第442話「〈三尸〉の秘術」
呪力というものは、人体のうちなる働きを呼吸によって引き出す〈気〉と違い、念ずることで自然界に漂うエネルギーを身体に蓄積して用いられるものである。
気功術にいう外功とも異なり、産まれもった素質の如何によって左右されるため、もともと呪力のあるものとないものにはっきりと区別された。
ただし、そもそも血統や遺伝によって引き継がれる神通力と異なり、使用すれば再び蓄えなければならない消費されるものである。
ゆえに文覚僧人のように、物理的な破壊力すら感じるまで発し続けることはすぐにガス欠になることに等しいはずだった。
しかし、てんの動きをまるで無数の手のように押さえ続ける文覚の呪力には果てがないようだった。
てんの目には、文覚の全身から半透明の腕が伸びてきてあらゆるところを掴んでいるとしか思えない。
退魔巫女の中でも強い呪力をもって産まれた彼女だからこそ、反発するように呪力をひりだすことで圧力から逃れることができた。
それとてもうすぐ尽きるかもしれない。
だからこそ、父親と〈社務所〉の重鎮から無闇に使ってはならぬと釘を刺されていた切り札を使うことに決めた。
敵は西の宿敵・仏凶徒、しかも〈八倵衆〉の幹部である八天竜王。
さらにいえば、文覚はただ立っているだけでてんを押さえ続ける化け物だ。
出し惜しみができる相手ではない。
(〈三尸〉のうち、〈
彼女の未発達の子宮の中に潜んでいる蛇の姿をした虫に、彼女自身の呪力を流しこみ、覚醒させる。
ずっと強制的に眠らされていた〈三尸〉は、目覚めると動じに螺旋を描きだして流し込まれた量の数倍の呪力を発生させていく。
幼き日に実の父親によって植え付けられた〈三尸〉の術は、このようなときにある意味ではターボエンジンのような効果をあげるためのものであった。
自分の呪力を餌として与えることで、何倍もの呪力を蓄積して敵に対抗する。
これが熊埜御堂の家系に伝わる〈三尸〉の術であった。
「ほほお」
文覚が感心した声を発した。
てんの内部からの呪力が一気に増したのを感じ取ったのだ。
しかも、それがてんの術であることを見破っていた。
「愚僧が地の龍の力を吸って放っているというのに、そこまで堪えきれるとはたいしたものだ。なんじゃ、その奇妙な術は? 神道ではないだろう」
「……内緒ですよー」
自分からネタばらしはしない。
それも駆け引きだ。
「ふん」
文覚から発される呪力の量が増した。
不可視の怒涛といっても過言ではない勢いで、てんの全身を押し包む。
触れられてもいないのにミニスカの巫女は吹っ飛んだ。
そのまま安宅船の木のへりにぶつかる。
呪力が高まっているおかげで、普通ならば背中の骨が折れてしまってもおかしくない衝撃を受けても無傷のままだ。
とはいえ、接近戦を主とするてんとしては敵から距離をとられただけで不利になったといってもいい。
もう一足飛びでは文覚の懐にまで辿り着けない。
〈三尸〉のうちの一匹〈下尸〉を覚醒させてまで得た呪力が及ばないのだ。
「でも、いいことを聞きましたよー。このおバカな呪力って龍脈の力なんですねー」
文覚自身の力も相当なものだろうが、上乗せされたものの方が遥かに強いはずだ。
ならば、やりようはある。
自分は一撃で獲物を仕留める蛇なのだから。
(〈三尸〉のうち、〈
心臓に植え付けられて以来、これまでの十五年間ずっと永劫に近い眠りについていた二匹目の蛇に呪力を注ぎ込んだ。
人に限らず、生命の最大の弱点の一つである心臓は、鼓動をうつことで呪力を産みだすことができる便利な臓器である。
そこに眠らされているということは、ありえないほど強い封印を受けていたということであったが、それを無理矢理に叩き起こしたのだ。
てんの全身に脂汗が噴き出す。
巫女装束が一瞬で濡れてびしょびしょになる。
フルマラソンをしたとしてもここまでの発汗はありえない量であった。
それも当然だろう。
彼女の心臓に植え付けられた〈中尸〉の覚醒は〈下尸〉のものよりも強い呪力を産みだす代わりに、とてつもない負担を与えるのである。
まともな人間ならば頭に血が上って卒倒しかねない痛みの中、てんは強引に踏ん張って視力が霞んでも立ち尽くした。
だが、二匹の〈三尸〉が発する呪力のおかげで文覚僧人からの圧力が緩んだ。
てんからの呪力が増えた分、反発する力が上がったのだ。
これでなんとか動ける。
反撃の時間だ、とてんは前に出た。
「―――やるではないか。では、これだ」
懐から白い布に包まれたものを取り出す。
手のひらに乗るサイズの、メロンを思わす丸い塊であった。
あまりに場違いなものであったから、逆にてんが警戒する羽目になる。
本来ならば、ジャンプ一閃して老魔僧の細い首をへし合ってやればよかったのに、ほんのわずかに躊躇してしまったのだ。
おかげで布がはらりと落ちて、そこに現れた黒い物体を拝むことになってしまう。
それは黒い―――黒曜石でできた髑髏であった。
「骸骨……?」
邪悪な僧侶に相応しいアクセサリーであったが、だからといって強力な武器というわけではない。
(呪力を上げるための呪具の一種ですかー)
てんは一瞬止まった前進を再び始めようとした。
嫌な予感がしたのだ。
二匹の〈三尸〉のおかげでアップした呪力を脚にこめて、てんは跳躍した。
蛇の顔をした手刀が文覚を狙う。
だが、遅すぎた。
てんが必殺の間合いに辿り着く前に、文覚の掌にあった髑髏が黒い光を放った。
まともな物理的法則ではありえない黒い光が安宅船の甲板上を照らし出す。
黒い光がてんの視界をくらませた。
「ちっ!! 間に合えー!」
しかし、ほんの数センチの差で、てんの指はのどぼとけを掴めなかった。
捩られた。
全身の関節が逆に曲がる。
折れなかったのは、てんが危険な部位に〈気〉をまわして強化したからだ。
とはいえ突然加えられた暴風のベクトルは凄まじい威力でてんを捻り回し、唯一庇いきれなかった右の足首がぼきりと骨折させられた。
「
甲板を何回転もして、てんは叩き付けられる。
〈三尸〉の呪力がなければ即死してもおかしくないダメージを受けて地を這いまわされた。
化け物じみた呪力が大蛇か竜巻のようにてんを締め上げ、投げ捨てたのだと理解することさえかなわなかった。
……何なんですかー、あの髑髏。
五体すべてに亀裂が生じたような痛みを感じ、てんはもう動けないかもと自嘲した。
彼女が必死に力の限り戦っていたにもかかわらず、文覚僧人は一歩たりとも動いていない。
屈辱的であったが、もう指の一本たりとも動かせそうもなかった。
〈気〉は枯れ、呪力も尽きかけていた。
てんはあと数秒後にはみじめに敗残する運命に突き落とされていたのである。
「これは〈源義朝の髑髏〉じゃ。初代文覚は、これを突き付けることで源頼朝を平家討伐に挙兵させて、仏法の怨敵である平家を滅ぼさせた。仏法の敵である貴様のような悪鬼を討つにはまっことふさわしきものよ」
勝ち誇る文覚僧人とその掌の禍々しい髑髏の輝きを前にして、熊埜御堂てんの意識はついに飛んでいってしまうのであった……
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