第62話「ザ・ホード」
リングを設置した市民公園の林の中から、光る眼が僕らを狙っている。
その光には特有の翳があり、しかも、僕には見覚えがあった。
「……あの〈化け猫〉と一緒だ」
さっき樹上から襲ってきた〈化け猫〉が湛えていたものと同じ輝き。
一言で説明できる感情。
あれは「憎しみ」だ。
不思議な習性を持つ猫であっても、動物であることに変わりはない。
だから、人間のように激しすぎる喜怒哀楽を持つことはないはずなのに、あの猫たちが瞳に浮かべているものは間違いなく憎悪であった。
ただし、正確にいうのならば僕に対してではない。
傍にいる今回の妖怪退治の依頼者である和田雅史に対して注がれているのだ。
「あんた、いったい何をした!?」
和田の肩を掴んで言った。
この尋常ではない憎まれ方は明らかにおかしい。
動物が自分をイジメた人間のことを覚えていることはよくあることだ。
虐待をした張本人ではなくて、人間という生き物自体を恐れ、嫌い、近寄らないということもある。
そういった動物を保護する人たちでも、どうにもならないぐらいに人間を敵視するものもいる。
だが、物事には限度というものがある。
僕の目の前にいる猫たちの数はどんどん増えている。
いったいどこから来たのかわからないぐらい。
肋骨が浮かび出るほど栄養失調でガリガリのものも、眼がなんらかの病気で潰れているものも、中には飼い猫らしい首輪をしているものもいる。
このあたり一帯のすべての猫が続々と集結しているかのようにも思えるほどだ。
それが猫らしい鳴き声も発せずに、ただこちらを睨んでいる。
恐ろしい光景だった。
僕は猫嫌いではないが、この光景を見た後ではもう猫は飼えなくなるかもしれない。
何十匹から、百匹近くにまで膨れ上がりそうな勢いであった。
「何をした!?」
もう一度聞いても、和田は瘧にでもかかったように震えるだけで応えない。
言わないのではない。
恐怖のあまりに言えないのだ。
ガタガタと歯を噛み鳴らし、尋常ではない汗を垂らしている。
さっきまでの僕や御子内さんに向けていた敵意の正体は、この恐怖によるものの裏返しだったのだろう。
もともと性格が陰険だということもあるだろうが、自分がこれほどまでに猫たちに憎まれているということの理由がはっきりしているからこそ、あそこまで負の感情をダダ漏らししていたのだ。
猫たちの群れが普通ではない行動をとり、かつ〈化け猫〉という恐ろしい妖怪を招くような何かをこの男はしたのだ。
〈化け猫〉が家の中に侵入し、母親をどこかにやって、その姿に化けて襲おうとするなんてありえないほどの憎しみを招く「何か」をだ。
『ギィヤアア!!』
背後から、身も凍るような叫びが届いてきた。
御子内さん―――ではない。
それは動物のくぐもった叫びそのものであった。
振り向くと、御子内さんが〈化け猫〉の右前肢を取り、伸し掛かられた不利なポジションのまま左手で猫の右肢を掴み、上半身を揺らして起こすと同時に、妖怪の前肢の影から反対の腕を通し、腕と輪を作るように自分の上体を肢を極めている側にずらす。
それから、胴体を両脚でしっかり挟んで腕を背中側に捻り上げ完全に極める。
腕で「4の字」を作るように見え、絡めた腕を支点としたいわゆるテコの原理の応用で、肩関節を痛めつけることができる技―――腕がらみだった。
キムラロックとも呼ばれるブラジリアン柔術でも使われる柔道の関節技だ。
前回の山嵐のときもそうだったが、御子内さんは異様なぐらいに柔道技を綺麗に決めてくる。
彼女といえば、ナックルパートやローリング・ソバットの各種打撃技、スープレックスやブレーンバスターといった投げ技、そしてなんちゃって八極拳をはじめとする中国拳法のイメージが強いが、実のところ、もともとは柔道か柔術の畑の出身ではないかと僕は睨んでいる。
間の取り方や、体の入れ方といった細かいところが誰よりも優れているのだ。
その視点で見てみると、彼女の受け身の取り方はプロレスを初めとした総合格闘技のものよりも、柔道のものに近い。
今、〈化け猫〉の前肢を極めている腕がらみだってもともとは柔道の技だ。
猛獣相手に繰り出していいものかはわからないが、簡単に決めてくるあたり、やはりかなりの練習を積んでいるはずだった。
『ギャアアアア!!』
