第238話「レッスンONE」
相手は特別な行為をしているのではない。
ただ、ステッキを抱えて立っているだけだ。
それなのに私の脳幹に対してずっと強い刺激が与えられ続ける。
一瞬でも隙をみせたら、途端に食い殺される猛獣を前にしているような気分であった。
両手を前に出し、「
掴まえてそのまま極めて関節をとる。
そうすればいかに暗殺者〈砂男〉でも制圧することはできるだろう。
楽観はしていなかった。
それしか選択する余地はないのだ。
「どうした? 一日、立っているつもりか。戦うのか?」
〈砂男〉が前に出る。
私は圧に負けて下がった。
しっかりしろ、ロバート・グリフィン。こんなことで怖気づいてどうする!?
私は勇気を振り絞って仕掛けた。
振った右手がステッキの腹で防がれる。
二度振っても同じ形で防がれて、ステッキの柄を顔面に食らった。
怯んでしまったところ、腹部を蹴られた。
そのまま吹き飛ぶが、なんとかたたらを踏んでこらえる。
もう一度飛びかかるが、下から回ってきたステッキに顎を殴られ、動きが止まってしまったところの軸足を刈られた。
倒れそうになると腕をステッキを梃子として極められ、肩の骨が悲鳴を上げる。
ステッキの先端が喉を衝き、私はビリヤードの手玉のように弾かれた。
ほんの二秒ほどの間で、私は地面に背中から倒れこんでしまう。
見えない訳ではない。
ただ、あまりにも速いのだ。
しかも、〈砂男〉はほとんど背筋を張った仁王立ちのまま、私の攻撃をいなし、逆襲してきた。
まさに、あしらわれたとしか言いようがない。
「まったく訓練をしていないということではないようだな」
「……」
「鍛え直せばまだ使えるか」
「ごめん被る」
私はコートを脱ぎ捨てると、身軽になった身体でタックルに入った。
正統なタックルではなく、肩を前面に出したショルダーチャージといってもいい。
スクール時代のラグビーではどんな大男でも吹き飛ばした私の十八番だ。
だが、そんなものはプロの暗殺者には通じなかった。
〈砂男〉は左掌で肩を押さえると、身を捌き、ステッキを私の股の間に差しこむ。
膝の裏を押された。
子供の遊びに膝カックンというものがあるが、それと同じ理屈で私は体勢を崩す。
そこを前蹴り。
空手の技のようなものではない。
乱闘向けの雑な蹴りだ。
ただ、そんなものでも私は無様に倒れて地面を転がり、這いつくばることになる。
強い。
脳裏に浮かぶのはただその一言だ。
てんと戦ったときはまだ透明化していたこともあり、ここまで圧倒されなかったが、まともにやりあっても勝てる自信はあった。
しかし、この〈砂男〉は違う。
潜ってきた修羅場の数が段違いなのだ。
格闘で勝てるとは到底思えなかった。
加えて言えば、こいつは〈砂男〉の名称の元である妖精の力をまるで使っていない。
まだ底が有り余っている。
戦慄で震えた。
ここまで差があるとは……
「レッスンをして欲しいのか、グリフィン。残念ながら、吾輩はあまり暇な訳ではないのだ。早く君を倒してパブで一杯やりたいところでね。……あと、吾輩はもうすぐ始まるノースロンドンダービーを観戦しなければならんのだ。ブックメーカーにいくらか賭けているからさ。君はどこを応援しているんだい?」
「……私はクローリー・タウンFCのサポーターでね。プレミアには興味ない」
「そうか。国外にいても応援するチームを替えないのは良いことだ。知っているかい? 車と女は乗り換えられてもチームは乗り換えられないという言葉を。ACミランのサポの言葉だ」
「わかるよ」
「いいね。フットボールのファンはそうでなくては。―――では、レッスンを続けるとしよう」
〈砂男〉はステッキをサーブルのように構えた。
先程身をもって体験したことから、あのステッキのなかには鉛が仕込まれていることはわかっている。
あれでしこたま殴られたらいくらなんでも悶絶して気絶してしまう。
普通なら重くて使いづらい凶器だろうがこいつに関しては別だ。
化け物め。
「どうした、もう降参か。わざわざ、この¦通り《ストリート》の気味の悪い同性愛者を追い出して作った場所なのだ。もっと抵抗してくれないと張り合いがないぞ」
同性愛者を追い出して……?
さっき眠っていたやつのことか?
「やはり、私を誘い出すためにやったのか? この区の住民たちを無差別に眠らせたように?」
「そうだ。こんなゲイの溜まり場のような街、吾輩にとっては不浄極まりないが、砂を掛けても微塵も心が痛まない連中なので助かったぞ。まあ、極東のアジア人などに割く心など欠片もないがね」
「……おまえの能力では下手をすれば眠りについたまま一生目を覚まさないこともあると聞いている。それなのに罪悪感の一つもないのか?」
「無論。同性愛者やアジア人になにを感じろというのだね?」
このとき私は熊埜御堂てんのことを思い出した。
敵の骨を折り、関節を破壊することを厭わないサイコパスのような少女のことを。
私は彼女に恩があるが、今までてんを理解出来ていたとは思わない。
彼女は本当にキュートでクレイジーな少女だからだ。
ただ、彼女の根底には隠しきれない優しさがある。慈愛がある。聖母の心がある。
他人を虫けらのように扱うことを決して許さない慈悲がある。
だからこそ、英国に送り帰されるところだった私を匿ってくれたのだ。
もし英国に戻っていたら、私は眼前の男のようなものに作り替えられていたであろう。
彼女は私の恩人だ。
私ひとりを誘い出すために、何人もの人間を危険にさらすこいつのようなものにならなくて済んだことを感謝する。
そして、いつもてんが抱いている義憤というものを私はついに形あるものとして内包した。
「……見るだけで嘔吐くほどの幼稚な悪、というのはおまえのような奴のことを言うのだな」
「なんだ、急に」
「なるほど、ようやく私もてんのことがわかるようになってきたぞ」
こいつはEUから英国が離脱するかどうかを左右するために暗殺者を用意をしにここにいる。
つまりは暴力で世界を変える気なのだ。
てんも暴力を使うがそれとは決定的に違うものがある。
これがなければ、暴力など所詮は実力の行使でしかない。
だが、これがあるだけで光が射す方向はまったく逆のものに変わる。
「善なるものとはこういう気持ちになるものなのか」
大人の考えや政治的思考など関係ない。
プリミティブな感情に支配されろ。
人をゴミのように扱うものを許してはならない。
「私は変わるぞ、〈砂男〉。魂ぐらいは退魔巫女に寄り添えるようになるためにもな」
私は顔の包帯を剥ぎ取った。
少しでも動きやすくするために。
このプロの暗殺者を凌駕するために。
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