第452話「前門の仮面後門の怪物」



 人の顔につけられるような仕組みとはいえ、デスマスクを被ると顔面だけが盛り上がったような不気味な姿かたちになった。

 しかも、やはり石膏づくりの顔が重いのか前屈みになるせいで、まるで猿を思わせた。

 背が高く均整の取れたアスリートのようなスタイルをしている孟賀さんが、そんな風に変貌したところは気色悪かった。

 仮面が飾られた狭い店内の隅に私は引っ張って行かれた。

 或子が自然に私を庇ってくれている。

 

(これか)


 そう私は感じた。

 何か異常な現象が起きているというのに一切無視して、躊躇もなく私を庇って守ろうとする或子の姿。

 これを体験したからこそ、きららたちは或子を恩人として考えているではないか。


「―――天子、ボクがあいつに近づいたら、すぐに店から出ろ。ここはものが多すぎて、ちょっとでも暴れられたら何が起きるかわからない」


 確かによくあるガラスで覆われたショーケースばかりの店内では、ガラスが散乱して大怪我をしてしまうかもしれない。


 ガシャアアアン!


 カウンターに設置してあったレジスターを孟賀さん―――いや、もうただの怪物だ―――が叩き落したのだ。

 床に小銭が散乱して酷いことになる。

 人間というものは小銭の落ちる金属音というものがとても耳障りに感じるらしく、ジャラジャラとした音のせいで耳が痛い。

 ところがデスマスクをつけた孟賀さんは気にもならないらしい。

 肩で荒い息をしながら、ほとんど動かない。

 ぶるぶると膝が震えているからか。

 手が顔にかかる。

 ムンクの叫びのようだが、あの幻想的な絵がギャグにしか思えないほど悲痛な呻きが聞こえた。


『―――ヲォォォォ!! ミィEEEEEEEウイデェェェ!!』


 背中に口があるかのような大音声。

 ショーケースのガラスにピリピリと罅が入る。

 巨大なスピーカーからアースシェイカーが轟いたようなまさに瀑布めいた衝撃波だった。

 陳列されていた仮面がことごとく倒れる。

 声の震動によって横から殴られたみたいだった。


「逃げないと……」


 背中がガラス戸に当たった。

 出入り口だ。


「或子、出口に着いたよ。一緒に逃げよう!!」


 さっきの提案を反故にして、共に行こうと誘った。

 どんなに勇気があって漢気があっても、或子一人をあんなおかしくなった男性のもとに捨てておけない。

 だけど、或子は振り向きもせずに背中で語った。


「なに、心配することはないよ。天子のりこは外に出て助けを呼んできてくれ」

「でも、いくらなんでも!!」

「ボクは無敵のJKだから、この程度危機ですらないよ」


 強がりとは思えなかった。

 或子はこういうときに荒唐無稽なことを言う女の子ではない。

 格闘技をしているという話は聞いたことがあるが、空手か何かをしているのだろう。

 無理に連れ出そうとしたりできそうになかった。

 それに私みたいな足手まといはさっさと逃げた方が、いざというときに或子だって動きづらいだろう。

 私はクズになる決意をした。

 友達を見捨てて逃げるのだ。


「ごめん、或子!!」

「うん、先に行け」


 後ろ手に出入り口の把手を掴んだ。

 あった。

 強く握って振り向いた。


「っっ!!!」


 ドアを開ける手が止まる。

 別に鍵がかかっている訳ではない。

 私の目に映ったものに驚いてしまったのだ。

 透き通って外の道が見通せる全面ガラス張りのドアの、私たちの視線と同じ位置の高さにべったりと何かの貌がくっついていた。

 黒ずんだ、孟賀さんの肌など比べ物にならない、焦げたようなカサカサの乾いた皮膚をして瞼もなく、濁った黄色をした黒目のない眼ともげた鼻と歯の抜けた口をしたある意味では作り物めいた貌だった。

