第312話「妖魅〈殺人サンタ〉」



 蒼が危機を免れたのは偶然ともいえない。

 当たり前のことであるが、彼女はこの結果を予期していたわけではなかった。

 だが、視えていたとはいえる。

 大地蒼はが良かった。

 視力がいいというだけでなく、広角な周辺視野の持ち主であり、かつ、彼女はいわゆる鷹の目といわれる俯瞰した視点でものを上から見ることのできる特技も有していた。

 スポーツ選手になれば、コートの中を縦横に眺めることができるゲームメイカーとして活躍できたであろう。

 本人にその気がなかったうえ、運動能力に秀でたものがなかったことから、眼を活躍させる行動を諦めていただけである。

 かつて、〈ぬりかべ〉に切子が捕まったときは、その眼に映らない妖怪相手であったことから役に立たなかったということだけであった。

 だが、今回はガラスが割れたことを即座に把握したことで、やや周囲を視ることが可能だったのである。

 そのおかげで、蒼はベランダの出入り口の上方に蜘蛛のように貼り付いていた白いトリミングの入った赤い服の化け物に気が付いた。

 正確には、何かありえないものがいるという程度であったが、たったそれだけでも蒼の生物としての危機意識を爆発させるには十分であった。

 不用意に伸ばした腕を引き、掴まれる寸前に逃れることができたのである。

 何もない空間をぎゅっと握った手から蒼は跳び退った。

 気持ち悪かったからである。

 ガラスが割れたことの驚きもあったが、なめし皮のような黒い皮膚と芋虫のような太い指が人間のものというよりも類人猿のそれに近かったからであった。

 だからであろうか、『―――I got it!!みーつけた』という耳障りな喋りに震えあがりそうになった。

 さらに、頭の中で、「ガラスが割れてしまったッス! 弁償しなきゃならないッスかああああ!!」などといったどうでもいいことが渦巻いてしまったせいで足が止まる。

 窓の上片隅からこちらを見ている黄色い不気味な双眸から逃れるべきなのに、蒼の身体が停止した。

 飛び降りるのではなく、頭の位置が舐めるようにすーと下がり、首だけが浮いているような奇怪な動きである。

 しかし、耳に入った言葉は本物である。

 ヒアリングには自信のある切子は英語であることを聞き取っていた。

 太い指が窓の桟にかかる。

 材質に罅が入るほどの強い握力であった。


 ピキピキピキ……


 窓枠が悲鳴を上げる。

 赤いナイトキャップの下の薄汚れた灰色の髭面と、黄色い双眸で飾られた黒い貌が微妙に歪む。

 嗤ったのだ。

 それだけで蒼はこのサンタクロースを捻じ曲げて模したような化け物が、人の範疇に入る事実を強く思い知らされた。

 またも足が竦んでしまう。

 表情のなかった〈ぬりかべ〉と対峙したときとはまったく違う恐怖のために。


「蒼、逃げる!」


 無理やりに彼女を引きずって部屋から出たのは切子だった。

 自分の部屋の惨状を目の当たりにしても、何よりも大切な親友を守るために切子は意地を振り絞った。


 逃げなければ!

 逃げて、逃げて、逃げることが立ち向かうことだ。

 最後まで足掻いて姥貝てジタバタしていれば、きっと勝機が訪れる。

 巫女装束をまとった勝機が!


 切子は勝手知ったる自分の家という地の利を生かしてリビングに転がり出ると、蒼の手を掴んだまま玄関へと走る。

 その際、立て付けの悪かったカラーボックスタイプの本棚を引き倒して、追ってくるのを難しくする小細工をした。

 台所に向けてややカーブを描いて抜けると、鍵を冷静に開けて外に出る。

 乱暴に戸が開かれる音と、何かが派手に転んだような音、それぞれが続いて聞こえた。

 おそらく追ってきた化け物がすべすべの表紙の雑誌を踏んで転んだのだろう。

 時間があればもっと細かい仕掛けもできたが、あの程度で時間が稼げるのなら御の字だった。

 テンパってしまった親友あおと違い、まだ切子は冷静さを保っていた。

 外に出ると池田家はマンションの隅であることから、他の部屋へ続く共用の通路と左右に屋上へと通じる階段、下へ降りる階段がある。

 他の部屋にはまだ明かりがついていて、今の音を聞きつけて住人が顔を出すおそれがある。

 その時に、〈殺人サンタ〉はどう動くだろうか。

 容易に想像がつく。


(あいつの狙いは私)


