第671話「邪神と〈社務所〉の媛巫女たち」



 たった五人で〈ハイパーボリア〉に上陸した何百という〈深きもの〉どもを駆逐寸前までに迎撃した巫女たちに強い緊張が走った。

 準備運動が終わりを告げたのだ。

 地球上に存在するどんな軍隊でも一たまりもないような化け物どもの圧を簡単に弾き返し、片っ端からねじ伏せた最強の五人が本当の臨戦態勢に移っていく。

 五対の視線の先には、巨大な二十メートルを超す体長の怪獣が聳え立っていた。

 緑色の原形質、槍烏賊に似た頭部、触腕のような鋭い牙を無数に生やした黄色い目と貌、巨大な鉤爪のある手足、ぬめぬめとした鱗に覆われた膨れ上がった大きな弾力のある胴体、退化したコウモリのような細い翼を背につけた蛸と竜と人間のが混ざり合ったような悍ましいカタチ。

 究極的な嫌悪と憎悪の対象。

 

 まさに大悪魔。

 まさに大邪神。


 海魔〈ダゴン〉などとは比較にならない宇宙そのものの中で孤立したかのような圧倒的な矮小さを与えてくる存在であった。

 ニンゲンはちっぽけで何もできず、ただ蹂躙されて巨大な胃で消化されるだけしかない塵にすぎないと悟らされる。

 これが……これが……


「クトゥルー……」


 誰かが口にした。

 触れてはならぬものの名を洩らした。

 だが、それを口にしたのは誰なのかさえもわからない。


「フングルイ ムグルウナフ クトゥルフ ルルイエ ウガ=ナグル フタグン…… 死せるクトゥルー、ルルイエの館にて、夢見るままに待ちいたり……」

「まさか、復活したのかよ、クトゥルー!!」


 レイの疑問は即座に否定される。

 まるで自分に言い聞かせるかのように。


「ありえにゃいです!! ルルイエは太平洋の南緯47度9分 西経126度43分の海底にあります!! クトゥルーが復活するのは、少にゃくとも太平洋ですよ!!」

「いやあ、そうでもないんじゃないの? 1925年のアラート号事件の時は、実際ルルイエの監獄から一瞬とはいえ抜け出しているんだよ、ここにやってこないとも限らないんじゃない? 予想以上にでっかくて腰が抜けそうだけどね」

「まさか。それができるんだったら、あいつらもわざわざ龍脈を利用したりはしねえだろうよ!! いったい、どうなってやがる!?」


 彼女たちにとっても想定外の事態だった。

 いきなり敵の親玉に―――ラスボスにぶつかるなんて考えてもいなかった。

 それにさっきから感じている異変もそうだ。

 戦いながらでは探りきれなかったが、確実に足の下―――メタンハイドレート採掘基地の下層部からおぞましい妖気の類いが漂いつつあった。

 ただし、巫女としての経験と知識は、下で行われていた儀式呪法が失敗したことを告げている。

 でなければ、海神クトゥルーの結界が破れて、彼女たちがここに辿り着くことはできない。

 つまり、それが指し示す事態は一つだ。


「……京いっちゃんが儀式を止めたのは確か。でも、そのあとで溜まった妖力・魔力の〈力〉が暴走しているみたい」

「くそっ、こっちは京一くんを助けに行きたいのにクトゥルーなんてものが顕れるなんてよ。……ついてねえぜ」


 巫女たちはわかっていた。

 下層部の京一を助けに行きたくても、この眼前の海の大邪神をなんとかしなければ不可能だということを。

 親友あるこは助けたが、もう一人の大切な人のところまでいくことができない奥歯がすり減るような歯ぎしりでは足りないとてつもない焦燥感に駆られていた。

 クトゥルーは動かない。

 動けないのか、それとも別の意図があるのか。

 少なくとも主人クトゥルーの出現に伴い、〈深きもの〉どもは奉仕種族らしく伏して拝み続けるだけで脅威度は著しく減っていた。

 ゆえに、巫女たちにとって敵は邪神一柱のみなのは間違いない。

 しかし、いくらなんでもこの敵は―――こいつは―――


「……心配しなくていい。


 御子内或子だった。

 さっきまで荒く肩でしていた呼吸が普通に戻っている。

 親友たちが一騎当千の暴れっぷりを見せている間に回復を図っていたのだ。

〈気〉もなんとか通常の量まで練気できるほどに戻っていた。

 腹にしまっておいたバランス栄養食の黄色い箱を投げ捨てた。

 普段はポイ捨てなんて断じてしないが、今回ばかりはゴミ箱を探している余裕はないので勘弁してもらおう。

 わずかばかりだが、腹に詰め込んだおかげで活力が湧いてきている。


「偽物って、どういうこと? 或子ちゃん」

「ボクはキミらより長くここにいたから〈力〉の流れはわかっているんだ。なあ、てん」

「はいですよー。下の方で行われていた〈集力の儀式〉は不完全な形で終了しました。てんちゃんが探っていた感覚では、完全に儀式が終わる寸前に異常な〈力〉の震動と次元の断裂みたいなのが起きたので、おそらく別系統の邪神による邪魔が入ったんだと思います。まぁ、やったのは京一先輩でしょうがねー」

