第192話「妖怪〈寝惚堕〉」
「〈
「ああ、そうだ」
あたしは、そのあまり聞いたことのない妖怪の名前を舌の上で転がした。
語感からすると、かなりユーモラスな妖怪である。
ただ、お姉さまの顔つきからすると、油断できる相手ではなさそうであった。
「―――ジャバ・ザ・ハットって知っているかい?」
「えっと、スター・ウォーズの?」
「うん。あの、醜く太って、ブヨブヨした宇宙人さ。〈寝惚堕〉はあいつによく似ている」
お姉さまが靴のまま、屋内に入る。
普段の巫女服ではないからかリングシューズでもない、ただの学校指定のローファーだ。
他人の家に上がり込むとはいっても、靴を脱ぐ余地もないごみ溜めみたいなところなので、行儀を気にするつもりはないみたい。
もっとも、あたしも靴下を汚したくはないので脱がないけど。
擬音にすると、ゴゴゴゴゴゴゥ的ないびきの音は奥から聞こえてくる。
二階に上がる階段の裏手、廊下の突き当りの右、普通ならば家族の寝室があるような場所が発信源のようだった。
「ボクもさすがに現物は拝んだことがないけど、以前、先輩から聞いた話ではかなりぶくぶくと膨れているそうだ。ちょっと人間には見えないという話さ」
廊下のスイッチを入れても、電灯は点かない。
元が切れているのか、もしくは電気料金の支払いを滞納しているかってところね。
家の中がこの惨状だと、きっと後者っぽい。
「暗くなる前に片をつけたいところだね。―――夜になるとなにが起きるかわからないから」
「はい」
お姉さまは階段を避けて、奥へと進む。
あたしもそれについていった。
一応、足手まといにならないように用心して動く。
うちのお兄ちゃんみたいに、少しでもお姉さまのお役に立ちたいのだ。
『ゴォォォォピュュュュフゥゥゥゥ……』
いびきが少し呼吸音のようになってくる。
これでようやく『いびき』だと実感できた。
それまでは下手をしたら地鳴りにしか聞こえないのだから。
「奥の部屋か……」
その瞬間、閉まっていた部屋のドアが開き、中から白い餅のようなものがだらりと零れ落ちた。
びっくりしていたら、その餅が動く。
人間が何かを掴むように、わきわきと蠢いた。
白い猫かなにかかかと思ったが違う。
最初の印象が正しかったのだ。
それは、手首だった。
まるで丸々と栄養が詰まった芋虫のような太い指と、一切陽に当たっていないからか病的な白い皮膚をもって手首だった。
大きさからして、普通の人の手の五倍ぐらいはあるかもしれない。
指を伸ばしきれば、ほとんど野球のホームベースだった。
その手首から先は部屋の中に繋がっているようだった。
「お、おっきいです……」
「うん。〈高女〉や〈手長〉〈足長〉以上のサイズだ」
「―――あれが手なんですか!?」
お姉さまは頷く。
あの大きなものが人の形をしたものの手だなんて……。
しかも、位置からすると、どんな格好で横たわっているのだ。
「危ない!!」
突き飛ばされた。
同時に、壁が内側から破壊されて、マンホールの蓋大の穴が空く。
そこから顔を出していたのは、また信じられないサイズの人の脚の指と甲だった。
蹴飛ばしてきたのだ、壁を破壊する力をもって!
室内にいるものはそれだけ化け物めいた力を持っていた。
「ひっこめ!」
お姉さまがパンチを喰らわせると、そのまま中に戻っていった。
ただ、おかげで内部の様子がわかるようになった。
用心しつつ覗き込むと、仰天する光景があった。
床一面に白い餅が敷き詰められているような第一印象は、ある意味では間違っていない。
白いのが人の皮膚の色であり、餅のようなものが実は豊満すぎる肉だったということを除いては。
あたしは息を呑んだ。
おそらく八畳間だろう、和室と思われる部屋の内部には収まり切れないほどに巨大化した人間が詰まっていたのだ。
巨大化というよりも、肥大化?
