第313話「足取りは正義の重み」
「或子」
「或子ちゃん!」
二人の声が重なった。
息せき切りながらも、屋上の入り口に辿り着いた御子内或子は拳を握りしめて〈殺人サンタ〉を睨みつけていた。
形のいい唇からは荒い息を吐き、ここまで必死に全速力で走り続けてきたことがわかる。
ゼエゼエ、ハアハアと鼓動と荒ぶる呼吸を抑えながら、或子は一歩一歩屋上を歩む。
〈殺人サンタ〉は無表情に彼女を見ていた。
いや、無表情というよりは不可解な生き物を眺めるような、曇った視線であった。
何故か?
〈殺人サンタ〉は、〈殺人現象〉に分類される妖魅であり、北中米の伝説めいた化け物だ。
人間ゲイリー・ブラン・キューザックであったときから、同族である人という生き物を快楽のためのみに殺してきた。
アメリカ軍の調査によると、人間の中には一定数、同族を殺したとしても罪悪感を覚えないものがいるらしい。
人は誰しも人殺しをしたら、罪悪感に囚われ、自分の仕出かしたことを悔い、懺悔したくなるというのはフィクションの世界のことで、同族殺しをしたとしてもまったくもって気にはならないものたちはいる。
だが、それは彼らがおかしいからではなく、単に同族を殺すこと=タブーであるという感覚が欠如しているだけなのだ。
歴史上続いている「人殺しはいけない」ということは、要するに種の存続にかかわる本能であると考えればタブーとして位置づけるのが正解である。
ただ、それを納得させる基準として、人類は「宗教」や「道徳」といった枠組みを用いてきて、二十一世紀の現在ではほとんど成功と言ってもいいぐらいに普遍的な価値観として広がっていた。
しかし、そもそもその価値観を持っていたとしても意に介さない精神の持ち主がいたとしたらどうであろう。
彼ないしは彼女は、なんの躊躇いもなく人を殺し、死体を隠し、何食わぬ顔で日々の生活を送る。
その他大勢の人間たちが一生悩む罪の意識を一切感じることなく、ただ普通に生きていける精神構造を持つものたちはかなりの割合で存在するのだ。
ゲイリーはその一人だった。
もつとも、あくまでも人を殺しても何とも感じない精神構造を持つだけでなく、彼の場合は特定の趣向をもって殺すことで触れずに射精をするほどに昂揚するという特異性があったのである。
男性の睾丸はちょっとした刺激で縮み上がり、男根が興奮のあまりに勃起するとしても、全身にドーパミンを初めとする危険な脳内麻薬が分泌されると自然と収まる。
ゆえに戦いの興奮に酔って勃起しながら戦うバーサーカーのような生き物はまさに想像の世界にしか存在しないとされていた。
だが、ゲイリーはその特例であった。
彼は殺しによって性的に興奮し、殺戮によって射精した。
しかも、無垢なる少年少女―――架空の物語やお伽噺に夢中なる子供たちを手にかけるときには、には特に。
かくして、サンタクロースのボランティアをしながら子供たちの手紙を物色し、カナダ中を恐怖のどん底に叩き落した殺人鬼が生まれた。
生前のゲイリーは自宅前を取り囲んだ警官隊や、彼の正体を見抜きとめようとしたものたちと何度も接触していた。
そのものたちはどいつもこいつも、震えていた。
サンタの姿をしながら、犠牲者の返り血や死体を喰らったときの粘液に塗れた薄汚れた彼を恐怖しながら見ていた。
〈殺人サンタ〉もターゲットの子供たちだけでなく、彼を阻止し、子供を守ろうとするものたちを蹂躙することに喜びを感じていた。
場合によっては、子供を腑分けし解体している最中よりもずっと。
哭き叫ぶ父親や母親を子の前で踏みにじることの愉しさよ!
結局、妖魅〈殺人サンタ〉になってもゲイリーの嗜好は変わることなく、十年以上、世界中を跳び回りながらクリスマスシーズンに実体化し、彼を信じて手紙を送ってきたバカな餓鬼どもを殺し回ってきた。
今年の子供は、手紙を送ってきた歳よりも十年も経ってしまっていたが、まだ嬲り甲斐はある年頃だ。
しかも、窓から覗き見たとき、思わず涎が出るように可愛らしい。
東洋の菊人形のようだ。
さぞかし興奮する悲鳴をあげて、血液の迸りを魅せてくれることだろう。
何度も逃げ回られたせいで、妖魅の感覚をもってしても居場所を突き止めるのに苦労した甲斐があるというものだった。
隣にいた友人らしい女の子も一緒に殺してあげよう。
二人を横に並べて友達が縋り付いて命乞いをするのを見物させてあげよう。
なんて親切な俺様なのだろう。
この極東の黒い髪の餓鬼どもはどいつもこいつも嗤わせてくれる。
―――と思っていたらなんと逃げられた。
〈殺人サンタ〉は少し驚いた。
獲物が逃げることは普通だ。
わざと逃がして追い詰めて遊びに興じることもする。
だが、あの黒髪の東洋人の餓鬼は見たことがないほど冷静に彼の手からすり抜けようとしていた。
そんなことを許すことはできない。
もっとも、所詮は知恵の足りない餓鬼。
馬鹿の証拠に逃げ場のない建物の屋上へと逃げやがった。
〈殺人サンタ〉はよく知っている。
子供は自分勝手で愚かで間抜けで、少しビビらせるだけで涙を流しながら逃げることしかしないただの生きた玩具でしかない、と。
せいぜい喚け。
せいぜい逃げろ。
おまえらを嬲って、俺の邪魔するものを掃除して、一分一秒でも愉しませろ。
愉快な子兎ども。
ナタをもってサンタクロースのお爺さんがやってくるぞ。
バカな子供を、プレゼントを待ち望む欲深な餓鬼を、解体するために。
―――なのに、なのに。
ようやくディナーにありつけたと、愉しもうと思っていた矢先にやってきたサンタのような紅白の衣をまとった餓鬼はなんなのだろう。
俺を、〈殺人サンタ〉を一切怖れていない眩しい眼光はなんなのだろう。
酷く不快だった。
彼は知らない。
それはこの日本に限らず、世界中で闇に生きるものから人々を救ってきた陽のものが放つ光だと。
三千世界に輝き渡る光の印だと。
サンタを信じる無垢なる子供たちを玩具にして弄ぶという取り返しのつかない悪業を重ねてきた妖魅に対して、一歩も引かずに立ち向かおうとする大文字の正義の使いであるのだと。
大義を背負うものはそれだけ騒々しく、誰よりも絢爛に双眸を炎で滾らせる。
そして、その日本古来の巫女の衣装をまとう少女は、友達を守るためにやってきたのだ。
息をする暇さえも惜しんで駆け上がってきたのである。
「わざわざ他人の国に土足で上がり込んだ挙句、勝手放題に振る舞い、ボクの友達を狙おうなんて、誰も許さないが特にボクが許さない……」
御子内或子はずんと踏み出した。
マンションの全棟が震えるような重い踏み込みだった。
彼女に宿った正義の重みに違いない。
「化け物。―――キミに明日のクリスマスイブは拝ませない!」
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