第454話「正体不明の顔なし妖魅」
そのあとの出来事は、あまりに怒涛の展開すぎてついていけなくなりそうだった。
まず、私は或子に手を引っ張られて孟賀さんの店から連れ出されると、少し全力疾走をしてビルの解体工事中らしいビニール張りの空き地に入り込んだ。
もう暗くなっていて、ほとんど外灯の明かりしかない状態だったが、その中野にしては広い空間にあった物体については目を丸くするしかなかった。
四角くて、四方にポストが立っていて、それを四本のロープが繋いでいて、白いマットが敷いてある、それを。
どうみてもプロレスのリングとしかみえないものが設置されていたのだ。
その脇でロープのテンションを確かめていた、つなぎ姿の人物がこっちに話しかけてきた。
一瞬、相好を崩した或子だったが、すぐにしかめっ面になった。
「御子内さん、用意できているよ」
「そうでなければ困るよ!」
「シューズしか用意できなかったけど、いいのかな? 〈護摩台〉の上に置いておいたから」
「着替えている時間はないからね。―――京一は天子を頼む」
「任せて」
「人払いは?」
「藍色さんがやってくれているから、大丈夫だよ。御子内さんは準備しておいて」
すると、或子は口をとがらせ、
「また、藍色の手を借りたのかい。まったく、最近の京一は藍色や音子ばかり頼りにする」
「そういわないで。時間がなかったんだから」
文句を言っている間に或子はそのどうみてもプロレスのリングの上に飛びあがった。
ロープを利用したとはいえ、走り高跳びの選手のように軽やかなジャンプだった。
そして、制服のローファーを脱ぎ捨てて、上に置いてあった黒いブーツのような靴に履き替える。
「さすがにこれでないと踏ん張りがきかないからね」
「手袋もあるよ」
「サンキュー」
女子高生の制服のブレザーと、黒い革の手袋にどうみてもレスラーが履いているものと瓜二つのシューズ姿の珍妙なスタイルが完成した。
いったい、或子は何をするつもりなのだ。
或子の口ぶりから相当親しいだろうということはわかっていたが、それどころの騒ぎではなさそうだ。
私の知らなかった御子内或子という友達の持つ多くの謎の部分にかなり食い込んでいる存在だったということである。
見た目は普通の高校生で、取り柄なんかなにもなさそうなのに。
しかし、やぼったい制服の時と違い、作業用のつなぎに身を包んだ姿はなかなか筋肉質だ。
細マッチョというものかもしれない。
合コンのときの自信なさそうなおどおどとした態度は欠片もない。
しっかりとした仕事をして、それに誇りを持つ大人の男という様子だった。
ほとんどの同い年の男の子にありがちな張り子の虎めいた虚勢はない。
先入観なしで見てみると、或子がベタ惚れしていたとしても不思議はないかもしれない。
「あれかな。……えっと
升麻京一の視線の先には、マンションのベランダの柵に腰掛けるようにしてこちらを見下ろす黒い影があった。
仮面店のガラスに押し付けられていた皮が剝がされたような顔面は赤黒く腫れて無貌といってもよく、炭のように黒ずんだ皮膚に蝙蝠のような巨大でギザギザの羽をもっていた。
腰の下で揺れる長いものは尻尾であろうか。
牛のように巨大な姿はまさに悪魔そのものであった。
どうしてそんなものがここにいるのか。
あんなものが私たちを狙っているのか。
足が震え出していた。
恐ろしさのあまり咽喉がからからに乾いていた。
体液の分泌ですら妨害される恐怖。
人間というものがただの弱い生き物であることを思い知らされた瞬間だった。
「心配いりませんよ」
肩に温かい手が乗せられた。
升麻京一のものだった。
彼は言う。
「あいつの狙いは君の持っていたというデスマスクのようだし、それは今、御子内さんの手にある。あいつはまっすぐ彼女のところに行くから」
「そ、そうなったら或子が危ないじゃない! 助けないと!?」
「だから大丈夫。御子内さんは最強だから」
なんていうことだ。
私は自分の胸がどうしようもなく高鳴るのを意識した。
初めて見てしまったのだ。
男の人が全幅の信頼をたった一人に向ける確信に満ちた瞳を。
―――そんな眼差しを向けられる女の子になりたいと心から願わされるような、嫉妬もできなくなるような、純粋な憧れを私は抱いてしまったのであった。
◇◆◇
カアアアアアアン
どこからともなく甲高い金属音が鳴り響き、或子と黒い悪魔との戦いが始まった。
なぜ、そんなことになったかはわからない。
ただ黒い悪魔は或子が手にしたデスマスクに引き寄せられるように、羽根をばたつかせてリングにまで滑空していき、マットの上で女子高生と対峙した。
