第507話「音子舞う」


 音子は全身をゴムのように捩って、両手から生まれる遠心力を使い、自分自身をプロペラのごとく回転させた。

 こればかりは他の同期でもできない、新体操のオリンピック選手ですら凌駕する彼女の身体能力であった。

 人間の物とは思えない柔軟性が産みだす、雑技団めいた軽業。

 首を絞められたままの状態で躰を上方に押し上げ、指による締め付けを無効化すると、そのままなんと壁越しの廃棄僧侶の腕を鉄棒代わりにして舞い上がったのだ。

 もし、この動きを見ていたものがいたらきっと意味も分からず呆気にとられたであろう。

 逆に、音子を襲おうとしていた悪霊はむしろ異常も感じずに突っ込んでしまうことで、自ら罠に飛び込んだ結果になる。

 ほんの一瞬、振り子のように交わし、鉄棒競技のごとく回転した音子の踵が、そのまま振り下ろされた。

 伸びきった敵の腕を支柱にした月面宙返り蹴りムーンサルトキック

 この世の物理法則など無視できるはずの悪霊の脳天を削り取るほどの勢いは、そのまま不死の存在を床に叩きつけた。


『ジャララララ、ジャララ!!!!』


 怨みが煮詰まった声帯から漏れた絶叫が悪霊に致命傷を与えたことを物語っていた。

 しかも、音子は壁から伸びた腕に対して微妙な捻りを加え、その筋を痛めることに成功していた。

 太い腕が赤く腫れあがる。

 一気に筋肉が熱を帯びたのだ。

 ピンチを一瞬で逆転の一撃に繋げ、音子は床に着地する。

 その際に悪霊の頭をさらに踏みつけることも忘れない。

 トドメを刺さずに敵を放置することは、〈社務所〉の退魔巫女の流儀ではないからだ。

 きっちり始末をつけておかないと損をするのは自分である。


「―――嘘」


 だが、音子の足裏の感触は倒したはずの悪霊から発される妖気を感じ取った。

 斃しきれていないのか?

 下から伸びてきた手に掴まれないようにもう一度、音子は飛び上がる。

 ほぼ同時に彼女は壁の向こうから強すぎる殺気を感じ取った。

 彼女の勘が正しければ、壁によって遮られたあちら側で行われているのは―――ただ一つ。


「オン シュチィリ キャラーロハ ウンケン ソワカ!!」


 決して間違えることのない、神宮女家の秘奥の真言マントラを唱える。

 仏法を守護する五大明王である、西の守護者―――大威徳明王真言。

 音奏とは、咽喉から美しくもかすかにしか聞き取れない音色を奏でることであり、念術とはその声に激しい呪力を乗せることである。

 ヒュールルとでもいうべき螺良とした調べが音子の唇からもれたとき、この死霊の憑りついた家屋のすべてが沈黙に支配される。

 衣擦れどころか、壁によって隔てただけの場所においても、瞬殺無音の世界となった。

 そして、音子の予知にも類するいくさ人の勘は正しかった。

 壁一枚隔てたダイニングにおいて、聞いたものすべてを狂死させる死の絶叫が轟き渡っていたのだから。

 大柄な巨漢である一休僧人がタイミングを見計らって、壁を貫いて巫女を拘束している間に、天海僧人は一気に呼吸をして、室内全ての空気を吸い込むかの如く風船のように膨れ上がった。

 纏っている紫衣がはち切れんばかりに膨らむ。

 このとき、天海の上半身の体積は確実に二倍になっていた。

 そのまま大きく口を開くと、咽喉の奥に緑色の葉っぱが顔をのぞかせていた。

 天海は開いた口腔に手を添えて、山頂に登ったハイカーのごとく大声を発する。

 だが、それは死の声だった。

 褐色の肌の僧侶が腹腔に納めていたのはアルラウネであったのだ。

 地面から引き抜かれた瞬間に周囲全てを道連れにするという絶叫が、天海僧人の気道に収まることで指向性のある音波兵器と化すのである。

 このとき、天海僧人の全身はアルラウネの絶叫を撃つための砲身に変化していた。

 その矛先が向かっていたのは壁の反対側にいる〈社務所〉の巫女である。

 耳にしたものをすべて殺す呪いの絶叫で敵を滅した。

 はずであった。


(ん!?)


 先に異常を嗅ぎ取ったのは一休僧人であった。

 アルラウネの絶叫砲とでもいうべき破滅の声を聞いても倒れもせずにいた一休僧人であったからこそ、自分たちを押し包む世界の異変にいち早く気が付いたのだ。


(音がせぬ?)


 一休僧人は耳が聞こえない。

 それだけでなく眼も視えないのだ。

 だが、それにもかかわらず他人と平然とコミュニケーションをとれるのは、彼の最大の秘密であり武器があるからである。

 その武器が消滅してのだから当然であろう。


(一休の震えが止まった、だと?)


 彼の全身は絶え間なく揺れていた。

 震えそのものが彼の生命といっても過言ではないくらいに。

 血液が心臓を鼓動させるように、自分自身の筋肉で絶え間なく産みだされる震動が他の響き―――例えば万物の音を聞き取り、他者の動きを暗黒の中で見分けるのである。

 この力故にアルラウネの絶叫すら一休僧人には通じず、音子を引きつける役目を買ってでたのだ。

 その震えが止まった。

 いや、消された。

 彼の全身はまだいつも通りに揺れ続けているというのに、肉体から離れたと同時に消滅してしまうのだった。

 なんだ、これは?

 震動がなくなったことで彼と世界との連結が断たれた。

 視えない場所に差し出した右腕のかすかな痛みも忘れるほどの衝撃であった。

 このとき、今の彼になって初めての喪失感と焦燥感が産まれる。

 一休僧人の名を襲名し、無敵と恐れられた彼が我を忘れかけたのだ。

 そのため、ダイニングの入り口から飛び込んで来た覆面の巫女への対応が遅れる。

 本来ならば護衛役として天海僧人を真っ先に守らねばならないというのに、役目につくという判断をし損ねたのだ。

 巫女の動きが燕のものよりも速かったのは言い訳にならない。

 とはいえ、神宮女音子の突貫が神速であったことだけは事実である。


Muereムエレ!!!」


 一瞬だけ防御に使った〈大威徳音奏念術だいいとくおんきょうねんじゅつ〉を消して音子は奥の天海僧人に迫る。

 位置関係からわかっていたのだ。

 さっきアルラウネの絶叫を使ったのは褐色の僧侶だと。

 死なずに妖植物を駆使した仕組みなんかはどうでもいい。

 まずはなんとしてでも制圧しなければならないのは、アルラウネなんていうヤバイものを武器にしたあいつだ。

 音子の一撃自体は御子内或子や明王殿レイに比べれば弱いが、それでも一撃で人間サイズのものならば沈める自信はある。

 策に対するのならば奇襲は有効だ。


 これで一人倒す。


 だが、音子の拳は天海僧人にまで届かなかった。

 なぜならば、彼女の背中に一匹の黒い影が憑りついていたからだ。


『ニャー』


 猫のものにしては怖気の走る気持ち悪い鳴き声をあげたものは、五歳くらいの坊ちゃん刈りの男の子であった。

 ただ、口が耳まで裂けて、瞳孔は縦に割れた、半人半猫のような悪霊であった……

 

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