第193話「或子とサクラ」



 あたしは、ようやく普通にいびきを掻き始めた〈寝惚堕〉の様子を確かめるために、奥に戻った。

 変化は―――ない。

 お姉さまに発勁なるものを叩きこまれた怒りはとうに冷えてしまったらしい。

 怒りすら長引かない、その怠惰さが〈寝惚堕〉という妖怪の特徴なのだという。

 しかし、下手に暴れられたら、この家ぐらいだったら完全に壊されてしまうだろう厄介さはあるみたい。

 あの部屋から一歩も出てこなければその限りでは害のある妖怪ではなさそう。

 でも、放っておくことはできなかった。

〈寝惚堕〉がサクラのお母さんの化けたものであるというのなら、あの子の変貌についても関係があるのかもしれない。

 退魔巫女のお姉さまという存在があるからこそかもしれないけど、元に戻せるものなら人間に姿にと願ってしまった。

 サクラという一人娘を失くして、彼女が悪霊となってしまい、しかも自分までが妖怪になってしまうなんて……

 助けてあげたかった。

〈寝惚堕〉の醜悪な容姿を目撃してしまったあとでは、その思いはさらに強くなっていった。

 あんな肉襦袢さえも通り越した塊のままでいさせていいのか、と。

 部屋に近づくと、さっきの壁の穴も出入り口も塞がれていた。

 白い肉の壁によって。

 こちら側に〈寝惚堕〉がもたれかかったのか、それとも意図的なのか、少なくとも既存の出入り口を使って中に突撃することはできなくなっていた。

 お姉さまは隙間から突入するつもりでいたみたいだけど、あの肉の壁を突破していかなきゃ不可能なのできっと無理だったろう。

 壁を破るという手もあるけど、もっと直接的な方法があった。

 あたしは、天井に向けて叫んだ。


「あ姉さまっ! どうぞ!!」


 合図と同時にお姉さまは動き出したはずだ。

 数秒の沈黙の後、ズシンと建物全体が震えた。


 バガン!!


 天井から夥しい埃が落ちてくる。

 何も知らなければ地震、しかも震度でいえば5か6ぐらいの揺れが襲った感覚だった。

 あたしも足元がぶれて、壁に寄りかかることになってしまう。

 それほどの大きな揺れだけど、震えたのはただ一度だけ。

 それはそうだろう。

 これはお姉さまのやったものだからだ。

 地震と同時に部屋を密室化していた肉がめくりあがる。

 あたしは危険なのを覚悟して、壁の穴を覗きこむ。

 ひと目で状況がわかった。

 八畳間の和室の天井に大きな穴が空いている。

 さっきまではなかったそれを穿ったのは、お姉さましかいない。

 そして、その通りだった。

 お姉さまは震脚という、全脚力を注ぎ込む踏み込みをすることで二階の床をぶち抜いたのである。

 一軒家の床を踏み抜いて自分が落下するだけのスペースを作り上げるという荒業ができるのは、おそらく世界中を探してもそんなにいたりはしないだろう。

 そして、自分でぶち空けた穴に飛び込み、落ちていく瞬間に、練りに練っていたあらん限りの〈気〉を発勁で叩き込んだのだ。

 例え、〈寝惚堕〉の豊富なお肉がクッションになっていたとしても、二階から一階に落ちる時間はほんの一瞬。

 瞬きする程度の刹那の時間。

 お姉さまは精確に、確実に、掌打を妖怪の顔面にヒットさせたのだ。

 しかも、体操のメダリストのように両足で着地までしていた。

 あたしが知っている限り、彼女の身体能力はほとんどトップアスリートレベル。

 信じられないような奇跡的なアクションを魅せたとしてもお姉さまはいつもと同じように泰然と腕を組んで立っている。

 彼女の足元の〈寝惚堕〉の肉体はぴくりともせず、それどころか、かつてあたしも見たことがある〈高女〉の最期のように薄く消滅していく。

 もう数分もしたら、この部屋を埋め尽くしていた妖怪〈寝惚堕〉は跡形もなく消え去って、サクラのお母さんの身体だけを残すだろう。

 そうなってから、初めて、彼女は助かるのだ。

 だけど、室内で仁王立ちをしているお姉さまの顔は鬼のように怖いままだ。

 まるでまだ敵がここにいるみたいに。


「―――涼花、いったん、外に出よう」

「でも、サクラのお母さんは……」

「衰弱はしているだろうが、命に別状はないはずだ。救急車を呼ぶにしても、ボクたちも新鮮な空気を吸った方がいいだろうね」


 何かを言う前に、あたしは強引に外に連れ出された。

 去り際に、部屋の中でしどけなく横たわるサクラのお母さんの姿が見えた。

〈寝惚堕〉そのままに全裸のようだったので、風邪をひかないか心配だったが、確かにお姉さまの言う通りに息はしているようだった。

 もう夕方どころか陽が完全に暮れかけていた。

 あたしたちは玄関の軒先で、カバンの中に入れておいて温くなった水を飲んだ。

 まだ、九月の残暑ということもあり暑さで咽喉が乾ききっていた。


「……一応、〈寝惚堕〉は片づけて良かったということにしようか」

「でも、これでサクラも成仏できるんじゃ……」

「涼花は勘違いしているようだけど、あの〈寝惚堕〉のせいでサクラがあんな悪霊じみた堕ち方をしたわけではないよ」

「えっ」


 あたしにはお姉さまの言っていることがよくわからなかった。

 ?

 戸惑っていると、


「うん、まあね。―――元凶といったら、妖怪よりはむしろ……」


 珍しく言いよどんでいるお姉さまが、腕組みをしていたら、


『―――すずちゃん、ここにママがいるの?』


 と、怖気の走る声がした。

 振り向いたら、そこにはサクラがいた。

 

「ちっ、忘れていたよ。〈護摩台〉に使われる結界は、妖怪を外に逃がさない効果があるけど、入るのはすごく簡単だったっけ」

「サクラ……」

『ママがそこにいるの』

「―――い、いないよ」


 思わず首を振ってしまった。

 今の悪霊となったサクラに母親と合わせる訳にはいかない、と。

 だが、背反する気持ちもあった。

 せっかく離れ離れになった親子が再会できるチャンスを棒に振ってもいいのか、とも。

 例え、それが妖しい力によるものであったとしても。


『ママ―――』

「サクラのお母さんは……」

「この家の奥にいるよ」


 あたしが嘘をついて誤魔化そうとしたのに、それを遮ってお姉さまが答えてしまった。

 サクラのお母さんの居場所を。


「えっ!?」

「キミは母親に会いたいんだろ、一階の一番奥で寝ているから行けばいい。ボクも涼花も邪魔はしないからさ」

「待って、お姉さま!! サクラをお母さんに会わせるのは……!!」

「いいんだよ、涼花。このまま行かせてもいい」

「でも!」


 あたしがサクラの前に立ち塞がろうとしても、お姉さまに止められた。

 見たこともない怖い顔をしていた。


「……いかせてあげてくれないか。きっとサクラは母親に会いにこの世に戻ってきたんだからさ。奇跡に導かれてね」

 

 こちらに視線すら向けずに、サクラは赤いワンピースの裾を翻して、建物の中に入っていった。

 すでにサクラはあたしたちのことなんか眼中にさえ入っていないようであった……


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る