。

 逃げないと決意し、戦うことを選んだ時に、人は化け物にも負けなくなる。

 スターリング家の女性のように。

 ―――巫女レスラー・御子内或子のように。


『ブモモオオオ!!』


 ついに殺人鬼が吠えた。

 転がっていた分厚い角材を手にして御子内さんに襲い掛かる。

 御子内さんはそれを飛んで躱し、〈J〉の肩に足を掛けると跳んだ。

 一気に手を伸ばす。

 その先にはフックのついた滑車とそれを上から垂らす鎖がぶらさがっていた。

 彼女はフックを掴むと、そのまま体操選手のようにバランスをとり、引きずり下ろす。

 降り立った先でそのフックについた鎖を〈J〉の首に巻き付けた。

 フックがツナギに引っかかり、思った以上に簡単に首を締め上げる。


「ぐっ!!」


 散々に暴れた〈J〉の腕が御子内さんの腹にぶつかったが、彼女は痛みをこらえて、さらにきつく巻き付ける。

 絡まった鎖のせいで身動きが悪くなった巨漢の腹に崩拳をぶちこみ、続いて裡門頂肘りもんちょうちゅうの肘をつきこんだ。

 パワーとタフネス、そして不死身性。

 突きつめていくと殺人鬼の能力はそれだけだ。

 妖怪のように必殺の秘儀をもっているわけではない。

 火の海の中でも勇敢に戦う彼女の敵ではないのである。


「―――升麻さん」

「なんですか?」

「早く或子さんとともにここを出ないと」

「もうすぐ決着がつきそうですが……」

「気をつけなくてはならないのです。ステイツの殺人鬼は神に背く悪徳に身を浸した背教者たちばかりだからかわかりませんが、ほとんどすべてのものたちの悪運が強いのです」

「どういう意味です?」


 彼女はこの火に囲まれた工場を見回して、


「この火は〈J〉の悪運がもたらしたものだと思います。奴らは追い詰められると、このような信じられない状況を引き起こしたりすることが確認されているのです。しかも、最初から意図したものではなく偶発的な事故のようなもので」

「―――」

「殺人鬼の起こすバタフライ・エフェクト。これがあるからこそ、あいつらは〈殺人現象フェノメノン〉と呼称されているのです」


 つまり、この危機一髪に近い状況を引き起こしたのは偶然ではなくて、〈J〉の悪運ということか。

 しまった。

 運ほど恐ろしいものはないと常々御子内さんたちが言っている通りに、今は優勢な彼女もいつまた劣勢に追いやられるかわからない。


 まてよ、運だと……


 自分のことを思い出した。

 ―――〈一指〉。

 僕だって、ある意味では折り紙付きの悪運の持ち主だ。

 御子内さんと殺人鬼の戦いを観察する。

 まだ、彼女の洗練された技が〈J〉を凌駕していた。

 蹴りや拳が一撃、一撃、不死身の肉体を削り取っていく。

 もうすぐ決着がつく。

 

「どっしゃあああ!!」


 御子内さんの雄たけびが轟いた。

 おそらく決着をつけるための大技を出すつもりの渾身の気合いだ。

 彼女は〈J〉の反撃以外、何も警戒していない。

 僕はその瞬間、ずっと〈J〉をぶら下げていたフックつきの鎖のかかっている滑車が音を上げて外れそうなのを見た。

 あれは、あのまま落下する。

 御子内さんへと直撃するコースで。

 普通はそんな偶然は起きないだろう。

 だが、あいつは、〈殺人現象〉と呼ばれる妖魅なのだ。

 ありえないような出来事が起きたって不思議はない。

 僕は駆けだした。

 間に合うか、間に合わないか、本当にギリギリの勝負だった。

 ただ、僕は〈一指〉という運命を持つそうだ。

 持ち主が、あがき、もがき、壁を打ち砕き、前進を続ける限り助けてくれるというちっぽけな運勢を。

 僕がありうるすべてを賭けて走れば、きっと御子内さんに届く。

 三歩ほど出足で進んだところで、滑車が外れる音が聞こえた気がする。

 やはり、そうきたか。

 御子内さんが〈J〉に対して、双掌打の発勁をぶちかまそう発動する瞬間だった。

 僕は彼女を抱きかかえて、火の海に飛び込んだ。

 ほぼ同時に背中からとんでもない金属音とともに何か軟らかいものに刺さる音がした。

 振り向かなくてもわかる。

 あの滑車か他の金属の梁か、何かはわからないが、とにかく落下してきたものが〈J〉を巻き込んだのだと。

 服に火が燃え移りそうな中、僕の腕を引っ張って御子内さんが走り出す。

 反対側からヴァネッサさんが逃げ出していたのも確認した。

 赤い火炎の中、不死身の殺人鬼の動かなくなった彫像のような死体を放っておいて、僕たちは工場から飛び出した。

 火事がこの建物だけですめばいいな、なんて無責任なことが頭をよぎった。


「―――ご無事でしたか?」


 ヴァネッサさんがやってきた。

 擦り傷とかはあるみたいだけど基本的に軽傷だ。


「まあね。トドメは差し損ねたけど」

「あれで死んだんじゃないの?」

「きっと生きている。もう一度、きちんとしたやり方で封印しないと厳しいかな」

「そっか……」


 相手は海を越えてきた不死身の化け物だ。

 やはり一筋縄ではいかなさそうだった。


「―――武士道とは死ぬことと見つけたり、なのですか?」

「どういうことだい?」

「さっきの、最後の、升麻さんが或子さんをわが身を顧みずに助けに飛び出したとき、私はそういう風に感じました。升麻さんもそうですが、或子さんも、日本の方はいつもそんな覚悟を決めておられるのですか? ……皐月も含めて」


 いや、そんなことは考えてないけど……

 と思ったら、ヴァネッサさんの難しい問いに御子内さんが答えた。


「侍だって生き物なんだから、当然死ぬのは怖いさ。死ぬのが恐ろしくない人間がいないと同様に、侍もできたら長生きがしたいものさ。でもね、侍という奴は、たぶん自分が死ぬことよりも誰かに死なれる方が嫌な生き物なんだよ。死ぬことよりも、目の前で誰かが死ぬのが怖いんだ」

「……」

「ボクはヴァネッサがあいつに殺されるのが怖かったから戦った。京一は、ボクが死ぬのが嫌だったから走りぬけた。……武士道とかそういうものでなくて、嫌なことを見たくないからできることをやっただけさ」


 御子内さんらしい答えだった。

 ただ、ちょっと嫌そうな顔をしながら、付け加えたりもした。


「……それは、そこの懲りないセクハラ小娘も一緒なんだと思うよ」


 僕たちが振り向くと、憮然とした顔の皐月さんが立っていた。


「今ならヴァネッサの乳を揉み放題だと思っていたのにバラさないでよ」


 両手をわきわきといやらしそうに揉み合わせながら、痴漢を働こうとしていた皐月さんは抗議の声をあげるのであった……

 

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る