〈化け猫〉は痛みのあまりに叫びをあげて、力任せに御子内さんを振り回した。
さすがの前肢の力だ。
おかげで完璧に決まっていた関節技を御子内さんは解かざるをえない。
離すと同時に、反対側のコーナーポストまで跳び退る。
体勢がよくないからだ。
とはいえ、その隙をついて〈化け猫〉が追撃することはなかった。
リングの中央付近にいる〈化け猫〉は右足を庇うようにして、動けずにいたからだ。
御子内さんの腕がらみに破壊されたようだった。
極めて折るのが関節技。
地味に見えて実戦ではもっとも恐ろしい技ともいえる。
「……京一、〈護摩台〉の結界に近寄れ。そうすれば猫たちはやってこない」
「うん」
僕は和田の腕を掴んで強引に引きずった。
猫の群れからも逃げたいが、リングにいる〈化け猫〉からも遠ざかりたいという和田に抵抗されたが、無理矢理に移動させる。
今はまだこいつに無事でいてもらわないとならないのだ。
結界の強い場所までいくと、黙って見ていた猫たちが牙を剥いて威嚇し始めた、
相変わらず鳴くことはないが、シャーという猫独特の威嚇音が周囲から聞こえはじめる。
どうやら目の前だけでなく、この自然公園全体に猫が集まってきているようだ。
僕たちはリングの結界によってなんとか助けられているといえた。
「御子内さん、かなりヤバい状況だよ!」
「わかっている。けど、ボクも動けない。こいつ……思った以上に強敵なんだ」
妖怪が強いのはわかっていることだ。
だが、御子内さんがこうもはっきりと言うのは非常に珍しい。
猫の動きを見切っていたぐらいだから、わりと優勢なのかと思ったが、そうではないらしい。
じっと凝視してみると、彼女の顔色が極端に悪くなっているのがわかった。
何かをされたのだ。
妖怪の特殊攻撃か?
「顔色が悪いよ、大丈夫!」
「……毒を喰らったみたいだ。長くは保ちそうにない」
「まさか!?」
猫に毒なんかあるのか?
聞いたこともないよ。
でも、実際に御子内さんは苦しそうにぜーぜーと息を吐いている。
明らかに苦しそうだ。
それでもあの腕がらみが繰り出せる御子内さんは凄まじいとしかいいようがない。
「……猫の息は毒ともいうからね。ただ、とんでもなく臭いだけじゃないようだ」
傍目でも顔色の悪い御子内さんと、右足を引きずり出した〈化け猫〉。
両者ともに致命的ではないが、戦いに支障をきたす損害を受けている。
〈化け猫〉のタフネスぶりを考えると、このままでは御子内さんの方がジリ貧だ。
「―――このままだと御子内さんが圧倒的に不利だ。なんとかしないと……」
しかし、僕にできることはほとんどない。
結界の力に守られた退魔巫女でさえ、ここまで苦戦している妖怪に対して、一般人の僕ができることなんて。
ただ、御子内さんを応援するしかないのか。
「嫌だ、近寄んな、この畜生ども!!」
石にでも躓いて尻もちをついた和田が拒絶していた。
迫る猫たちを。
結界が張られていて入ってこられないはずなのに、猫たちが前肢を高く掲げて招いていた。
死を招きいれる猫とでもいうべきか。
和田を手招いている。
「いやだいやだいやだ―――!! こっちに来るな!! ゴミども!!」
半狂乱の和田はもう自分が何を言っているのかさえわかっていなさそうだ。
ただ、これほどの状態だというのに僕は彼に対する同情を微塵も感じない。
きっと、それだけのことをしたのだろうとしか思えないからだ。
ふと、気がつくとリングの脇に和田のアタッシュケースが転がっていた。
そういえばさっき御子内さんを見ていたときに、あれを隠すように置いていたな。
一体、何が入っているんだ。
思わず近寄ってしまった。
外見はごく普通のアタッシュケースだ。
ただ、ところどころに妙にこびりついた汚れがある。
和田は僕の行動に気がついていない。
胸騒ぎがしていたこともあり、僕はそのアタッシュケースを無理矢理に開いた。
「うっ!」
吐き気がした。
口を押さえる。
離してしまったら間違いなくゲロが出る。
だが、これでわかった。
和田が猫たちに襲われた訳が。
伝説の〈化け猫〉がつけ狙う理由が。
―――アタッシュケースの中に詰められていたものは、何十匹分もの猫の頭部の干し首であったのだ……。
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