第554話「空手使い・那慈邑ミトル」
ルームメイトとして考えてみると、御子内或子は非常に好ましい性格の持ち主だった。
十三歳という年齢なので人格が完全に固まってしまっているとはいえないが、ほとんどの巫女候補たちは大人びた思考するものばかりだったので、或子のようなタイプは珍しかったのかもしれない。
子供っぽい、というのではない。
浮世離れしているというべきであろうか。
政治家の家に生まれ、社会に対して斜に見る傾向のあるミトルからすれば、或子のように天真爛漫でそれでいて相手の抱える闇に敏感なタイプというのはあまりにも出来すぎな気がしてしまうのではあったが。
ただ、或子に一切の闇がないわけではなかった。
時折、ベッドの中でうなされている彼女の姿を見かけたからだ。
苦悶の表情のまま、何もない空間を必死にかきむしる彼女の姿はあまりにも無残であった。
たまに頭を抱えて蹲りながら寝ているときもあった。
その時の或子は何やら助けを呼んでいる様にも見えた。
手を差し伸べたくなる時もあったが、以前本人から釘を刺されていたこともありできなかった。
「ボクが夜中にうなされていても起こさなくていいから」
或子らしくない自嘲気味な言葉だった。
思わず、
「でも、悪い夢を見ているときは起こしてもらった方がいいっていうけど。うなされている時のあーちゃんて見てられないぐらい苦しそうだよ」
と言うと、これまたらしくない微笑みを浮かべて、
「夢で昔のことを思い出しているだけさ。今が楽しくて幸せな分、昔のボクが文句を言いたくなっているんだろ。自分だけいい思いしやがってってさ」
「……だったら、なおさら起こした方が」
「目を覚ましている時よりも寝ている時に初心に帰った方がいいと思わないかい? ボクには一日一日が大切だから、起きているときに昔のことなんか思い返している暇はないから、これでいいんだよ」
きっと、あーちゃんの記憶が流れ込んできたりしたら、自分は一瞬たりとも保たないだろうなとミトルは感じた。
これだけ強い精神力と陽気な性格の持ち主があんなに苦しむような記憶なのだ。
どれほどの地獄だったのだろう。
ミトルだったら胎児のように蹲って自我を忘れて眠ってしまうかもしれない。
だが、御子内或子は朝になったら目を覚まして今日を謳歌するだろう。
毎日の人間賛歌を何よりも愛する女の子だからだ。
「……それ、いつ頃のこと? それぐらいは聞いていい?」
「別にいいけど。えっと、最初のは、ボクが産まれて物心がついたころから親切な人に保護してもらうまでで……最後のが去年の震災のころかな。まあ、大部分震災なんだけどね」
うすうすは聞いていたが、彼女が一月遅れてやってきたのは東日本大震災がらみだったのだと知った。
本人の口から聞いてようやく確信がとれた。
ただ、多摩地区に住んでいるはずの彼女と東北を中心にした震災がどのようにぶつかったのかだけはわからなかった。
そこまで聞き出せるほどミトルはぶしつけではない。
さらに問題は、「産まれてから」以降である。
いったい或子の身に何があったのか興味は無くもないが、むしろ知りたくないという気分の方が勝った。
地獄を覗き見た方がましな話だと思われるからだ。
……こうして、ルームメイトとしての三年間、ミトルは時折うなされる或子をじっと見守るしかなかったのである。
◇◆◇
結局のところ、三年間の修行によって那慈邑ミトルが手に入れたのは空手の技だけであった。
他の仲間たち(卒業の頃には十一人全員が親友といえる間柄になっていたのは皮肉というべきか奇跡というべきか)と違って、やはりミトルは才能がなかったのだろう。
ただ、空手と言う比較的ポピュラーな格闘技についてだけは基礎があったおかげである程度までの水準に達することができたのである。
段位でいえば四段相当だと指導していた範士役の退魔巫女の先輩のお墨付きではあった。
そこまで強いとは自分でも思ってはいなかったが、単純に〈気〉を用いた戦術も駆使できる退魔巫女にとって通常の格闘技の力では計りきれないということがあるのだ。
実際、とあるツテを辿って成人の脂乗りきった空手家と試合をしてみたときは、ミトルの圧勝に終わった。
妖魅と戦う時の命がけの緊張感もなければ、仲間たちの持つ圧倒的な強さもない、ただの人間の男子など文字通りものの数ではなかったのだ。
弱い弱いと思っていたミトルでさえこれほどの領域にいるのだから、遥かに上の者たちはどれほどの高みに達していたのだろうか。
高校生となり、退魔巫女見習いとして実家のある山梨県に戻ってからはもともと甲州と呼ばれていた地域を中心に、関東に入り込む妖魅を狩る役目に任ぜられた、
もともと甲府というのは、江戸時代からその役目を担っていた関東の防壁であり、東海道を守護するために派遣された豈馬鉄心と双璧の役割を期待されたといえる。
自分のことを落ちこぼれだと思っていたミトルにとって、その抜擢は驚きであった。