さっき店の前から突然消えたのはあの翼で飛んだからか。
ようやく合点がいく。
住宅街で或子が見つけ出せなかったのも、空を飛び回っていたからだろう。
しかも、実際に対峙してみるとわかるが155センチの身長の或子とでは、まったくサイズに公平感がない。
大人と子供並みに違いがある。
だというのに、或子は黒い悪魔と素手でやり合っていた。
というか、互角を遥かに越して圧倒していた。
黒い悪魔は鋭い鉤爪のような指を持っていたが、その攻撃はすべて触れる前に叩き落され、硬そうな皮膚は或子の拳の一撃を防ぎきれず、苦鳴を叫ばせた。
蝙蝠の羽根を使って逃げ出そうとしても、ある程度の高さまでいくと弾かれたように吹き飛ばされ、黒い悪魔は逃げることもできず、結局は或子との一対一の勝負が続くことになった。
とはいえ、或子との力の差は歴然。
黒い悪魔はなすすべもなく或子の拳打と蹴り技とバックドロップとはらい投げによって、マットを這いつくばされた。
はっきりいっていい意味での悪夢のような時間だった。
「凄い……或子……」
私は思わず口にしてしまった。
それだけ、或子の戦いはすさまじかった。
やっていることはまるでプロレスなのだ。
しかし、おふざけでもなく冗談でもなく、或子はあの恐ろしい悪魔相手に素手で戦い続けている。
私の隣にいる升麻京一は手渡されたデスマスクを持ってセコンドに立ち、なにやらアドバイスを飛ばしている。
二人とも真剣そのもので(あたりまえか。黒い悪魔は紛れもなく本物の怪物だったのだから)、私のことなんか忘れているようだ。
「私も知らにゃい妖魅ですにゃ」
いつの間にか、私の隣には巫女姿の少女が並んでいた。
一瞬驚いたが、妙な寝癖のついた猫みたいな髪型をした朗らかな笑顔のせいですぐに警戒心が溶けてしまった。
リングで戦っている私の親友にどこかよく似ていたこともある。
「あなたは?」
「すぐ近くの神社の巫女ですにゃ。あそこで戦っている女の子の同僚ですね」
「或子の……」
「ええ。あにゃたは或子さんの友達ですかにゃ」
「はい」
「はー、或子さんにも普通の友達ができたみたいでよかったです。いつまでも私らだけと付き合っていては不健全ですからねえ」
このネコミミ髪型の巫女は或子のことを大切に思っていてくれてるということがわかってとても嬉しかった。
「藍色さん、どう?」
「人払いは終わってます。このあたりは我が社の縄張りですからね。……でも、あの妖魅はにゃんにゃんですか? 私が知らにゃいやつですけど、また外来種ですか?」
「いや、僕もわからないんですよ。専門家の藍色さんたちでもわからないってのはちょっと異常ですね。……また、ララさんあたりが糸を引いているのかな」
「わかりません。また何かあるのかもしれませんが、私らの仕事は目の前の妖魅を叩き潰すだけにゃんで。私らとしては細かいことは全部京一さんにお任せ、ということにしたいですにゃ」
「藍色さんまで無茶ぶりしないでくださいよ」
二人が呑気に会話していると、マットの上の顔のない悪魔がまるでくすぐるような手つきで或子の脇腹を捕まえた。
初めて或子が触れられたのだ。
危険だ。
もしかしたらこれまでの優位をすべて引っ繰り返されるかもしれない。
だが、或子は私の予感をすべて裏切ってくれた。
「でやあああああああ!!」
或子は脇腹を掴んだ悪魔の手を脇を絞めることでがっちりと留める。
さらに手を交差させて、悪魔の太ももを掴んで極める。
そのまま脚を振り上げ、ブリッジをしつつ、反り返って逆さまに持ち上げる。
悪魔の首を肩に乗せる要領で持ち上げた。
信じられなかった。
あんな大きな怪物を、或子みたいな小柄な女の子が背負って持ち上げたのだから。
そして、或子は飛びあがった。
尻もちをつくような着地のショックで首と背骨を折り、股を裂く、複合技。
シンプルだが派手そのものの技を受けた瞬間、信じられない叫びを悪魔があげて二度と動かなくなった。
どこからともなく、ワン~ツ~スリ~というカウントが流れ出し、テンカウントとともに黒い悪魔は消えていった。
女子高生と悪魔の一本勝負はこうして或子の圧勝で終わった。
ピピピピピ
私の携帯が鳴りだし、その表示を見て私は凍りついた。
それはパパの番号だったからだ。
〔……もしもし、ノリちゃん? パパだけど、今大丈夫?〕
それは十八年間聞き慣れたパパのものに間違いはなかった。
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