第402話「紫宸殿の澱み」



 とある人物が、急に亡くなってしまう少し前、その元へ黒い服を着た謎の人物が訪れるということはよく報告されている。

 未確認飛行物体に関わる黒い服の男たちブラックメンのモデルになったとも言われている彼らだが、アメリカのみならず世界中で似たような逸話があり、この日本においても例外なく広まっている。

 もちろん黒衣だけに限らず、様々なバリエーションが報告されているのだが、共通しているのは、脅迫的でやはり他人に死を宣告するような言動を行うという点だった。

 キリスト教圏内においては、髑髏の面を被った〈死神〉として扱われることが多いようだが、世界規模的に見ればもう一つ、鳥の姿をしたものが大半を占める。

 カラスをイメージさせる死を告げる鳥アズライール、もしくは死肉に群がるハゲ鷹であろうか。

 妖怪〈以津真天いつまで〉もその一つであった。


「戦争や飢餓で死んだ人間を放置しておくと、その死体たちが怨みをもって「いつまで、いつまで」と嘆き悲しむ。それが死体を荒らすカラスを初めとする鳥類に見立てられたことで産まれたのが〈以津真天〉って話だよ」

「では、禁裏の紫宸殿にでたというのは?」

「……そっちは細かくは知らないけれど、当時の宮中で誰かが亡くなったんじゃないかな。そのせいで〈以津真天〉が出たんだと思うけど」

「1334年というと、ちょうど建武の新制が後醍醐天皇によって行われていた頃ね」

「ネシーは勉強家だなあ」


 ヴァネッサ・レベッカは日本のアニメーションにも興味があるが、同時に歴史も好きだった。

 アメリカでは、恐竜時代から一気に南北戦争まで飛び越してしまうような極端な教えられることで知られているほど、自国の歴史について避けることが多い。

 新しい国であるためか、良くも悪くも誇れる歴史がないため、古くて伝統的なものに憧れる国民性の一方で、どうしても逆に軽く考えすぎてしまう傾向もある。

 ゆえに他国の文化や歴史観を軽視しすぎてしまうのだ。

 ヴァネッサ・レベッカはそれを良くないことだと考えている。

日本に留学することにした理由の一つは、寺や神社といった古いものに接してみたいという気持ちがあったことにあった。

 多文化の共存共栄を望むなら、押し付けるのではなく受け入れなければならない。

 一方的な配慮だけを望むものは排除されても仕方がないのである。


「後醍醐天皇が武士による幕府による政治を廃し、朝廷による政治を取り戻そうとした建武の新制は、ほんの三年ほどで足利尊氏によって崩壊させられる。それが1333から1336年。ちょうど、紫宸殿に〈以津真天〉が出た頃ですわ」

「―――てことは、そのときの〈以津真天〉は後醍醐天皇の頭上で叫んでいた訳かなあ?」

「でしょうね。ただ、気がかりがあるとすれば、特に1334年の出来事の中では、皇位簒奪を企んだとして後醍醐天皇の息子の護良親王もりよししんのうが足利尊氏の手によって捕らえられているの」