「京一さんが儀式を止めたのはいいとして、別系統の邪魔が入ったってのはどういうことですにゃ?」


 てんは腕を組んで、考え込むふりをした。


「おそらくー、京一先輩は〈銀の鍵〉を使ったのでしょうねー。あれを使えば、連なる次元の門を開くことができます。そうすれば、異次元の神さまを喚びだすこともできるでしょう。まあ、京一先輩は実際にやったみたいですのでー」

「……なんで、京いっちゃんが〈銀の鍵〉なんて持っているの?」

「さあ、それは。てんちゃの千里眼でもわからないことですのでー」


 てんによる説明があっても納得できないものたちは多かった。

 特に、升麻京一に好意をもっているものはなおのことだ。

 ただし、それよりも直近に迫る大災厄について意識を切り替えることも忘れないところが、彼女たちの戦人いくさにんとしての拭いきれない業であった。


「じゃあ、クトゥルーあいつはなんなのさー?」

「失敗した儀式のエネルギーが逆流―――ブロウアウトして、それを〈ダゴン〉が受け入れて自分の主人の似姿になったものだと推測できる。そもそも想定もしていないことだけれど、そう思うのが妥当だ。……儀式が失敗したとはいえ、妖力はずいぶんと蓄えられていたはずだから、その暴走は止められなかったはず。だったら、指向性を与えて一定の場所へ噴出させることでガス抜きみたいにすることを選んだのだろう。そうするには、曲がりなりにも神である〈ダゴン〉に注ぎ込むのが一番流し込みやすいって判断だと思う」

「というと、これは単なる奇跡的な偶然ってことかな?」

「いや、きっと、こんな突拍子のないことを考えるのは……」


 或子の脳裏には一人しか浮かばなかった。

 しかも、どうやってそんなことをしたのかは不明だが、どうしてという理由だけは想像がついた。


「……〈ハイパーボリア〉の下層ブロックに溜まりきった魔力を暴走させないためだよ。もし、暴走した挙句爆発を起こしたりしたら、上層ブロックにいるボクたちまで巻き添えになりかねない。それを防ぐためにあえて、〈ダゴン〉にエネルギーを注いだんだろうさ」


 魔力の爆発から巫女たちを護るため。

 そんな真似をしてしまう人物はここにいる全員にとってもただ一人しかいない。


「あいつはバカか!!!」


 レイは吐き捨てる。

 信じられない馬鹿さ加減だ。

 人相手には御法度の〈神腕〉による張り手をかましてやりたい獰猛な気分になった。


「京いっちゃん、あたしのために……」


 恋は盲目とはよく言ったものである。


「また、借りですか。こっちの返済がずっと滞り続けているのに、まったくいい加減にして欲しいですにゃ」


 藍色はどうしても生真面目なのだ。

 まさに雪だるま式に溜まっている恩を思い起こすたびにめまいがする。


「まー、うちはバイなのであんま関係ないけどね!! 関係はできるけど!!」


 とりあえず皐月にとっては深入りはしないのに越したことはない話だった。


「もー、てんちゃんがわざわざ助けに来てあげたってのに、パイセンは黙って待っているってことができないんですかねー」


 てんちゃんは、激おこぷんぷん丸だった。

 特に彼女は奥多摩の深山幽谷から長き目覚めを経てからの参戦なので、救出される立場のものに救われるというのはとても立つ瀬がないのである。


「―――いいさ。これが京一の策だというのならば、乗ってやろうじゃないか。ボクら全員を助けるためにあいつが〈ダゴン〉を〈クトゥルー〉にしたというのならば、ここで尻拭いをしてやるさ。ボクはあいつの介護役でもあるからね!!」


 そして、御子内或子は〈クトゥルー〉に向き直る。

 似姿とはいえ、彼女たちにとって不倶戴天の怨敵である。

 会敵して逃すなど、〈社務所〉の媛巫女の名が廃る。


 巫女レスラーの名が廃る!!


「やっと会えたな、〈クトゥルー〉!! 海の邪神!!」


 或子と親友たちがついに主敵と出会った。

〈星天大聖〉と〈五娘明王〉が!!

 人類の決戦存在と生命を滅ぼす暴虐と兇悪の邪神が!!


 ここに無理無茶無謀の決戦が始まろうとしていた……

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