第268話「異臭と芳香」
(飛んできた矢を手で掴んだって……?)
槍持は自分が何を言っているかわからなくなった。
彼の乏しい知識でも弓矢というものは、野球のボールよりも速く飛ぶものである。
銃弾よりは遅いとしても、人間がそれを避けることは至難の業だろう。
それどころか、この月光以外に照明のない拓けた空間で、どこから来るかわからないものを見切るなんてことができるはずがない。
タイミングわかっていたとしても無理だ。
だというのに、この鋲とスタッズだらけの革ジャンを着たパンク巫女はいともたたやすく受けきってしまったというのか。
あり得ない。
脳をグルグル回るのはその一言だけだった。
「ようやく罠以外に本人たちがやってきたみたいじゃん」
「そうね。皐月がトラップに掛けられた殺気まで読み取れればもっと素早く動けたんだけど……」
「無茶言わない。だいたい、〈気〉なんてもん生き物以外が出している訳ないじゃん。罠にかかった生き物の残留思念があればその程度のは読み取れるんだけどさあ」
槍持が見ると、二人の服装のうち足首あたりが泥で汚れきっていた。
山道ともいえない場所を長時間歩き回っていたらしいことが想像できた。
転んだりもしたのか、膝や尻のあたりもうっすらと汚れている。
「でも、ここにいると危険だよね。うちが狙われているならいいけど、ネシーやこのオジサンを標的にされると庇いきれないし……」
「あの
「あそこお~? どんな風になっているか知れたもんじゃないよ。バッチいだけじゃすまないと思うしさ」
「私だってできたら近寄りたくありません。でも、狙撃を避けるためには仕方ないでしょう」
「いやだいやだ」
いきなり槍持の着ていたパーカーの襟を引っ張られた。
パンク巫女は見た目とは裏腹のとてつもない力で彼を引きずっていき、寺まで駆けだし、そして階段を上って横開きの戸口から中に入り込む。
彼よりもずっと痩せ型なのにパンク巫女の膂力はまるでゴリラのようであった。
中に入ると、金髪の外人美少女が戸を力いっぱい閉めた。
ついでに落ちていた木材をつっかえ棒にして鍵の代わりにした。
二人とも慣れた動きだったが、そんなことよりも槍持は寺の本堂に入った途端に突然鼻をついてきた異臭に気を取られていた。
外からは想像もできないほどの、異常なまでに黴ついた臭いが漂っているのだ。
こんな臭いがしているのに、外から嗅ぎ取れないというのはとてつもなく奇妙なことではあったが。
「なんだ、この臭い……!」
鼻をつまみながら思わず愚痴ってしまう。
喉の奥にゲロが逆流してきてしまいそうな吐き気を催す異臭であった。
呼吸のために口に含んだだけで、肺が汚れてしまいそうなジメついた臭いである。
どこから流れてきているのかと真っ暗な奥の方を覗き込んでみると、本来、内陣の中に設置される須弥壇があるべきところは残っていたものの、仏像の納められているはずの宮殿はなかった。
つまり、この寺には本尊がないのだ。
それだけでこの寺が正確には機能していない廃寺であることがわかる。
供物を乗せる前机はあるものの、真っ二つに割れていて用途を果たせそうな様子ではない。
また、木製の本堂の壁も柱も荒れ果てていてとてもではないが、誰かが使用しているとは思えなかった。
唯一の救いは、雨風を防げそうなところだけである。
やはりさっきの不気味な僧侶がここに清んでいるというのは嘘だったに違いない。
少なくとも槍持の感覚では、ここは人が住んでいい場所ではなかった。
「この奥に……人の生活圏がありますね」
「そうみたいじゃん」
二人は悪臭をものともせずに、奥まで無造作に進んでいく。
弓矢で殺されそうになっていたはずなのに、気が付いたら恐怖が薄れかけていた。
あの少女たちの醸し出す異様なまでの落ち着きが伝染したのかもしれない。
「ちょっと待ってくれっ!!」
本堂の裏、おそらくは住職たちの個人的な生活の場となっているだろう住居スペースに入ると、さらに臭いが悪化していた。
ずっと長くいると服の生地に沁みつきそうな腐った臭いであった。
「おいっ」
伸ばした手が廊下の壁に触れた。
べたりと何かが指に触れた。
不快な感触だった。
「なんだ?」
指先を見ると、黒く汚れていた。
明かりがないのでよくわからないのだが、何か粘つくものがついてしまったようだ。
気持ち悪くなったので腰のあたりで拭う。
二人の少女はもう奥の部屋に入ってしまっていた。
遅れて後を追うと、二人は入口辺りで留まっていた。
「どうしたんだ?」
「来ないでください!!」
金髪の少女が怒鳴ったときには、もうすでに槍持は踏み入ってしまっていた。
「なんだ!!」
そこは、一言でいうのならば―――不潔な台所であった。
黒くこびりついた汚れが床や壁だけでなく、天井にまで飛んでいた。
それはまるで血飛沫のようであった。
まるで、そこで誰かが首を刎ねられて鮮血が飛び散ったかのように。
(血?)
