第612話「美食と残飯」



 再び、背広の執事に案内されて連れていかれたのは、巨大と言っていいテーブルの用意された食堂だった。

 この竹里家の屋敷は見た目は竹林に相応しい和のテイストに溢れた場所だったが、ここだけはまるで西洋の貴族の館のようだった。

 次々と運び込まれる料理のお皿は、とても一人用のご馳走ではなく、確実に数人分用に盛りつけられたもので、しかも片っ端から美味しそうだ。

 牛肉らしきものに餡のかかった炒め物や、鱸の奉書焼、しめさばのお寿司など、和洋中問わない感じだが、どれもが美味であることはすぐにわかった。

 漂ってくる匂いでさえ、色々と混じりあっているのに一つ一つが区別できて、胃を活性化させる。

 執事はずっと食堂の隅に立っているのだが、料理の皿を運んでくる音声の中居さんのような服装の女性たちがてきぱきと働いているのであっという間に私の前は政治家のパーティーもかくやという様相になった。

 小皿を手にとって渡されそうになるが、何かびびってしまって箸をとることさえできない。

 とにかく気圧されてしまうのだ。

 貧乏人が王侯諸侯の懇談会に無理矢理に割り込んでしまったかのように。

 これだったら、マッド帽子屋に招かれたアリスの方が断然マシたといえた。

 とにもかくにも自分から何かしようという気に慣れないのだ。


「さて、前菜は整ったようですね。さあ、お食べください、黄山さん。これはすべて当屋敷の主からの歓迎の証しでございます」


 執事がニコニコとしていった。

 私みたいな一般人のさえない女を歓迎するには行き過ぎているのではないかと、疑ってしまう。

 だが、並べられた料理はまさに垂涎ものだ。

 理性はドン引きしているのに、お腹はくぅと鳴り始める。

 全部は食べられないけれども、お腹いっぱいになるまでは食べてみたい。

 いや、食べないともったいないでしょう!

 冬瓜をくりぬいたスープなんてドラマでも見たことがない高級そうだし、よく見るとフカヒレのスープなんて被っているものあるし、黒いおつまみみたいなのはピータンだよね。

 鱸なんてパイ堤焼もあるし、アワビのステーキだってあった。

 こんなの材料費だけで普通の家なら破産だよおおお。

 私は必死の思いで箸を掴むと、なんとか手を伸ばした。

 最初に食べるのは噂では知っていたけれど味なんて想像もしたことのない北京ダック。

 あの飴色の焼き具合はそれしか考えられない。

 世界三大珍味を、ついに……

 がしっと箸が捕らえた。

 もうもう止まらない。

 あとは口に運び咀嚼するだけ。

 と、思っていたら、ガシっと掴まれた。

 腕を。

 横に立っていた美人に。


「喰わねえ方がいいぞ」

「どうして? こんなに美味しそうなのに?」

「確かに見た目はいいさ。匂いと味もな。ただ、喰っちまったら魂が穢れるぜ。いいか、金属が潮風に当たれば錆びちまうように、ニンゲンもまずいことをすれば穢れちまうんだ。例え、自分が望まなくてもな」

