ー第13試合 英雄幻想ー
第87話「ヒーローと少年」
その少年は、通っている小学校の階段から見事に落下して、生まれて初めて入院することになった。
額に全治一ヶ月の大怪我をした上、頭を強かに打った結果、脳震盪も起こしていたこともあり、検査も含めて五日も入院する羽目になる。
家族と離れて四泊もすることは初めてという六歳の少年は、入院した翌日にはもう寂しくて泣いてばかりいた。
面会時間のほとんどを付き添っていてくれた母親が、少しでも所用で傍からいなくなると涙ぐみ、探しに出ようとするほどに、たった数日の入院が怖くてしかたがなかった。
医師も、看護師も、他の患者も、彼にとってはただの他人。
見知らぬ誰かに囲まれているというだけで不安でたまらない。
様々な検査の結果、異常なしと診断されて、明日には退院ですとなっても、彼の不安は晴れることがなかった。
母親が下の家族を幼稚園に迎えに行くために、早めに帰ってしまったあと、彼はうぐうぐと病室で泣いていた。
病室は二人部屋であり、反対側にはもう一人の患者が寝ている。
かなり高齢の老人で、偏屈な性格をしていたのだが、泣いているばかりの彼を気遣ってくれる優しい人でもあったのに、そんなこともわからないぐらいいつも彼は自分の世界に閉じこもっていた。
ほんの数日だというのに、子供の彼にとってはまるで自分が両親に見捨てられてしまったかのような悪夢の時間を過ごしている気分だった。
ただ、その日は普段とは様子が違っていた。
いつもは少年とその家族が喋っているのを寂しそうに見ているだけの老人のもとに、時間ぎりぎりでお見舞客がやってきたのだ。
ソフト帽とメガネをかけたいかにもという格好の若い男だった。
思わず、少年が警戒してしまうぐらいに、「変装している」という格好だ。
ただ、そんな少年のことなど気にも留めず、ソフト帽の若い男は老人のところへ足を伸ばした。
「―――やあ、お祖父ちゃん。元気にしてたかな?」
「元気にしているジジイが入院なんぞしているか、バカめ」
「そりゃあそうだ。あ、これはお土産」
「ジジイの土産にスナック菓子を持ってくるな。塩っ気が多すぎて食えんわ」
「だったら、よその患者さんに分けてあげればいいじゃない?」
「おまえが気を利かせばいいだけのことじゃねえか。もう少し年寄り向けの甘いものを用意するとかよ」
「いや、俺の番組の製品なんでただで分けてもらえたんだよ。こりゃあ、ちょうどいいと思ってさ」
「実の祖父の入院のお土産をケチんじゃねえよ、このバカ孫」
「忙しい撮影の合間を抜けてきたってのに、ご挨拶だな、うちのお祖父ちゃんは」
入院している祖父を見舞いにきた孫との会話らしかった。
お互いに口はあまりよくないが、年が離れているくせに気の合った肉親同士の気のおけない会話という感じだった。
気難しそうな老人の楽しそうな顔というのが珍しくて、少年は最初に抱いた警戒心をいつのまにか解いていた。
仲のいい二人なのだろう。
ただ、一つだけ何かが引っかかっていた。
「なんでえ、これ。おまけつきかよ」
「まあね。子供用だし」
「ホント、おまえ、祖父のために金を使う気が欠片もねえんだな。ほとほと呆れるぜ」
「役者なんて薄給なんだよ。さっきから言っているけど、見舞いにきてやっただけありがたいと思ってよ、お祖父ちゃん」
「偉そうな口を利くんじゃねえよ。……おい、ちょうどいいから、これ、あそこの子にやって来い。おまえなら、ぴったりかもしれん」
「あそこの子?」
ソフト帽の若者は振り返って、少年を見た。
どこかで見たことがある人だな、と思った。
学校でもないし、学校からの行き帰りでもないし、商店街の人でもない。
それなのに物凄く既視感があった。
喉まででかかっているのに。
少年は自分の頭の悪さがもどかしくて仕方がなかった。
「年頃的には、てめえのことわかるんじゃねえか」
「そうだね。―――まあ、事務所にバレなければいいか。じゃあ、ちょっと行ってくる」
「入院してナーバスになっている。優しく相手してやってくれ」
「任せてくれよ。こう見えても子供の相手は得意だ。職業柄ね」
そういうと、若者は少年のところにやってきた。
手には小さなポテトチップスの袋をいくつか抱えている。
それを彼に差し出し、
「もらってくれないか」
と言った。
「祖父が君にプレゼントだそうだ。ちなみに俺からでもある。君がもらってくれるととても嬉しいな」
優しい声だった。
そして、とても聞き覚えのある声。
普段、彼が耳にしたことのあるものとは、おそらくあるフィルター越しであるためかやや違っているが、間近で聞けばすぐにわかる声だった。
「……
「ああ、そうだ。俺はGAこと、
ソフト帽をとって、眼鏡をはずした姿は、彼がよく知るヒーローのものだった。
いつも日曜日の朝に少年がよく見ているテレビ番組『炸裂ファイターGA』の主人公、蘭条友彦がそこにいた。
ぽかんと口が開いた。
憧れていたヒーローがそこにいたからだ。
整った鼻筋、意志の強そうな双眸、口元に湛えた自然な笑み。
世界の悪から平和を守る正義の特撮ヒーローが、少年の前にいた。
「これ、ファイターポテチ。食べたことあるかな?」
「う、うん」
ヒーローに手ずから渡されたそれは、彼も母親におねだりして買ってもらったことがある人気商品だった。
おまけのクリアカードが斬新な新製品だ。
それが目当てでポテチの方を捨ててしまう子供たちが山ほどいるそうだ。
「どうして、ここにいるの?」
「あのお爺さん、俺の知り合いなんだよ。俺とグアディライとの戦いに巻き込まれてね。入院中というわけさ」
グアディライ!
