第505話「陶片追放」
高橋洋輔は政治にはまったくといっていいほど興味のないサラリーマンであった。
もし、彼が営業や総務といった仕事についていれば、なにかしら生の政治家に出会うこともあっただろうから多少は認識も変わったであろうが、運の悪いことに彼は経理のエキスパートであり、出社して退社するまでのほとんどの時間を会社の自分の部署で過ごすのが日課であった。
かつ、休日も近所の同年代の仲間たちと野球をやって、酒を飲んで、たまに別の何かをするだけの社会全般と交わることのない生活リズムの持ち主だった。
天下国家がどうのとか、今の日本の経済は回復しているのか停滞しているのかとか、そんなことは考えないようにしていたといってもいい。
家に帰れば、ニュース番組のキャスターの意見をそのまま自分のものとして、昔から馴染みの芸人の発言を真似して見せる。
新聞も読まないし、ネットの記事もチェックしない。
ほぼ自分の周囲だけで解決している、ある意味では普通のサラリーマンであった。
ただし、今日の彼は違っていた。
異なっていた。
彼は政治に対して憤っていたのだ。
「……今のままでは日本は駄目になる!!」
道端に捨ててあったペットボトルを蹴り飛ばし、高橋は叫んだ。
少し前を歩いていた中年女性がびくんとして振り向くが、そんなことはおかまいなしだ。
たかが見ず知らずのおばさんにどんな目で見られようと、彼の感じた憤懣やるかたない思いにはいささかも水が差されるものではない。
次から次へと湧いてくる日本の政治への怒りに我を忘れそうになる。
「今の政治家たちは全部だめだ。辞めさせて新しい血を入れなければならねえ!!」
高橋は唾を吐いた。
まさに唾棄すべきものたちに吐いた気分だった。
「総理大臣も、外務大臣も、大蔵大臣もみんなゆるせねえ!!」
現在の日本ではすでに大蔵省という省庁がないことも知らないし、総理の名前さえもでてこないのに高橋はこき下ろした。
政府がすべて悪いのだ。
政治がおかしいのは政府のせいだ。
野党も狂っている。
どんな暴力的な手を使ってでも政府を打倒しなければならないのに、なにをだらしないことをしているのだ。
国会で総理大臣が何やらむずかしいことを喋っている間に刺殺してしまえばいいのに。
役人もダメだ。
警察もクズだ。
善良な国民のことをなにもわかっていやしない。
今の日本の上にいる連中はすべて皆殺しにしたっていい。
そして、新しい政治家を―――指導者についていくべきだ。
「―――新しいリーダーは……」
だが、その具体的名前は浮かんでこない。
それも当然である。
高橋は誰か特定の政治家を支持してなどいないからだ。
今の彼の過激すぎる発言は、すべて他人の受け売りだったのである。
ついさっき駅前で耳にした都知事選の候補者が発していた演説をそのままなぞっているだけなのだ。
しかも候補者が語っていた内容は一切耳に入っていない。
彼が影響を受けていたのは、その候補者の演説に重なるようにして脳に響いてきた言葉であった。
それはこう演説していた。
『末法の世を救済することにある。菩提心に目覚めよ、衆生たち!!』
『―――お主らが
『恥知らずの蛮都を血で染め上げて世界を救うのだ!!』
高橋は激昂していた。
恥知らずを血祭りに上げよ、と。
彼は自分が革命者になったような強い錯覚を覚えていた。
今の彼が前世紀の初頭のロシアに生まれていたのならば、レーニンやスターリンのいい部下となっていたことであろう。
血による変革こそが大切なのだ。
だが、彼はボルシェビキのように武器をもって変革を訴えることは考えていなかった。
彼には武器があるのだ。
それは家にある。
一週間以上も放置していた、あの封書だ。
部屋に戻ると、独身の男らしい汚れてちらかった部屋を荒らす。
「あった」
探し物はすぐに見つかった。
固めの封書に入った紙切れを取りだす。
それは投票用紙であった。
これを選挙のために設けられた投票所に持ち込めば、名前を書くための用紙と交換できる。
国民の権利―――選挙権を行使するための紙であった。
「これだ。これを使えば―――」
高橋は天井を睨みつけた。
彼の目には一人の男が映っていた。
まだ四十過ぎだというのに頭の禿げあがった、毎日見る顔だった。
今日も彼の仕上げた書類を前に何度も何度も嫌味な舌打ちをして、「おまえ、ホント使えねーよな。もうちょい早く仕上げろよバーカ」と課の全員が聞いているのを承知でコケにしてきた奴だった。