確かに出身は甲府であったが、山梨という地域は妖魅の出没しやすい信州を護る要であもあり、同時に中山道・東海道の強力な防護をすり抜けてやってこようとする外敵から注意する地域である。
ゆえにもっと強力な仲間が派遣されるものと思っていたのだ。
なのに、なぜ、彼女なのか。
「―――とりゃああ!!」
媛巫女らしい叫び声と一緒に左と右の正拳突きが唸る。
「烈風ゥゥ正拳撃ちぃぃぃ!!」
三年の間にミトルが覚えたことの一つは、技の名前を叫ぶということであった。
しかも、自分が考えたものばかりである。
たまに他所から拝借することもあったが、那慈邑ミトルは自分の決め技の全てに独自の名前をつける癖もあった。
トドメを刺すときに使う回し蹴りは「必殺烈風ダイナモ蹴り」、貫手で急所の一つ脇を刺すのが「黄金突き」、同回し回転蹴りが「円月回転」、横に移動しつつの四連撃が「流れ一文字崩し」と呼んでいた。
技名を付け始めた時期は、もう同期たちは最初の頃のよそよそしさはなく同じ目的のために競い合う仲間となっていたために色々と忠告されたのだが、ほとんどのものが内心では羨ましく思っていたらしくそのうちになにも言われなくなった。
ゆえに、ただの空手技に独特な名前をつけるというミトルの悪癖は矯正されることなく今に至る。
余談だが、彼女のネーミングセンスの影響を最も強く受けたのは長年のルームメイトであり、未だに根強く染みついていて相棒である少年を辟易とさせているのであった。
「不動組蹴り!!」
相手に一瞬だけ背中を預け、その反動でターンしながら放つ、鋭い膝蹴りのことを彼女は「不動組蹴り」と呼んでいる。
その蹴りに脇を打たれれば、いかに妖怪とて骨の数本は折れざるを得ない。
『いぎゃああああ!!』
〈黒狒々〉が嘶いた。
この時代になっても信州に数多く生息する巨猿の妖怪〈狒々〉。
その中でも毛皮が黒く、頭に一角獣のごとく刀が突きだしているものを〈黒狒々〉という。
今日のミトルの相手はその〈黒狒々〉であった。
〈黒狒々〉が獲物を狙う時の白羽の矢を利用して、プロレスリングに似た結界である〈護摩台〉まで誘き寄せた相手を、退魔巫女らしく素手で迎え撃ったのである。
だが、すでに勝敗はつきつつあった。
仲間内での席次は低いとはいっても、ミトルとて空手使いの巫女レスラーである。
すでに三十体以上の妖魅を倒してきた彼女にとって、〈黒狒々〉は抜き身の刀こそ要注意ではあっても危険すぎる敵ではない。
むしろ、刀による一発逆転だけを狙う〈黒狒々〉の戦い方は稚拙の一言であった。
空手は―――最強ではない。
ただし、何万もの習得者がいるという分母の広さが空手というものの汎用性を増していた。
ミトルは才能のない自分であったとしても、先人たちの技術を教わることで武術としての洗練性をあげていったのだ。
気持ちの持ちようなども含めて。
そのため、尖った強さのないはずの那慈邑ミトルは、安定した精神状態と攻撃・防御力を備えた闘士に成長した。
技名を叫ぶなど、彼女のトータルの評価からすれば些細なことだと切って捨てられる程度に。
「修羅マッハ突きぃぃぃぃ!!」
〈気〉を極限まで高めて、少し虎の形に握った拳を相手の心臓目掛けてぶっぱなす正拳突きではあったが、この速度だけは猫耳藍色のパンチに匹敵すると自負するミトルの最高の技であった。
そして、この修羅マッハ突きを撃ったとき、勝負は決着するのである。
妖魅と言えども鳩尾は急所に当たり、そこに吸い込まれるように刺さった拳の一撃に〈黒狒々〉は撃沈した。
崩れるようにマットに倒れた〈黒狒々〉は〈護摩台〉のどこからともなく聞こえてくる10カウントの終了と共に消えていく。
ただ一振りの刀を残して。
「〈黒狒々〉が遺す刀ってこれなのかしら」
ただの〈狒々〉は何体も倒してきたが、刀を生やした〈黒狒々〉は初めてだった。
〈黒狒々〉は霊刀を奪った猿が妖魅として化けたものであるので、確認された例は少なく、ここ数年の〈社務所〉の活動でもほとんど目撃されたことがない希少な妖怪だった。
弱点も知られていないものであるからこそ、慎重に挑んだのだが、本人が思った以上に強くなっているミトルにとっては敵ではなかったようだ。
「じゃあ、退散しようかなあ」
〈護摩台〉を撤収してもらおうとスマホを手にしたミトルは、画面に実家からの着信があったことに気が付く。
「何かあったのかしらね」
折り合いの悪い実家でも、連絡が来たら返事をすることぐらいはする。
ただ、着信の後にショートメールが一本だけ届いていたことにも気が付いた。
今どきショートメールを使うということは、ガラケーの持ち主だということなのだが……
「
開けてみて驚いた。
差出人は、「那慈邑
それは、ミトルにとって最も会いたくない身内―――祖父であったのだ。
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