第506話「地の底の魔王」



 獣よりもさらに濃密な獣臭を放つ小山が聳え立っていた。

 いや、そいつは立ってなどいない。

 洞窟の壁に寄りかかり、じっと座り込んでいるだけだった。

 それでも下から見上げる二人の卑小な人間にとっては遥か高みに位置する、人智の及ばない存在であった。

 一本一本が電線のように太い剛毛に覆われた毛むくじゃらの体は醜悪に焼き爛れた猿のようだが、泥に汚れた姿はモグラにも似ていた。

 ただ言えることは、そいつは劇画化された油絵のごとく歪で、生贄を欲する神の宮殿の巨大な壁画にも似通っている。

 とにかくちっぽけな人間に言えることは、この存在は決して計り知れないということだけであった。

 初めて目の当たりにした神―――と呼ぶのが相応しいものに、さすがの御子内或子も身震いを止めきれなかった。

 恐怖ではなく、あまりにもカタチの違うものに対する畏怖のようなものであった。

 神を討つための巫女として養成されたとしても、まさに本物の神そのものと対峙すればいかにそれが無謀な考えなのかわかる。

 ニンゲンは本来決して神には遠く及ばないものなのだから。

 隣にいる一遍僧人までが蒼白な顔で問いかけるように見つめてきた。

 明らかに、どうする、逃げるか?と眼で訴えかけている。

 仏凶徒〈八倵衆〉の最高幹部である八天竜王の一遍僧人が完全に逃げ腰だった。

 もともと奥多摩で地球の生命のラインともいえる龍脈を用いて、東京に地震を引き起こし、地の底に潜むこの神を刺激しようとしていたというのに、実際に目の当たりにしたことで怯懦に囚われてしまったようであった。

 地の神の前からすぐにでも逃げ出しかねない雰囲気を発し始めた。

 だが、例え一人で逃げたとしても、ここに来るまでに突破した神の落し仔たちの間をもう一度超えることができることは到底できそうにない。

 彼もわかっているのだ。

 交渉するしか道はない、と。


「どうだい、ツァトゥグァ!!」


 御子内或子は呼びかけた。

 友達とまではいかなくても、それなりの親愛の情を表に出して。

 敵意剥き出しとはならないのは、この巨大な神格のもつどことなくユーモラスな見た目のせいだろう。

 伝承によれば、この神は空腹状態でなければ、旧き神であるらしい。

 そして、空腹でないのは足元にやってきた人間二人に舌を向けないことで明らかであった。


「ボクはキミらとは比べ物にならない定命のニンゲンの一人だ。ただ、キミとの間に取り引きをしたくてここまで来た!!」


 神に対してキミと親しげに呼びかける少女。

 黄色い双眸がじろりと動いた。

 或子を見たのだ。

 同時に全身に瘧が走る。

 神の視線を向けられただけで人体を構成するすべての細胞が拒絶反応を起こしたのだ。

〈気〉を巡らせて防禦しなければ三秒と保たなかったであろう。

 これが神と人の力の差であったのか。

 存在感の奪い合いで負けてしまったかのようだ。

 

「ご挨拶だね。でも、いいさ、ボクのをことを気にしたね。じゃあ、これもわかるだろう」


 背負ったカバンの中から魔導書〈螺湮城本伝〉を取りだす。

 両手でもって抱え上げる。


「これがなんなのかわかるはずだ、キミが神だというのなら。その辺の妖魅なんか比べ物にならない頭脳をもっているのだろう?」


 挑発的な言動だが、それは地底の神に通じたらしい。

 眼だけでなく大きな口が開き、長く太く逞しい肉の棒が奥から伸びてきた。

 舌、だとわかった。

 それが近づいてくるというだけで一遍僧人は恐ろしさで腰が砕けそうになった。

 しかし、御子内或子は動かない。

 雄牛のような舌の先端が或子の顔の前に達した。

 ただし、興味があるのは魔導書の方らしい。

 値踏みするように動かない。

 濡れた先から粘着質の液体が零れ落ちる。

 ぴちゃりと地面に落ち、水滴が或子のブーツを汚した。

 それでも或子の白皙の顔は一切歪まない。

 ひたすらに醜いヒキガエルのような神を睨みつけている。


「―――この〈螺湮城本伝〉の中にキミの助言を求めることのできる呪法がある。一人のニンゲンがただ一度だけ使えるものだけれど、それに対してキミは答えなければならないはずだ」


 自然にできた小山に話しかけているようだったが、明確な意思があった。


「その答えの代わりに、キミにボクが対価を支払おう。暴食のキミが望むものだ!!」


 一遍僧人が胡乱な目つきを送った。

 神との取引の材料など、どんなものでもあり得ないからだ。

 あるとしたら―――生贄。

 ここでびくりとした。

 神に生贄を捧げ願いをかなえるとしたら……

 まさか、自分を差し出すはずもない。

 では、

 ここには或子と自分しかいない。

 消去法でいうのならば、結論は一つだ。


「まさか、拙僧を!?」


 しかし、その発言は推しとどめられる。

 ほかならぬ或子の掌で。


「―――ボクはそんな外道な真似はしない。舐めないでくれないか。……ツァトゥグァよ、ボクがキミに捧げるのは一柱の神の撃退だ。もし地上にキミがでようとしたら、それを邪魔する一柱の神がいるのはわかっている。そいつを一月以内に討ち倒し、キミの自由を守ろう。それが取引の条件だ」


 すると、神の舌が震えた。

 震動した。


「そいつの名は、〈ラーン・テゴス〉。キミと一緒に惑星ユゴスからきたという天敵さ!! そして、キミにとっては不倶戴天の仇敵のはずだ。なんといっても、神であるキミらを主食にしているクグサクスクルスかみをくうものの分身であるのだから!!」


 

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