槍持は中央に置いてある隙間もないほどにものが置いてあるテーブルの上には、煮込んだシチューのようなものが入った鍋が並べてあった。
ここまでの悪臭とは違う美味そうな匂いがする。
こちらは食欲を誘ういい香りだ。
相反する二種類の臭いが室内に充満している。
「……触らない方がいいよ。できたら、美味しそうとか思うのもね」
「また嫌になる臭い。どうして、ああいう連中はこうおぞましい真似をするのかしら」
「奥、行く?」
「止めときたいわ。結局、また悪夢の種が増えるだけですもの」
「それもそうか」
意味深な会話をすると、二人は元来た本堂の方へ引き返し始めた。
何が何だかわからない槍持もついていく。
自分たちから奥に行ったくせに、すぐに引き返す行動の意味がよくわからなかった。
本堂では、金髪の少女―――ネシーと呼ばれている方だ―――がつっかえ棒の位置を確認した。
破られた気配はない。
あの弓矢男もやってきてはいないようだ。
「なあ、あんたら、色々と訳アリみたいだけど俺にも少しは説明してくれよ。どうもわざと俺には何も伝えないようにしてるだろ、あんたら」
「そうだけど、知りたいの?」
「ああ」
「女体の神秘と違って、知ったからといってあそこがビンビンにはならないよ。むしろ、ビクビクになっちゃうよ。一文字違いで偉い違いだね、こりゃまた」
パンク巫女は変わらず寒いエロネタで突っ走り続ける。
酒でもあおっていないと失笑すらしないいい加減さだった。
こんな適当にばかり喋る少女はそれほどいないだろう。
「おい、真面目に聞いてんだぞ」
「真面目に聞いてもいいことないと思うけどね。まあ、いいか。うちの〈社務所〉には記憶を封印する術もあるし、いざとなったらロリロリっ子を呼んで施術させればいいし」
「仕方ないわね。じゃあ、話ししまうわよ」
「どうぞどうぞ。くるりんぱ」
ダチョウ倶楽部のギャグのつもりなのだろうか。
パンク巫女のおっさん臭さは十以上年上のはずの槍持でさえも閉口するレベルであった。
「では、まず、ショッキングな情報から。―――さっきの部屋にあった煮込みのことなんだけど……」
「ああ、あの美味そうな」
「その感想は抱かない方がいいと皐月が言ったはずですよ」
「どうしてだよ?」
「だって、あれは人肉を使った料理なんですもの。しかも、味付けに香辛料なんかを使ったそれなりに完成した料理という」
えっ……
槍持の思考はまたも止まった。
コノ少女ハナニヲ言ツテイルノダロウカ、マルデワカラナイ。
そんな彼に追い打ちをかけるように、
「要するに、この寺は人食いの化け物たちの棲家ってことなんだよ、オジサン。人間を攫ってきてはバラして食べちゃう吐き気しかしない連中のね。あー、やだやだ、オエー」
パンク巫女―――
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