「? 何を言っているの……」

「だから、喰うなってことさ。特に肉はな。スープを吸うのも止めとけ」


 私のものわかりの悪さに苛立ったのか、明王殿レイは美しい黒髪をボリボリと乱暴に掻いて、


「こうした方が早いか」


 指をテーブルの縁に掛けると、持ち上げた。

 それだけできっと百キロ以上はあるに違いないテーブルが持ち上がり、その上の何枚もの料理の乗った皿が地面に滑っていった。

 たいして力を掛けていないようなのに、明王殿レイが手を振ると、檜の高級なテーブルはまるでダンボールでできているかのように壁まですっ飛んでいった。

 聞いたことのない騒音が響き渡ったというのに、私の頭には明王殿レイの馬鹿力のことしか入ってこなかった。

 彼女は身長は170センチ近い長身で、おっぱいも大きく、足もすらりと伸びていて、アスリート然としている。

 でも、どんなアスリートでもこんなに軽々と百キロを超すテーブルを投げ捨てることなんてできない。

 もともと軽いものなら話は別だが、テーブルが激突したときの音は間違いなく超重の家具がひっくり返ったものであった。

 どんな手品を使ったのだろうか。

 食材や料理が勿体ないよりも、それだけがやたらと記憶に残る。


「勿体なさそうにみえるだろ。安心しろ、こういう〈迷い家〉にある食いものってのはたいていは、な……」


 明王殿レイの履いていたブーツ(あれだ、ファーのついたお洒落なものじゃなくて、安全靴みたいにごっつい奴だよ)が床に落ちた元・料理を踏みにじる。

 さっきまで湯気の立っていた食べ物がひどい残飯に替わった。

 だが、もっと驚くべきことは―――


「ほらな、


 ブーツの下の料理がいきなり紫色や茶色の汚らしい汚物に変わっていったことであった。

 いや、戻ったというべきかも。

 少なくとも美味しそうな料理は床に落ちてもそれなりに食べられるはずなのに、いきなりこんな腐ったり変色したりはしないはず。

 しかも、さっきまで漂っていたいい香りはほんのわずかな間に、放置されていた公衆トイレのような悪臭にかわっていた。

 何が起きたかさっぱりわからないぐらいに衝撃的だった。

 

「うっ」


 あまりにも気持ち悪い変化のせいで吐き気まで湧いてきた。

 このまま何もしないでいたら、私は確実に嘔吐していただろう。

 視覚と嗅覚が落差のあまりに狂いかけていたのだ。

 平衡感覚までおかしくなったのか、立っているのも難しくなりそうにふらふらしだした。


「おいおい、しっかりしろよ。ったく、せめてまっすぐに立ってねえと汚物にダイブする羽目になるぜ」


 二の腕を捕まえられて支えられたおかげでなんとか立っていることはできた。

 彼女の言う通りに、倒れたらこの散らばった元・料理の中に顔から突っ込むことになっていた。


「なんなのよ、これぇ……」

「なにって? 幻術が解けたんだよ。いや、幻術というものじゃねえか。まあ妖怪に化かされたってことだな」

「妖怪って……まさか……」

「なんだ、オレは妖怪退治に来たって言っといただろ。信じてなかったのかよ」


 いや、あんたは良さそうな人だけど、話の内容までは全部信じられるはずないじゃない。

 だって妖怪なんてさ。


「おまえが警戒心もなく引っ掻きまわしてくれたおかげで、オレもこの結界に潜り込むことができたし、ついでにこの妖怪屋敷にも潜り込めたって訳だ。ありがとよ」

「でも、いったい、どういう」

「あんまり考えんな。きっとおまえみたいなタイプは深く考えずに流れを読んでするりと生きていく方がいいぜ。いい奴ってのは、たまに余計なお節介を焼いて痛い目にあいやすいものだからな。何も考えずに生きてみるのもいいやり方だと思うぞ」

「でも、それは生きているっていわなくない? もっと色々なことに関わって自分の主張を伝えたりしないと……」

「いいんだよ。普通の人間は、飯食って仕事して遊んで、たまに選挙いって国のための一俵を投じていれば、それでいいんだ。どうしても我慢ならないことがあったら、ちょっと頑張って仲間を集めて立候補してみたりすれば、な。結果はともかく、それが正しい国民の生き方さ。無理して正義とか重いもののために戦う必要はねえ」


 そんなんじゃあ、あの選挙事務所にいた人たちよりも何もしていないことにならないの?

 あれでさえ、なんとなく政治に参加している程度の満足感しか得られないのに。

 そのくせ、一般人よりも意識高いつもりでいるのだ。

 私が感じた虚無感みたいな徒労の正体はそれだった。

 たかだか、シールを貼ったりする程度で政治家にでもなったかのような錯覚。

 実際にはどうでもいい雑用でしかないのに。


「……そんな無責任な」

「一般人の責任なんてそんなもんだ。本当に責任をとる人間のもつべき重圧とか苦しみなんて感じない方がいい。特に、責任なんて一かけらもないはずなのに思い詰めて地獄に行くようなことは―――見ている方が辛くてもっと死にたくなるものさ」

「そういう人、いるの?」

「いるさ。オレたちみたいに根本的におかしいのとまるっきり違う、ただの男の子が第六天を進むなんて耐え難いだけだ」


 このとき、明王殿レイは顔の向きを少しだけ逸らした。

 私には見せないように。

 それだけで伝わる想いというものはあるらしい。

 コミュ症気味の私でさえわかるというものだった。


「だから、おまえはまあ普通に生きろよ。民草が普通に平和というだけでオレらは意外と救われるもんさ」


 次の瞬間には、明王殿レイはさっきのタフな巫女さんに戻っていた。

 それもそのはず。

 私たちを取り囲むように、無気味な獣たちが食堂を外から窺っていたからだ。


「来たぞ、いいか死にたくなければじっとしていろよ。ここには〈護摩台〉はねえから、おまえにも危害が及ばないという保証はねえからよ」


 そのとき、奇怪な鳴き声が室内に轟き渡った……

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