「そりゃあ、父親を追い出そうとしたんならしょうがないかな」

「でも、一説によると、これは力を持っていた親王が邪魔になった尊氏が天皇を脅迫して売らせた陰謀であると言われているわ」

「む、さすがは天下の悪党足利尊氏だ」

「ところがわたしは別の説を唱えさせてもらうとするわね」

「どうしてさ?」

「実際にあの〈以津真天〉を見たことによる心境の変化よ。―――あれはまさに〈死神〉そのものね。死の臭いが濃密に充満したところにやってくる魔ってところかしら」


 ヴァネッサ・レベッカは、常に殺人鬼に狙われ続ける家系の女であり、誰よりも死に近い存在でもある。

 だから、観念的な死というものが具体化したような〈以津真天〉の特性を瞬時に見抜いたのであった。

 これまで目撃してきた、殺すものや死んだものとは違う、生者には決して追い越せないし、出し抜けない存在そのものといっていい〈死〉があの妖怪である、と。


「あれと同じ妖怪が紫宸殿の上にいたというのならば、その下にはきっとおぞましいぐらいの死が溢れていたはずよ」

「……天皇家の方々が御住みになっていた場所だよ。そんなバカなことがあるはずがない」


 刹彌流はもともと天皇家の番人でもある。

 そのため、皐月レベルでも忠誠心は強い。


「不敬を承知で言わせてもらうけれど、当時、その紫宸殿に住んでいた天皇の一族の中におそらく人を殺しても平然としているものがいたのでしょうね」

「……どういうこと?」

「わたしの記憶では、護良親王は足利尊氏を暗殺するために配下の僧兵を集めて辻斬りを働いたりしていたそうよ。だから、尊氏に危険分子と断定されて、排除された。もし、それが事実ではなかったとしても、きっと護良親王はまともな精神状態ではなかったのかもしれないわ。少なくとも、建武の新制の途中で天皇の御子を強引に排斥するなんていくら尊氏でも無理が過ぎるわ。後醍醐天皇が許可したのもきちんとした理由があったと考えるべきよ」

「紫宸殿にいた護良親王が殺人を犯していて、結果として〈以津真天〉を呼び寄せたっていたっていいたいのかな」

「〈以津真天〉の話自体が寓話―――なのかもしれないわ。弓の名手を呼んで妖怪を退治させたというのも、手に負えない殺人鬼を捕まえさせたということの隠喩なのかもね」


 歴史の闇を証明することはできない。

 実際に〈以津真天〉という妖怪が紫宸殿に憑りついていたのかもしれないし、ヴァネッサ・レベッカのいう事実があったのかもしれない。

 そんなの誰にもわからない。

 ただ、いえることは……


「じゃあ、〈以津真天〉が巣をつくるかのように止まっているあの建物には……」

「おそらく、あれが現われるくらいに怨みに満ちた死体が放置されているのでしょう」


 皐月はたまに瞬きをするだけで恐怖に凍りついたように無表情な老人を見た。

 坂巻甚六はすでに亡骸のようだ。

 あの〈以津真天〉を間近に見てしまったショックでこうなったのはわかる。

 死に耐性のない人間では、不用意に接しただけでこうなってもおかしくない。


「……この爺ちゃんは、あの「憩いの村」から10キロメートルも離れた神社で発見されたらしいよ。見つかったときは、靴も履いていなかったと報告されている。そこの神主が保護して警察に連絡して、ついでに〈社務所〉にも伝えたそうだ。「妖魅事件の可能性あり」ってさ」


 10キロメートルもの距離を裸足で逃げるほど、この老人は耐え難い恐怖に襲われたのだろう。

 盲目の本能に従って、反射的に、死に物狂いで。

 狂気と悪夢に満ちた棲家から一歩でも離れるために。


「あなたがもらったファイルには、その後、警察があの「憩いの村」に強制捜査に入ったというけれど、荒井という老人の死体以外は発見されていないそうね」

「そのお爺ちゃんの死因はただの心不全みたいだから事件性なしで処理された。警察もバカじゃないから、きっとおかしいとはわかっていたんじゃないかな」

「でも、何もでなかった。屋上に〈以津真天〉という目印があっても、ただの警察じゃあどうにもならないみたい。だから、あなたたちの出番なのね」

「―――とはいっても、あんなバカみたいなでかい妖怪に人の身としては勝ち目がないんだよねー。マジで弓をぶっぱなすしかないか」

「わたしに考えがあるわ」


 ヴァネッサ・レベッカは言った。


「きっとあの建物にはその荒井という老人以外の死体があるはずなのよ。しかも、〈以津真天〉なんかを招いてしまうぐらいに無残な死体が。それを発見しさえすれば『死骸をいつまで放っておくのか』という妖怪の恨み節も止むでしょう」


 それは彼女の推理だった。

 日本に来て、アメリカにはなかった多くのオカルト的事件に触れたことで開花した才能ともいうべきものではあったが。

 統計学から発達したプロファイリングを超える勘働き。

 スターリング家という異常な血筋が産みだしたと言っても過言ではない、ヴァネッサの特異な才能がついに花を咲かせ始めていたのである……



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