第533話「二つの巨搭」



 新宿駅西口を出て都庁へと続くルートは、例え深夜と言えどもまったくの無人という訳ではない。

 最終電車が走り去り、始発電車がやってくるまでの数時間、何もできずにいるものもいれば酒を浴びるようにかっ食らって泥酔しているものもいる。

 街の秩序を維持すべき警官はまだ死んでいない繁華街―――歌舞伎町に人数を割かれ、よほどのことがない限りやはり眠りについているのが普通であった。

 その街並みを揚々と歩くものがいる。

 目指すのは、二つの搭を合わせた意匠の巨大な建築物。

 帝都の中でも指折りの特徴的なフォルムは、おそらく子供以外は誰でも知っていることだろう。

 これに匹敵する有名建築物と言えば、―――国会議事堂ぐらいなものだろうか。

 1990年に完成した東京都庁舎、別名都庁である。

 地上からでもいくつか窓に光が煌々と灯っているのが見えた。

 今日の晩、誕生する新しい主人のために、幾つかの部署がまだ仕事を続けているのだ。

 ただし、その明日が来ることがないことを確信しているものがいた。

 そいつは唄い出して踊りだしたい気分で道路の中央を歩いていた。

 もうすぐ、彼の陰謀は達成する。

 彼の望んだ呪法の力で。

 そして、そのときこそ、あの奇怪な双頭の妖蛆の建物にとある大いなる力が顕現する。

 

「くくくく、燃やそう、燃やそう、すべてを燃やそう」


 彼の望みは大火であった。

 ありとあらゆるものを焼き尽くす大火。

 かつて江戸を焼いたという明暦、目黒行人坂、丙寅の三大火事にも匹敵する広範囲にして無尽の炎によって嘗め尽くす地獄の業火を求めていた。

 その目的として相応しいのがこの新宿である。

 多くの建物が密集し、何十万もの人が住む大都市にこそ火の海が似合う。

 ただし、それだけではない。

 新宿には巨大な松明がすでに用意されていたからだ。

 二つの搭のてっぺんに灯火を掲げることがでるからだ。

 その交差する炎の交わる先に―――一つの燃える花弁を持った邪悪なる黒太陽を呼び出すことができるからだ。


 安禅必ずしも山水を須いず

 心頭滅却すれば火も自ら涼し


 かつて友や弟子の僧侶数百人とともに焼き殺された初代が、脳裏を駆け巡る。

 ……いつからであろう。

 仏破襲名する以前から、彼は焼き殺される自分の前世のようなものをみていた。

 からからに乾いた咽喉を火が焼き、火傷で爛れた皮膚が全身にまとわりつき、痛みがこれまで学んだ教養の全てを燃やす記憶。

 信仰心に溢れた武将の妻やその侍女、古仏を思わせる蘭に例えて褒めたたえる浪漫的な夢見る僧であった自分が、押し寄せる大軍勢によって無残に破滅させられる歴史。


 ―――故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆


 何よりも好んでいた孫子の詩を揮毫して旗指物にしてしまうような熱い心をもって、仏法の信仰発展に篤く尽力した自分。

 それが最後の最後に二心を持ってしまったことを理解してしまっていた。

 彼は結跏趺坐のまま焼け死ぬ最期にこう思ったのだ。


「拙僧だけがこのような大悟を独占してよいものなのだろうか。これこそ、真に民に伝えねばならないのではないのか」


 彼は悟りを開いたのだ。

 焼け死ぬことによって。


「民は火焔に包まれることによって仏に近づけるのである」


 ……彼は自分の大悟をみなに伝えることを決断し、多くのものに火による菩薩の領域への解脱を与えることにした。

 そして、


「フォーマルハウトより来る太陽の神よ。おぬしなら、この薄汚れた街に浄化と悟りの大輪を咲かせられるだろう。愚僧は、仏法の使徒であるが、同時に民を導く帰依者である」


 主人がいなくなった都庁舎に血を捧げ、豪華絢爛な大炎をもって灯火とし、異次元からすべてを燃やし尽くす神を召喚せんと―――は叫ぶ。


「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐあ ふぉまるはうと うがあ・ぐああ なふる たぐん! いあ! くとぅグア!!」


 慈悲深き仏僧であることと、気の狂った仏凶徒であることのどちらも備えたまま、快川は衆生を火によって悟りへと導くために、漸修では悟入はならん、として。

 だから、浮足立って踊りだしでもしそうな勢いで快川は行く。

 都庁に向けて。

 新宿を邪神の炎で焼き尽くすために。


「まあ、その程度のことでしょうと思っておりましたよ、おまえ様」


 その足取りがピタリと止まる。

 傍若無人に中央を歩む彼同様に、道の真ん中で腕組みをした白き巫女がいた。


「餌を撒いただけで連れてしまう、わたくしの孫娘たちにはあとで反省させないといけませんね」

「……どうしてここに?」

「簡単なことです、おまえ様」


 にこりと笑って、〈社務所〉の重鎮、御所守たゆうは答えを口にした。



「殿方の詐術ごときに騙されるようでは、ふる女子おなごはやっていけないということですよ」


 

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