 或子からの連絡が正しければ、さっきのあいつは切子を襲っているのだ。

 ただ、その過程で邪魔をするものは排除しようとする機械的な化け物のように感じられる。

 つまり、池田家の騒動を聞きつけた近所の住人が危険にさらされるおそれがあるということだ。

 私の不始末を他人に押し付けることはできない。


「どこに行く気ッスか、切子!? 下に逃げた方が確実ッス! その方が或子ちゃんとの合流も早い!!」

「でもね、蒼。近所迷惑になる」


 切子は決定的に言葉が足りない。

 だから誤解される。

 今までもよくあったことだ。

 でも……


「屋上に行くッスね! まったく、そういうの切子らしいッス!」


 蒼はさっきまでガチガチに怯えていたというのに、箍が外れたかのようになっている。

 ただ、切子らしい……とはどういうことだ。


「突然変なことに巻き込まれて、きゃーきゃー言っているのなんて切子らしくないッスからね! あんたは何があったってどーんと構えて、姑息に、卑怯にちゃちな手段で切り抜けなきゃ! 大丈夫ッス、どんな手を選んでも生き残るのが切子のやり方ッスよ!! 自分も一口乗るッス!!」

「バカにしてる」

「そんなことないッス!!」


(まったくあなたは間抜けのようで頼りになるんだから)


 切子は玄関の扉越しに圧力が増えたことを悟る。

 すぐ後ろにアイツがいる。

 逃げなければならない。

 屋上に。

 袖を握った力を強くする。


「行く」

「そうッスね!」


 二人は屋上目掛けて駆け上がった。

 このマンションの屋上には他に階段も梯子もなく逃げ場は完全になくなる。

 袋のネズミだ。

 ただ、自分から選んだのは理由がある。

 あの化け物による被害を他に与えないため。

 一年前に自分を盾にして彼女たちを救った友達がしてくれたように。

 降ってわいたような不幸な出来事だって為す術もなく受け入れるなんてしてたまるか。

 第一、サンタクロースはいい子にしている子どもたちにプレゼントを配ってお祝いする優しさの塊のはずだ。

 あんなのはサンタじゃない。

 絶対に違う。

 否定しつくしてやる。

 小さな切子が手紙を書くことをしたのは、ただらしくないことをしたかっただけではなく……


「ただサンタクロースに会いたかっただけ。アイツなんかじゃない! 絶対に!」


 切子たちはマンションの屋上に追い詰められた。

〈殺人サンタ〉はゆっくりと姿を見せる。

 二メートル半はあろう身長と薄汚れたサンタ服、右手には黒ずんだナタを持ち、トレードマークの白い豊かな髭は野犬の毛のように灰色に縮れている。

 何より、体全体が歪にふらふらと揺れていてまともに立ってさえいない。

 黄色い瞳は狂気に溢れていた。

 人間……とはいえない、禍々しいもの、凶々とした鬼か悪魔。

 暗黒のおぞましいマイナス思念が恨みとともに人になったとしか思えない怪物であった。

 かくも近寄り難いものがいていいのか。あの妖怪〈ぬりかべ〉ですらまだ直視できたというのに!

 だが、切子と蒼は畏れなかった。

 逃げる方法はまだある。

 手摺を乗り越えて飛び降りればいいのだ。

 死ぬかも知れないが、殺されるよりはマシだ。

 二人は目配りをすると、手摺をこえようとした。

 さすがの〈殺人サンタ〉も戸惑う。

 まさか、自殺を選ぶのかと。

 だが、二人はそんなことを選ぶ気はない。

 戦うのだ。

 最期の最期まで。

 殺人鬼ごときにいいようにされるのは、「自分たちらしくない」!!

 らしくないことをしてたまるものかよ!


「さすがにそこから墜ちるとボクでも死ぬから、止めた方がいいね」



 普通の女の子よりもハスキーで、誰よりも頼もしい声が聞こえた。

 ああ、この声を待ちわびていた。

 我知らず目元に水の溜まりができる。


「ボクの友達を弑いたげようとするのなら、まずは振り向くことだね、ゲイリー・キューザック。いや〈殺人サンタ〉かな」


 そう、天上天下唯我独尊ともとれる言葉を叩きつけ、御子内或子は友たちの窮地に辿り着いたのであった……

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