俺の仕事が遅れたのは、あんたの仕事の割り振りが下手なせいじゃないかと怒鳴りたくなったが我慢する。
もともと役員のコネ入社で仕事もできないくせに出世が約束されているような奴だ。
下手に逆らったら痛い目を見るのは自分だ。
それがわかっているから、こいつは……
「聞いてんのか、ウスノロ」
ネクタイを乱暴に引っ張って無理矢理に頭を下げさせる。
「これだからFランの大学しか出れねえ奴は」
てめえだって似たようなもんじゃねえかと罵りたかったが、高橋はただひたすらに頭を下げた。
そうしないといつまでも終わらないからだ。
「さっさと死ねよ、それか辞めろ、バカが」
瞼に貼りついたのはその不快な面だった。
投票引き換え用紙を持った高橋はすでにそいつしか思い浮かばなかった。
「明日、覚えてやがれ!! てめえをぶち殺してやるぞ!!」
この時、高橋はそんな恐ろしいことしか考えてなかった。
日本の政治も経済も何も意味を感じていなかった。
◇◆◇
「陶片追放というのを知っておるか、小僧」
「―――オストラシズムのこと?」
「そうじゃ。古代のギリシャ、アテネにおいて、権力を持った市民が僭主になるのを防ぐために、その恐れのある者の名を
世界史の授業でやったっけ。
でも、それがどういうものかってのはよく知らない。
僭主(要するにフィクザー)が産まれないようにっていう工夫だと思うけど、少し考えただけで欠陥がかるような制度だし。
まあ、それは後世の立場からの話だから、実際運営している間はどうだったかはわからないけれど。
「それが何か?」
「陶片追放はな、人の名前を刻んだ陶片を集め、必要なだけ集めれば追放されるという仕組みだ。……それは何かを連想させないか?」
「連想―――ですか?」
特に思い浮かばない。
現在の選挙とはまるっきり違うし。
選挙は立候補した者に対して投票することで順位を決めて国民の代表を決める制度だ。
民主的といえばまさに多数決のこれでしか決めることができないという意味では行き詰った制度ともいえるけど、人類は今のところこれよりも使いやすい制度を発見していない。
「選挙みたいとはおもいますよ。……逆の意味ですけれど」
「さっきの帝都の首長を争うようにか?」
「確かにそうですけど。……あれは一番得票数の多い人が選ばれるというもので……」
投票数を稼ぐという点では表裏一体なのか。
「では、人気投票と変わらないのではないか」
「それはそうですけど」
「お主、人気というものは常に正しい基準だと思うか。人気があればあるほど良いことだと思うか」
「……いいえ。人の目につくということは厭な相手にも見つかるということと一緒です。穏やかに暮らそうとするなら、人気はあまりないほうがいい」
「そうだ。あえて、他人と競争して票を稼ぐなど敵を増やすことと変わらぬ。そして、票を稼ぐということは、自分の名前が書かれ何万という札が祈りと共に放たれるということだ。その祈りは果たしてどのようなものかな。寺の絵馬に善きことだけが願われないのと同じことだ。莫大な数の願いが名前とともに打たれるとき、それは呪を呼び込むのと一緒よ」
快川和尚は目を伏せた。
疲れが滲み出ているようだった。
それで僕にもわかった。
「……投票というのは、有権者の願いを呪いとして受けるのと同じだと……」
「うむ。そして、わしらの中でも天海僧人の名を襲名したものは、他人の演説に自分の言霊を乗せる〈亦説法〉を使う説教師である。彼奴の狙いは今回の帝都での選挙にかこつけて呪詛を撒き散らすことにあるのだ」
「さっきの変な声のことですね?」
「ああ、そのために天海はやってきた。護衛として一休僧人と孔雀を連れてな」
孔雀!?
それはまさか。
「いいか、明日の投票によって都民たちの呪いが帝都中に振り撒かれるぞ。その前になんとしてでも天海僧人を制圧せねばならん。だから、わしは禁を破り仲間を裏切って〈社務所〉に着くことにしたのだ。〈亦説法〉によってどれだけの呪詛がなされたかわしでも見当がつかんが、弱いものならば一票ニ票でも死に至る場合もあり得る。どれだけのものが呪殺されるかわからんのだ。……ゆえに断固として阻止せねばならん」
陶片追放の例えはまさにそのままだということか。
明日の投票によって多くの人がたいした理由もなく死ぬかもしれないのだ。
「わかりました。すぐにたゆうさんに連絡を取りましょう」
もう考えている暇はない。
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