とにかく太りすぎた人間が寝転がっていて、置物どころか敷き布団のようになっているのだ。
しかも、あたしの目にはどう見ても元はおっぱいだと思われる襞もあった。
中のでぶを通り越した、えっと……モンスターでぶは裸なのだ。
部屋の中に煮凝りのように詰まった裸の女。
それが〈寝惚堕〉だった。
「まったく、〈孕んだ女〉どころの騒ぎじゃないね。どうやって倒したらいいもんやら」
響き渡るいびきの轟音に耳を塞ぎながら、お姉さまは愚痴る。
ただ、さっきから息を整えながら、なにやら複雑そうな呼吸を続けていた。
ホットヨガか何かだろうか。
「ちょっと試してみるか」
素早く動いて、ドアの前に立つ。
そこは肉の絨毯の敷き詰められた蓋となっていた。
お姉さまは白い肉塊の目掛けて、二つの掌を合わせた突きを放つ。
よくわからないが、その掌にはあたしには視えない不思議な力強さのようなものがこめられている気がした。
双掌が当たると同時に、肉がびくびくと波が広がる様に震え、
『ギィィェェェェェェ!!』
人のものとは思えない悲鳴が聞こえてきた。
思わず壁の穴を覗くと、白い肉の絨毯が跳んでいた。
効果あり。
と思ったのもつかの間、お姉さま目掛けて拳が振り下ろされた。
どれだけの体重があるのかはわからないが、少なくとも何十キロの肉に包まれた丸まっちい拳がお姉さまを襲う。
間一髪、避けたお姉さまだったが、痛みに我を忘れたのかドタバタと暴れ回る〈寝惚堕〉のおかげで建物すべてが地震にあったかのように揺れ始めた。
埃がたち、高いところのゴミが落下して足の踏み場がさらになくなる。
口をふさがないと色々と入ってきそう。
「―――発勁も芯までは
階段の脇まで退避したあたしたちは、しばらく地鳴りのような〈寝惚堕〉の地団駄が収まるのを待った。
あんなヒステリーじみたのに付き合いきれないし。
「……発勁って、さっきの技ですか?」
「うん、まあね。中国拳法の技なんだけど、頸を通せば、なんとか芯を壊せると思ったけど無理だったかあ。元が人間だから、直接〈気〉を浸透させれば倒せるとは思っていたんだけどさ」
「元は人間? もしかして、あの〈寝惚堕〉はサクラのお母さんなの?」
「十中八九ね。―――ま、自業自得みたいだけどさ。うーん、どうしようかなあ」
あれが、サクラのお母さんの―――人の末路なの?
肩が重くなった。
どんな辛いことがあったら、あんな目にあってしまうというのか。
あたしは人生というものも恐ろしさを目の当たりにした気分だった。
でも、あんな姿のままでいることはきっともっと嫌だろう。
あたしがサクラのお母さんだったとしても。
「人間に戻せるんですか?」
「んー、〈寝惚堕〉は人の中にムジナ―――化け狸が憑りついたことでなるとも言われているから、元々の妖怪というわけではないから、とりあえず動きを止めて、儀式をすれば祓えるとは思えるんだけど……」
「動きを止めるにはどうするの?」
「ある程度の大ダメージを与えれば……でも、あの肉の塊だとねえ」
あたしは思いついたことを言った。
「さっき、壁の穴から顔を見ました」
「なんだって?」
「室内全部がお肉ばかりのようでしたけれど、さっきの叫びとかいびきとかを出す口と顔があるのを見ました。他の部分と違って普通のサイズでした」
「……なるほど、つまり、頭部だけは肥大していないのか。竹原春泉の『絵本百物語』の画のように……」
お肉の末端には、例の発勁というのは効かなくても頭にならば効くんじゃないの、それがあたしの考えだった。
「じゃあ、なんとかしてあの八畳間に入り込んで頭に一撃喰らわすか。わりと難しいけれど……」
「それについても、あたしに考えがあります」
「ふーん」
お姉さまが面白そうに笑った。
「今日の涼花は、まるで京一みたいだ」
まあ、それぐらいできないと、升麻京一の妹はやっていられないのよ、お姉さま。
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