第508話「〈五娘明王〉と……」
猫の鳴き声のことを、大陸では死産の嬰児のものと同一視することがある。
つまり、生を受けずに死んで産まれた赤子が猫に転生するという思想があるのだ。
それだけ猫撫で声というものは人のものに近いと考えられている証拠でもあった。
『ニャー』
背中にはなんの重みも感じなかった。
つまり、音子は敵の存在に微塵も気が付かなかったのだ。
〈気〉を使って敵の位置を把握することは可能なので、本来ならばこんな風に死角に憑りつかれることなどはありえない。
ただ、この家に入り込んで、二人の廃棄僧侶を発見し、巣食う悪霊を躱し、一休僧人の腕を掻い潜るという一連の動きの中ではそんな悠長なことをしている余裕はなかっただけなのだ。
おかげで背中に貼りつかれるという失態を演じてしまった。
そして、それは致命的なミスとなる。
猫と幼児の混じり合ったような悪霊の手が後ろから音子の顎を左右から挟み込んだ。
そのまま捻る。
ただの人間であったのならば脛骨を破壊され、首が半回転した死体を晒して終わったであろう。
音子であってもそうなっては終わりのはずだった。
しかし、彼女は強い運を持っていた。
悪霊が掴んだのは彼女が被っていた覆面の表面だけだったのだ。
それがぐいと引っ張られた瞬間、覆面と実際の顔の皮とのあいだに隙間が産まれる。
0コンマ何秒程度の時間。
もしくは刹那の一瞬。
音子は床を蹴り縦に回転した。
ありえない方向に軸を持つ縦回転。
床を蹴る瞬間に足の裏に張った〈気〉を爆発させたのである。
これは同期の誰も使えない、音子だけの技術であった。
諦めずに挑戦を続けてきた研鑽が彼女を救う。
悪霊による首の骨の破壊を免れたら、空中で回転しつつ、腕を伸ばして敵を逆に捕まえると立てた膝を腹に押し当てる。
そのまま膝に〈気〉を集め、すべてを無音にし、震動すらも消し去る〈大威徳音奏念術〉を叩きつけた。
(
そして、これこそが音子の最大の秘奥義であった。
限られた空間の音を消し、震動さえも対消滅させる〈大威徳音奏念術〉を肘や膝という部位から相手に叩き込む。
すべての生物は原子でできている。
原子は
つまり、原子というものは常に動くことが前提とされているのである。
しかし、神宮女家の秘奥義〈大威徳音奏念術〉はその効果を心臓に近い部位―――四肢の先端ではなく―――から他のものに叩き込むことができる。
食らったものは当然全身のありとあらゆる震動が消されることになる。
これを彼女の家系では―――瞬殺無音芸という。
〈大威徳音奏念術〉を自在に操れるようになったものは、この秘技を使いこなせるようになり、それはどんな敵を相手にしたとしても通じる剣となる。
すべての生き物は原子でできているのだから。
本来肉体を持たない霊であったとしても、〈気〉と併用することで聖なる効果を与えられ、たかが死した子供の悪霊程度では耐えられるはずもない。
音子の〈
彼女自身、一撃に自信があるタイプではない。
それなのに〈神音〉の破壊力はただの一発で決めてしまったのである。
これには音子の方が驚愕する。
〈大威徳音奏念術〉を体技に応用することは、神宮女家にとって最大の悲願であり、長い一族の歴史の中で音子が初めて体現したことから、その破壊力については誰も把握していなかったこともある。
まだ実戦に使うのは不慣れなはずの音子ですらこの威力なのは理由があった。
この〈神音〉は―――神を討つための業なのである。
敵の原子を
人間のための技ではなく、西の五大明王・大威徳明王のための奥義であった。
わずかな一点に籠められるパワーは明王殿の〈神腕〉すら上回るだろう。
これこそが〈五娘明王〉の一柱・神宮女音子の極致であった。
ただ、本来これはアルラウネを隠しもって殺戮兵器として利用していると判断した天海僧人のために使う予定だった。
しかし、幼い悪霊を斃すのに使ってしまった結果、やはり大きな隙が生じてしまう。
いかに百戦錬磨の退魔巫女といっても、そこを突かれれば脆くなるのも当然。
戦いの流れは音子に味方しなかった。
この時の彼女の敵は、ただの人間ではなかったのだ。
廃棄僧侶―――衆生を救うべき仏法を妖魅必滅のために振るい、這いずる蟻を踏みつぶすようにどのような被害が出ても一切気にも留めない魔人〈八倵衆〉。
そのうちの二人が揃っていたのである。
「
悪罵を発するだけが音子の最後の抵抗だった。
前後から襲い掛かってきた体格も違う仏凶徒に抑え込まれ、音子は完全に制圧された。
中空を舞う媛巫女が虫のように床にへばりつき、抗うこともできなくされたのである。
(―――アルっち!! ミョイちゃん!! 京いっちゃん!! ごめん!!)