 それが赤い舌をだし、吐いた息でガラスに白い結露が生じている。

 べったりと貌をつけて店内を覗き込んでいるのだ。

 胴体はさらに黒くてなんだからわからない。

 ただ頭部の大きさと比較してもやたらとでかく感じる。

 しかも丸くてなんだか牛みたいだ。

 そして、そいつは言った。

 ガラス越しなのにはっきりと聞こえてきた。


『ソコノ貌ガ欲シイノ』


 舌足らずな子供のようだった。

 でも、幻聴なんかではない、本当にヒトの声だ。

 本当の意味での「人」かは疑わしかったけれど。


「うわっ、うわっ!!」


 思わず背中合わせになっていた或子にぶつかってしまう。

 

「なんだい? 何かあったのかい?」


 或子は振り向きもしなかった。

 背中にしがみつこうとする私の手を見ないで払いのけているが、その視線を今なお呻き続ける孟賀さんから離そうともしない。

 恐怖からではない。

 一切の隙を見せないため、敵の動きから目を切らないのだ。

 それでようやく私は或子が本物の達人だと理解した。

 彼女が振り向くのは、なのだ。

 だから、私が説明するしかない。


「ドアにべったりと変な男が貼りついているの!! 化け物みたいな黒い奴が!!」

「人間か? そうでないか?」

「はてしなく人間じゃない感じがする!! あと、貌が欲しいとか言ってる!!」

「―――わかった。外に出るな。絶対に扉を開けるんじゃないぞ」

「うん!!」


 私は涙目どころか泣きだしていた。

 よく状況をうまく語れたものだと呆れてしまうぐらいに。

 前門の虎後門の狼じゃないが、前も後ろもなんだかわからない様相を呈し始めているので、精神の均衡がそろそろまずくなってきていたのだ。

 或子がいなければ発狂していたかもしれない。

 発狂してどちらかの恐怖の存在に突っ込んでいってしまうか、失禁とかまでしてへたり込んでしまうかどちらかだったろう。

 そのくせ、今はいているショーツを汚したくないなとか意味のないことを思い浮かべたりもした。

 

 ふと、背中が軽くなった。

 或子がいなくなったのだ。

 彼女と違って私は達人でも何でもないので、把手を握ったまま振り向くと、或子がまだムンクのポーズのまま呻き続ける孟賀さんへ跳びかかっていた。

 狭いとはいえ、一瞬で懐まで入り込むと、彼の服の襟を掴んだ。

 左手の服の袖も掴む。

 そして、脚を股の間に差し入れて、投げた。

 惚れ惚れするような柔道の投げだった。

 空手ではなくて、或子は柔道家みたいだった。

 両足がくるりとキレイに回転して、大柄な孟賀さんは床に転がった。

 叩き付けるというよりも優しく寝かしつける、といった方がいいこんなにも柔らかい投げ技を私は見たことがない。

 ただし、孟賀さんを寝かしつけた後の或子の動きは素早かった。

 即座に、顔に貼りついたようなデスマスクをひっぺがしたのだ。

 孟賀さんの端正な顔が青白く燻んでいた。

 気を失っているようだ。

 これで彼はなんとなったというのならば、あとは……


「えっ!?」


 扉の外に貌をつけていた化け物はどこかに消え去っていた。

 気配も音も何もしなかったのに。

 慌てて或子の言いつけを破り外に出てみたが、もうどこにもいない。

 あんな大きな牛のような巨体がいったいどこに消えてしまったというのだろう。

 まさしく狐にでもつままれたように私が店内に戻ると、或子が例のデスマスクをじっと見つめていた。


「どうしたの?」

「いや、さっきボクがこいつをつけて様子を見たときには何も起きなかったのに、変だと思ってさ」

「そういえばそうだよね」

「まあ、いい。この男を奥につれていこう。自宅兼アトリエでもあるようだから、横にさせる場所ぐらいはあるだろう」


 そう言って、私たちは孟賀さんを運んで奥へと入った。


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