第558話「空手対暗殺者」
野生の勘が御子内或子ほど鋭くなかったとしても、やはり那慈邑ミトルは空手の達人であった。
薄い殺気を放つ誰かの存在に無頓着でいられるほど警戒心の足りない娘ではない。
そして、突然色濃く漂い出した妖気の臭いにも。
「お爺さん、伏せて!!」
神宮女音子の祖父らしい老人の頭を掴んで下げさせた。
自分も伏せる。
ギュイイイイイイイと機械的な爆音が響き、同時に空気を切り裂いて何かが首のあった位置を通り抜けた。
激しい音と共に座っていた椅子の背もたれが両断されている。
ほとんど見もしないで、無理な体勢のまま裏拳を放った。
何者かが自分たちを襲ったことはわかっている。
しかもただの襲撃ではなく、電車の椅子を両断できる力を持つ何かだ。
手応えはあった。
何かが軋む音。
それは筋肉を拳が打つ聞き慣れたものだった。
ミトルの裏拳をまともに受けて、そいつは苦鳴をあげて下がっていった。
追撃の必要ありとしてミトルは狭い通路に低い姿勢で滑り出る。
蜘蛛のように下半身を這わせるとその上をまた何かが楕円を描いて通り抜けていった。
それは刃渡り(といっていいのか)一メートルほどのチェーン・ソーであった。
手元のグリップを握り占めることでエンジンが即座にかかり、鋭い刃が回転して異常なまでの切断力をだしている。
少なくともただの大工道具ではない。
まさに人を破壊するための武器といっても過言ではなかった。
そんなものを電車の車内に持ち込んで、人の首を襲うなんてどんな馬鹿だとミトルが感じていると、なんと後ろからも気配がしてきたので思わずもう一度裏拳を放ってしまった。
「やばっ!!」
思わず呟いてしまったが、すぐに訂正する。
ミトルが顔を破壊した人物は、額が大きく禿げ上がり、口が耳まで裂け、眼が驚くほどに丸い、魚にそっくりな男だったからだ。
そしてわずかに香る、魚市場の生臭さ。
香水では消せない深海の臭いだ。
「C教徒か!?」
老人が頭を抱えた姿勢のまま叫んだ。
またも聞き覚えのある名前だ。
いや、ミトルが知っていて当然だろう。
それは彼女たちの宿敵を崇めまつる邪教徒の一つなのだから。
「そんなのに狙われるなんて……」
ミトルは敵が座席の通路の前後を塞いでいることを知った。
数は前後から三人ずつ。
全員とは断言できなかったが、スーパーあずさの乗客である。
それがいきなり本性を表して襲ってきたという訳だ。
さすがに狭くて一気に押し寄せてはこないとしても多勢に無勢は否めない。
座席を飛び越してくるには、移動中で多少揺れている電車の中というのは難しいから逆に対処しやすいとも思えたが……
「水淵のCがこんな場所に出るなんておかしいですね」
彼女が乗り込んだ時、一緒にこの号車にのったものはいなかった。
もうすでに乗り込んでいたものばかりだ。
老人でさえ、甲府以前の乗客のはずだった。
つまり、もっと前の段階で乗り込んで来た連中が甲府を過ぎた段階でようやく動き出したということになる。
(ということは、このおとちゃんのお祖父さまらしい人が狙いなのかしら)
甲府で乗り込んだミトルが狙いの可能性は低い。
なぜなら、ミトルは満席の中たまたま空いていた座席を選んで購入したからだ。
しかし、今考えると満席であったはずなのにこの号車は空席だらけだった。
一番、客が乗り込みやすい甲府駅でそんなに人がいないはずがない。
要するに……
「このお爺さんをいいところで闇討ちできるように最初からキップを買い占めていたというわけかしらね」
目標の隣まで買い占めるとさすがに怪しまれると思ったのだろう、ミトルの席だけはわざと空けておいたのが失敗だった。
謎の縁に導かれて、退魔巫女がやってきてしまったのだから。
「神宮女音子の一族をC教徒が暗殺しようとする。……違うのかな。政治家としてのお爺さんが狂信者の邪魔になることをした。そんな感じね」
ギュイイイイイイ
前後でチェーン・ソーが背筋の凍りつくような音を発する。
持ってるものは共に魚によく似た醜い―――インスマス面だ。
武器を持って陸に上がった半魚人に囲まれるという滅多にない経験を電車の中で体験することにミトルは辟易としていた。
腹を殴られて吹き飛ばされて、ミトルがどういう相手か理解したのかすぐには襲ってこない。
それでもジリジリと間合いを詰めてくるのは彼女ごと押し包もうという腹なのだろう。
偶然、ミトルが居合わせなければきっと成功していた暗殺に違いない。
「おとちゃんのお祖父さん。喧嘩は?」
「普通だ。神宮女とはいっても、ワシが修業をしていたのは若いころだけだしな。息子や孫ほどの神通力もない。頭が回るから〈社務所〉と一族のために政治家の道を志したのだ」
「……なるほどです」
それだけ聞いて満足したので、ミトルはまさにチェーン・ソーを上段に掲げて真っ向から両断してこようとするインスマス面に突っかけた。
「
その名の通りに疾風のごとき足さばきで狭い廊下をタイムラグなしで駆け抜け、右正拳がインスマスののっぺりとした面を破壊する。
申し訳程度についている鼻の軟骨ごと拳がめりこむ。
これが空手の破壊力に〈気〉をこめたミトルの拳であった。
伊達や酔狂で御子内或子たちと修業を重ね、共に媛巫女になった訳ではない。
ただの一撃で再起不能にされたC教徒の手から落ちたチェーン・ソーを高く上げた踵で蹴り飛ばし、奥に控えていたもう一体にぶつける。
断末魔に握りしめていたせいでスイッチの入ったままのチェーン・ソーが同士討ちの武器となってしまい、そのまま夥しい血が飛び散る。
『いてぇ!!』
別世界の血が産みだした見た目はほとんど魚の様な異形の存在が、人間の言葉で痛がるという光景は普通ならば失神してもおかしくないだろう。
だが、ミトルにとっては慣れた出来事だった。
どのみちいつかは戦う相手だと、散々叩き込まれてきたのだから。
二匹の動きを止めたとみると、今度は反転して、通路側の席に長い足をかけて飛び乗った。
狭い空間の安定していない座席の上をまるで飛び石の上をかけるように走る。
その際、荷物棚を掴んで方向転換もかけていたせいで、後方から迫っていた三匹は視線を上げなければならなくなった。
こちらは一文字に振ろうとしたチェーン・ソーが目標を見失う。
またも顔面目掛けてミトルの飛び蹴りが炸裂する。
狭い通路であるからこそ、直線的な空手の技は威力を発揮するのだ。
ミトルのローファーの底が眉間と額を丸丸破壊した。
三匹の魚人は折り重なるようにして後ろに倒れる。
そのうちの中央に目掛けて、立膝を落とした。
プロレスでいうニー・スタンプだった。
あばら骨を何本も完全に折った感触が股ぐらに伝わる。
多少不快であったが、それも戦いだ。
最後に残った動揺して泡を吹いている一匹を手刀で仕留めると戦いは終わった。
この程度の敵で那慈邑ミトルを倒すことなどできないという教訓だけを相手に植え付けて。
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