第670話「進化・臣下・真価」
神宮女音子は、この世で一番嫌な記憶を思い出していた。
本来は絶対に思い出したくないのに、事あるごとに脳裏に浮かんでくるいわばフラッシュバックのような記憶だ。
(あんにゃろうめ!!)
いつも憎まれ口を叩きたくなる。
最後にまともに食らった延髄切りの痛みがまだひりついているような気がしてしまうのだ。
奇妙なことに憎しみも怨みもあるというのに、同時にそこはかとない憧れと懐かしさに満たされてしまうのである。
まだ十八年しか生きていないが、戦場で前のめりになって崩れ落ちるその時まできっと忘れないだろうし、うまく妖怪みたいなババアになっても思い返さずにはいられない記憶だろう。
(まったく、出会わなければよかった)
音子は素直にそう感じている。
ただ、彼女たちの出会いは必然であり運命であるからその軛からは逃れられない。
わかっているからさらに腹が立つ。
あの白刃の如き鋭い一撃は彼女のこれまでの人生をまさに介錯してしまったといっても過言ではなかった。
あのときから、神宮女音子は巫女への道を軽く過ぎ去り、闘士への険しい道を突き進んだのだから。
「或ッチ―――ボロボロ……」
何百という〈深きもの〉と〈ダゴン〉とたった一人で戦ったせいで御子内或子は限界に達しようとしていた。
〈気〉の昂ぶりさえ感じない。
攻撃はおろか、防禦すらできそうになかった。
すなわち、音子たちの到着があとわずかでも遅れていたら、彼女の親友は間違いなく八つ裂きにされていたのだ。
破れた装束、乱れた毛髪、血と油に塗れた貌、薄汚れた肌……
過去の記憶を思い起こしたのは、その惨めな有様が〈社務所〉道場での初対面のときと重なるからだ。
野生動物のようだった黒くて汚いチビスケ。
そのくせ、眼の奥から発される光はスーパーロボットのビームのようにどぎつい。
英雄は目で殺すというが、まさにそれに相応しい魔獣じみた少女。
神宮女音子と出会う直前の彼女。
「―――あたしは知っている」
音子は首の骨を鳴らした。
「……あの大災害の日におじさんとおばさんの故郷で死にかけた或ッチを襲った有象無象の悪霊どものことを」
肘と膝のパッドを外す。
「多くの人が死んだのを利用して他者の憎しみと哀しみを喰らってでかくなった悪霊どもが、或ッチをよってたかって嬲り者にしたことを。目につく人を助けようとした小学校六年生の女の子を妬んで嫉んで恨んで呪ったことを」
自分を護る兜は今はいらない。
「それだけじゃない」
構えた。
ルチャ・リブレのファイターとして当然のスタイルで。
「悪霊どもは震災で心の弱った人々につけこんで憑りつき、何百人もの群れで或ッチをリンチして殺そうとした。
拳を握る。
「いつも、
そして、言った。
「だけど、もう許さない。或ッチを傷つけるものは許さない。あたしら以外は許さない。特にあんたらのようなクズどもは絶対に許さない!!」
大威徳明王が吠えて、床を蹴った。
下弦の月のごとく宙を舞う。
その瞬間も口は「オン シュチィリ キャラーロハ ウンケン ソワカ」と西の守護者である大威徳明王真言を唱えていた。
何十という〈深きもの〉の集まった広場の中心に降り立ち、
咽喉から美しくもかすかに聞き取れる程度の音奏をおこない、声に呪力を乗せて念術と化す。
音子の形のいい唇から朗々と発せられた幽かな声が〈ハイパーボリア〉に響き、一切の前触れもなく彼女の半径二十メートルが完全に沈黙した。
〈深きもの〉の耳障りな声も、少し離れた場所で戦う他の巫女たちのいくさの音も消滅する。
まさに瞬殺無音の世界!!
〈ダゴン〉どもの故郷である深海でなければありえない、永劫の闇だけが孕む静けさが広がった。
音というものを発する原子をひとつ残らず停止させる禁術〈
そしてこのときの彼女の術は、結界内にいた〈深きもの〉を構成するすべての原子をバラバラに分解した!!