高貴な産まれ故、人に頭を下げる関節が堅いとまで評された音子が謝罪したのは負けたからではない。
自分のしくじりが仲間たちにとって最悪の罠になるかもしれない予感を抱いたからである……
◇◆◇
「いいよ、おまえ様の申し出を受けようじゃないか、〈八倵衆〉のお人」
大胆なことに、歌舞伎町にある仏凶徒の出先機関らしいバーに単身でやってきた御所守たゆうさんは悠然といい放った。
快川和尚のある意味では虫のいい提案をまったく無条件で呑んだのである。
「いいのか、御所守どの」
「まあ、単純な感想だけを言うのなら、明日の投票までにはもう時間がないのだからもっと早く話をつけにこいということですが、その辺はいいでしょう」
遠まわしどころか直接的な皮肉ですね。
「こんなギリギリまで
たゆうさんはしつこいぐらいに念を押した。
確かに時間がないのだから、間違った行動を採っている暇はない。
「そうじゃ。この呪殺は天海僧人の〈亦説法〉によって衆生に呪詛を植え付けるものだ。彼奴が用意した呪法であり、彼奴が落ちれば呪いも破れる。だが、それゆえに一休と孔雀までが派遣されたのだ。単純な戦闘においてはあの二人は〈八倵衆〉でも随一よ」
「残りの二人はどうしたのです」
「さすがに関西を動けぬらしい。お主らのところに一遍と文覚が捕らえられておるし、僧の人手が足りんのじゃ。わしはこれ、この通りの裏切者じゃしな」
「噂に聞く、道鏡と西行の二人ですか。わたくしでもできることなら会いたくない相手と聞いております」
「なに、ただの人三化七よ。怪物と変わらぬわ」
それこそ会いたくないけどね。
でも、道鏡と西行ね……
噂に聞く〈八倵衆〉最後の二人までこっちに来ていなくて助かったかも。
「……では、こちらとしては早々に帝都に侵入した三人の〈八倵衆〉を討ち果たすように命じましょう」
「居場所はわかるのか」
「残念なことに、昨日の夜、うちの媛巫女の一人が仏凶徒らしきもののアジトをつきとめましたが、その後連絡がございません。遺骸はみつかっていないので殺されはしていないようですが、拉致されたのは間違いないでしょう」
「たゆうさん、誰かが攫われたっていうの!?」
僕は思わず分をわきまえずに二人の会話に割って入ってしまった。
媛巫女が攫われたって聞いたらいてもたってもいられなくなったのだ。
御子内さんだけじゃなくて、音子さんもレイさんも藍色さんも僕の大切な友達なのだから。
「落ち着きなさい、おまえ様。……神宮女の娘はもう〈五娘明王〉として覚醒しておりますよ。そうたやすく殺されるような運はもっておりません」
「音子さんが……!!」
「〈五娘明王〉が捕らえられただと……?」
「二人ともそんなに心配はしないことです。〈五娘明王〉になるべくしてなったものは、きたる神物帰遷の時までそうたやすくは死にませぬ。そういう定めなのです」
「でも……」
たゆうさんは手にしたスマホの画面を見せた。
ショートメールが入っていた。
そこには―――
「この広い東京において、たった三人の敵を見つけるのがどれほど難しいかはわたくしどもとて理解しておりますからね。しかも、たったの数時間しかなくては、まさに奇跡がなければ難しいかもしれません。ゆえに、奇跡を起こすことにしました」
「どういう意味なのじゃ」
「人知を超えた奇跡が必要というのならば、神に聞いてみればよいのです」
「へっ」
僕と和尚はきっととんでもなく間抜けな顔をしていたことだろう。
それぐらいたゆうさんの提案は常軌を逸していた。
「―――この新宿の地下はとある異空間と繋がっております。そこに潜む、まだまだ比較的に御しやすい神に、三人の〈八倵衆〉の居場所を教えて貰うためにわたくしの孫を行かせました」
「孫? おぬしは独り身ときいているぞ、御所守どの」
「実の……ではありませぬが、このわたくしが精魂こめて育てた切り札なのです」
切り札と聞いて思い浮かぶのは一人しかいない。
「もしかして、御子内さん……?」
「ええ、おまえ様。わたくしども〈社務所〉にとって究極にして最大の
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