太古の世界を支配していたという怪人族の名前だ。
もしかして、あのお爺さんは怖い顔をしているけれど、実は正義の味方だったのかもしれないのか!
少年は滾った。
こんな近くにヒーローの知り合いがいたなんて。
「君はどうして入院しているんだ?」
「こ、これです!」
自分の額を出す。
傷跡は残らないらしいが針の後はまだ生々しい。
だが、ヒーローはそれを見て、
「痛そうだな。でも、それは男にとっては勲章だ。君も将来はそう思えるさ」
「はい!」
「で、あと不思議だったのだけれど、どうして泣いているんだ? もしかして傷が痛いのかい? だったら、お医者さんを呼ぼうか?」
「……ううん。傷は痛くない。へっちゃら」
「じゃあ、どうして?」
こんなことをヒーローに言うのは恥ずかしかっだか、蘭条友彦に嘘を言うのはもっと嫌だった。
だから、少年は素直に答えた。
「一人でいるのが寂しかったから……」
すると、ヒーローは笑って、少年の頭を撫でる。
そこにはいつもテレビで視る優しくて温かい笑顔があった。
「気持ちはわかるぜ。一人は寂しいもんな」
「……うん」
「だが、君は男なんだろ? 男だったら、一人でいることの大切さを知らなくちゃあいけない」
「一人でいることの大切さ?」
「ああ。男にとっては一人でいるときとは、まさに戦いが始まっているときのことなのさ。戦いが始まっているのに泣いていたら、大事な人を絶対に守れない。涙で眼が見えなくなるからね。だから、男は一人でいるときこそ、泣いていてはいけないんだ」
蘭条友彦がそう言っている。
ヒーローがそう言っている。
だから、少年は泣くのをやめた。
「ほら、君は自分で思っている以上に強い男みたいだ。俺の目に狂いはなかった。じゃあ、約束をしよう。もう寂しいぐらいでは泣かないとね。いいかな?」
「うん!」
また、頭を撫でられて少年は微笑んだ。
それから少しの間だけとりとめのない雑談を交してから、
「じゃあな、ショウマくん」
ヒーローは爽やかな挨拶とともに去っていった。
これは、生涯、少年が忘れることのなかった思い出のシーンだった。
小さな子供が憧れのヒーローと交した約束は、それからずっと守られ続けたのであった。
◇◆◇
「おっと、ここ何処よ! なんてクソリス! ガッデム!」
僕のスナイピングにド
分割されたテレビ画面に涼花のキャラクターの背中が映る。
もともと常にクリアリングをしながら慎重に歩を進める涼花は、遠距離からの狙撃に弱い。
敵の接近・待ち伏せを防ぐことには懸命だが、狙撃されない位置取りを確保するということが苦手なのだ。
だから、僕の移動しつつ狙撃する機動狙撃戦術には弱い。
というか、兄の威厳を保つためにも、妹ごときに
画面上での僕のチームと涼花のチームのキル数の差が二倍に膨れ上がる。
僕が、
確かに、
僕の狙撃場所のすぐそばでゲームに復帰するなんて。
「お兄ちゃん、ズッコイ!」
「これが戦場だよ。運がなければ死ぬ」
「うわ、ムカつく。あとでお姉さまにいいつけてやる!」
「―――御子内さんに言いつけるのは卑怯じゃないかな」
「うっさい、芋スナ!」
芋虫スナイパーという蔑称を妹から向けられるとは思わなかったよ。
まったく突撃バカの妹のくせに生意気な。
というわけで、ちょっと兄としてムカついたので、迂闊に顔をのぞかせた涼花のキャラクターをもう一度ヘッドショットしてあげた。
ワンショット・ワンキル。
「ムッキイイイイ!!」
わりと美少女とは思えない猿みたいリアクションをする我が妹。
高校に入ってから、お姉さまと慕う御子内さんの影響を受けすぎだ。
将来の僕の家にはこんなのは二人もいらないのに。
「うっ」
「もらい!」
突然、動きを止めた僕のキャラクターが画面内でやられた。
油断した訳じゃない。
下腹部に激痛が走り、集中が途切れたのだ。
そして、そのまま僕はコントローラーを取り落とし、床に倒れた。
「ちょっと、お兄ちゃん、どうしたの……」
涼花の声が聞こえたが、耳には残らない。
下腹部の痛みがあまりにもはっきりしていて、思考を削りつつあったのだ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん! ―――お母さん、ちょっと来て、お兄ちゃんが変なの!」
テレビとゲームのある居間に母親が飛び込んでくる気配がしたが、僕には意識を向ける余裕すらなかった。
この気が遠くなるような痛みのせいで……
「……ヤバい、明日から御子内さんたちの合宿があったんだっけ」
薄れゆく僕の意識には、そのどうでもいい情報と救急車のサイレンの音だけが混じり合いながら消えていった……。
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