「―――
音子を中心としてその円の中に納まった妖魅の全てが爆散する。
ドドドドドと粉となって吹き飛ぶ数十匹の〈深きもの〉。
他の〈五娘明王〉と比べても類を見ない圧巻の致死呪法であった。
すべての音を消すものは、すべての命の鼓動を消せるのだ。
大威徳明王の神宮女音子。
〈五娘明王〉の中でも最も美しい少女であり、同時に誰よりも敵に回してはいけない荒ぶる神の化身であった。
◇◆◇
戦いの帰趨は圧倒的であった。
荒れ狂う海から〈ハイパーボリア〉という
〈ダゴン〉にとって〈深きもの〉どもはただの家畜である。
名も知らぬし、どれだけの数がいるのかを把握してもいない。
主人に似ていることから餌にすることはないが、戯れの中で潰してしまったとしても気にも留めない程度のものだった。
ただ、〈ダゴン〉が行動を起こすときにつき従い、彼を崇拝し、生贄を捧げるためだけに存在するまさに奉仕するためだけの種族なので便利に扱っているだけだ。
どれだけ滅ぼされようが痛くもかゆくもない。
だが、どうでもよい家畜であったとしても、ゴミも同然に掃除されていく姿は愉快ではなかった。
しかも、歯向かうものたちはちっぽけな定命のニンゲンである。
彼にとってはただの生贄にしかすぎぬ生き物だ。
それが奉仕種族を瞬く間に屠り去っていくのを見つめていると、神らしからぬ心情が湧いてくる。
人が産みだした新造神である〈五娘明王〉の戦いに興味を覚えたのだ。
同時に、先ほどの御子内或子との戦い(と呼べるものではないことは、当事者の一柱と一人が理解していたが)のときとは異なり、どのようなものかはさておき知性を持っている怪物らしく邪魔者を率先して排除することも決めた。
案外、血の気が多いのかもしれない。
ズシンと一歩前に出る。
さっきまでずっと不動だった邪神が動き出したことで、〈五娘明王〉たち全員にさすがの緊張が走った。
ついに動き出したか、という緊張だ。
だが、五柱すべてが揃った彼女たちならば、たかが大海魔〈ダゴン〉ごときは斃せぬ敵ではない。
問題なのは眷属とはいえ、相手が邪神だということだけだ。
しかし、状況はさらにもう
〈ダゴン〉の様子がおかしくなったのである。
それだけではない。
この進化する大海魔の見た目が徐々に変わり始めていったのだ。
安宅船〈山王丸〉を追尾していた魚としての姿の時を第一形態と呼ぶのならば、上陸して自重の重みでまともに蹴りも放てなかったものを第二形態。
上半身の筋肉が流動して下半身に流れ、スリムかつ陸上に適した形に作り替えられたのが第三形態。
しかし、その先があったのだ。
山が動きわなないたようであった。
宇宙にも比すべき暗黒のてっぺんから下々を睥睨する黄色い双眼と―――背中の肉を割って飛び出した矮小な翼。
さっきまでは多少なりとも魚の陰を残して顔面が引き攣り頭蓋骨が盛り上がりつつ変形し、槍烏賊のもののように尖った。
口が縦にも割れて、無気味で太い触手のような歯が生えてきて、かちこちと涎を滴らせる。
竜を思わせる分厚くて硬そうな鱗はぼこぼこした瘡蓋に覆われているようであった。
古代に崇拝され、やんごとなき理由によって無際限の海中に封じられたというとある神を写し取るように〈ダゴン〉は変態していく。
〈五娘明王〉たちは嗅ぎ取っていた。
邪神の臭いを。
真の神の放つ悪臭を。
その理由さえもおおまかに理解していた。
足元の遥か地下からエネルギーが奔流となって噴出して、〈ダゴン〉に注ぎ込んでいるのだと。
それは行き場を失くしたエネルギーであった。
儀式に使うためにC教徒が溜めこんでいた、レイライン―――龍脈に流し込むためのものが、失敗によって逆流しているのだ、と。
本来、地球の反対側へとゆくべき力の全てが翻ってしまっていたのだ。
そして、その力を受けて今、大海魔〈ダゴン〉は進化を遂げようとしていた。
雄々しく巨大な彼の主人の似姿へ、と。
〈ダゴン〉から―――クトゥルーへ、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます