第239話「グリフィンとコッペリウス」



 エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマンは、ドイツ出身の幻想文学作家である。

 エドガー・アラン・ポーよりもさらに独特な現実と夢想が入り混じった作風の持ち主であるが、当時はともかく現在ではほとんど知られていない作家となっている。

 そのホフマンが1817年に発表した「夜景小曲集」という短編集に収められたのが、「Der Sandmann(砂男)」であった。

 内容としては、ナタナエルという青年が幼馴染のロタールに宛てて書かれた手紙の中で、彼が実在を信じる、眠らない子供の目玉を奪っていくという「砂男」についての語り、彼の父親のところに来訪する老弁護士がそうではないかと確信することから始まる。

 老弁護士の名はコッペリウスといい、彼はナタナエルの父の書斎で、謎の爆発によって行方不明になっていた。

 そして、成長した彼の下宿先にコッペリウスにそっくりの晴雨計売りコッポラが現われ、そこからナタリエルが市庁舎の塔の上から落下するまでの物語が綴られていくのである。

 全編にわたって、「目玉を抉りだす」砂男という不気味なキーワードに支配された内容はジクムント・フロイトの研究材料にもなり、様々な分析がなされていく。

 幻想文学の枠には含まれているが、私はこの物語がほとんどノンフィクションであると確信していた。

 なぜなら、私の近いご先祖さまについて、H・G・ウェルズが取材した結果、「透明人間」が書かれたことを知っていたからだ。

 さらに倫敦を本拠地とする魔導機関ディオゲネス・クラブにいるコッペリウスという名前の暗殺者のことは有名であった。

 おそらく今の私の眼前にいる〈砂男〉は、ホフマンがモデルにしたコッペリウスの遠い子孫に違いない。

 ディオゲネス・クラブがグリフィン家と同様に抱え込んだ、妖精の血を引く一家、それが眠らない子供の目玉を奪っていくという砂男の正統な末裔なのだ。

 私はシャツまで脱ぎ捨て、上半身を裸にする。

 これで準備はできた。


「ほお。すべて脱衣して透明にならないのか」

「透明人間相手の対策はしていると睨んでいる。天下の〈砂男〉がなにもしないはずがない」

「それは当たっている。では、レッスン2に入るとしようか」


〈砂男〉コッペリウスはステッキを構えた。

 もともとステッキは欧州の紳士にとっては護身用の武器である。

 芯に鉛を詰め込んだやつのものであれば、十分に敵を撲殺するだけの凶器となりうる。


「透明に頼り切らないところは見どころがあるな」

「ぬかせ!」


 私は今度こそ本気で〈砂男〉に飛びかかった。

 下半身はスーツのパンツを掃いているので透明ではないが、シャツと包帯を剥いだ以上、上半身はグリフィン家の人間に相応しい透明の姿だ。

 だから、傍から見るとズボンだけが砂男に向かっている奇妙な光景に見えるはず。

 こうしたのは理由がある。

 全裸になって透明になったとしても、それで必ずしも優位に立てるとは限らないからだ。

 てんとの戦いでもわかったが、透明人間のメリットは、突き詰めれば奇襲を掛けやすいことと動きを読み取られないことにある。

 逆にいえば、それ以外はないのだ。

〈砂男〉のように私のことを把握して来たものだと、おそらくきっちりと対策を練ってきているだろう。

 逃げ出すことができないとなれば、全身を透明にするのは無意味だ。

 正面から挑むのならば、むしろ透明は部分化した方がいい。


「ぬっ!?」


 私の拳が伸びた。

〈砂男〉は必要以上に後方に跳躍する。

 おそらく腕のリーチが読み取れなかったのだろう。

 つまりは私のすべてを見切れている訳ではないということだ。

 上半身だけの透明とはいえ、これは通用する。

 しかも、その際に足を使うことで、普段は不可視ということで逆に無意味なフェイントもできる。

 いかに〈砂男〉といえど見えないということは確実にプラスに働いていた。

 

「くっ」


 裏から手首を掴んだ。

 

「えいっ!!」


 そのまま引き寄せて極めようとした。

 だが、掴んだと同時に力が逆流する。

〈砂男〉が私の力をタイミングで外したのだ。

 手をとられたまま引きずり寄せられ、肩を取られる。

 身体が見えなくても関節はとれるということか。

 私はバランスを崩さないように、左手で〈砂男〉の太ももを取り、タックルのように抱え込んだ。

 一気に押し倒す。

 ステッキの間合いの中に侵入し、直接、私のレスリング「キャッチ・アズ・キャッチ・キャンCatch As Catch Can.」で骨をいきなり叩き折る。

 それで戦闘不能にする。

 だが、押し倒そうとした〈砂男〉はそう簡単にこちらの思い通りになってはくれなかった。

 下方から膝蹴りが私の腹を貫いた。

 鳩尾に入ったからか、内臓ごと持っていかれそうな痛みに襲われる。

 ただし、掴んだ手は離さない。

 キャッチしたまま、さらに掴みキャッチ、立ったまま首をひねりあげる。

 スタンドでのがぶりだ。

〈砂男〉を立ち技で落とすために力を籠める。

 これで終わりだ、と確信を持つ。

 しかし―――


 ふぁさ……


 私の顔に細かい粒子のようなものがかかった。

 

「うっ!!」


 喉が焼けたように熱くなる。

 これは……

 まるで火事場の煙でも吸い込んだかのようだ。

 思わず噎せる。

 おかげで締め上げていた力が緩む。

 そこを見逃してくれるヤワな敵のはずがない。

 私は背中をとられ、首を絞められる。

 不可視であっても密着してしまえばあとは関節をとるかとられるかの争いだ。

 だから、さらに私は両手を振って回転し、もう一度捕らえようとしたが、指が滑る。

 サヴィル・ロウの高級生地が私の指の摩擦をするりと流してしまったのだ。

 いい位置をとられた。

 ステッキの横っ腹が顔面をへこませた。

 私はよろめき、またも腹に膝蹴りを受ける。

 その勢いでもう一度顔を叩かれ、膝が崩れる。

 人体の急所である顎を直撃されたのだから当然だ。

 無様に膝をついてしまう。


「くっ……!!」


 しまったとしかいえない。

 これほどの接近戦で不覚を取ってはどうしようもない。

 透明で見えないという利点を生かしたとしても、私は〈砂男〉には敵わないということか。

 実戦を経てきた暗殺者相手にするには私では力不足だったのかよ……

 あまりにも呆気なく負けるのかと哀しくなった。

 さっき顔に当たったのはまぎれもなく〈砂男〉の「砂」だろう。

 眼に当たっていないので眠りに落ちてしまうことはないが、遅かれ早かれ私は昏睡状態に落とされる。

 てんに何と言って詫びればいいのか。

 私を誘い出すために犠牲になった区民になんといえばいいのか。

 良くしてもらった恩も返せずに私は〈砂男〉によって英国まで連れて帰られる。

 あとは、権力者に言われるがままに人を殺し続ける人生になるだろう。

 日本で暮らした平穏な十五年はついに終わるんだな。

 ……そんな諦めが脳裏をよぎったとき、


 パン パン


 と何か軟らかいものが破裂するような音がして、私の首に手を掛けていた〈砂男〉が飛び退った。

 いったい、何が起きたのかという問う前に、聞き覚えのある声がした。


「―――何者かはしらないけど、ボクの縄張りで勝手な真似はしないでもらおうか」


 公園の入り口に少女と少年が立っていた。

 少年は何の変哲もない格好をしていたが、少女の方は紅白の巫女装束に身を包んでいる。

 

「どなたですかな?」

「知らざあ、言って聞かせようか。―――ボクの名は、関東鎮護の退魔の媛巫女、御子内或子さ」

「ほお」


〈砂男〉が表情を変えた。

 私の時には見せなかった変化だ。


「……君が噂の、〈社務所〉の巫女か」

「悪いが、その透明人間はボクの後輩の助手で、大事な労働力なんだ。まだ搾取しきっていないので連れていかれたら困るんだよ」

「御子内さん、オブラートに包んで……」

「もとい、大切な仲間でね!」


 二人で漫才をするのはやめてくれ。


「あと、これはボクの勘だけどキミが最近の昏睡事件の犯人ということで間違いないかい?」

「……だとしたら、どうするのかね?」


 御子内或子は拳を握った。


「罪もない民草を自分の都合だけで眠らせて、命の危険まで与えた罪をボクが許すわけはないだろう。このまま、一発入れて叩きのめしてあげるよ」


 ああ、この娘ならそういうと思った。

 例え相手が妖精の血を引く暗殺者であったとしても。

 てんの同類というのならそう言うだろうと。

 

 ―――きっとわかっていたのだ。


 

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