第647話「獅子奮迅、孤軍奮闘」
二度目の〈ハイパーボリア〉への突入は特に邪魔は入らなかった。
こんなときでも背後をビイさんたちが護っていてくれているのは気配でわかっていた。
さっきのララさんの命令はまだ生きているようだ。
僕は急いで壁に貼りつくと、鏡を使って反対側を見渡した。
動いているものはいない。
この〈ハイパーボリア〉の上部エリアで暴れ回っていた連中のほとんどがさっきのブロアートの濁流に呑み込まれて流されてしまったのだろう。
いかに半魚人みたいに泳ぐのが得意そうな〈深きもの〉どもといえど、土砂崩れや雪崩の中で自在に泳げるなんて無理なはずだ。
だから、ブロアートの段階で〈ハイパーボリア〉の表層部にいた化け物どものほとんどが海の藻屑になって消えたのは確かだろう。
あのまさに怒涛の泥と海水に押し流されない奴はまずいないだろうからだ。
もちろん、運が良くて耐えきったやつはいるだろうけど、あれのおかげでかなりの数が淘汰されたはずである。
これは僕がさらに下層に降りていくためには最高の展開かもしれない。
例え、〈一指〉のおかげかも知れなくても、それが僕の目的に合致するのであればなんの問題もないといえる。
一番外れにある下層ブロックへの階段に向かう前に、少し離れた場所を腰を低くして走る人たちを見た。
六人たいた。
先頭をトシさんとマサさん。
殿にいすゞさんという布陣だ。
きちんと僕の指示通りに動いて逃げていてくれているようだった。
少しだけ涙がこぼれた。
彼らはもう少し行けば〈サイクラノーシュ〉に辿り着く。
辿り着きさえすれば、ララさんや〈S.H.T.F〉の隊員たちがなんとかしてくれるだろう。
このメタンハイドレート採掘基地〈ハイパーボリア〉の1500人の中のほとんど唯一の生き残りになるかもしれない六人だった。
ただ、あの六人が最後まで生き残ってくれるということがどれだけ慰めになるかは、僕にしかわからないかもしれない。
この〈ハイパーボリア〉にいた1500人の作業員のうち、まともといっていい人たちは100ほどしかいなかったはずだ。
しかもほとんどがBブロックの作業員だと思う。
他は多かれ少なかれ、邪神とその関係者に乗っ取られていたに違いない。
だから、もし罪深くない人々を救う必要があるというのならば、僕たちは100人前後だけしか救えなかったはずである。
もっとも、僕ができたのはあそこを走るたった六人だけ。
それでも嬉しかった。
僕の掌から零れ落ちていった命の滴が、六粒だけでも生き残ってくれたということに。
もし、僕ではなくて御子内さんや音子さんならばもっと多くの人たちを救えただろう。
でも、それと引き換えに彼女たちを失うことはできない。
僕は彼女たちが最も嫌う賭けを行ったのだ。
御子内さんたちが知ったら裏切りとしか思えない選択を。
「……生き残ってくださいね」
僕は彼らが一心不乱に〈サイクラノーシュ〉に逃げ出していく姿を見守りながら、さらに下層にあるXブロックに続く階段へと足を掛けた。
ここから先にはおそらく比べ物にならないレベルの化け物どもが犇めき合っているはずだ。
運がいい程度では絶対に掻い潜れない地獄の試練が。
でも、だから僕が行く。
たった今も、これから先も、ずっと罪のない人たちを救い続けることができる優しくて強い女の子たちを無意味に磨り潰さなくてすむように。
僕なんかでなんとかなれるレベルならまだなんとかなる場所に。
行こう。
御子内さんたちにはもっと先がある。
こんなところで失っていい損失ではないのだから。
◇◆◇
「―――京一!!」
御子内或子は目を覚ました。
鼻をつく衛生的な香りは病室のものだった。
相棒の名前を叫んだ時にやや声がかすれていたのは風邪などではなく毒のせいだろう。
とある石猿の魂を継承した彼女にはこの世のあらゆる毒物がほとんど意味をなさないが、それでもあまりにも旧い劇薬だけは効果を発揮する。
あの時に、ケーキに入っていたのは相当強いものだったのだろう。
おそらく、歴史上でも何度も登場している伝説レベルの毒のはずだ。
でなければ御子内或子をこん睡させられるはずがない。
「或子、目を覚ましたのかい」
「起きたのね、或子ちゃん」
向かって右にいるのは義父、左にいるのは義母。
六歳から彼女を保護して慈しんで育ててくれた両親であった。
「お義父さん、お義母さん……」
この二人がベッドの傍らで心配そうに見つめている。
それがどれほど異例なことか、或子はよくわかっていた。
普段の二人はそんなことは絶対にしない。
いや、或子がさせないのだ。
義理とはいえ愛する両親が心配するような失態は決して犯さないというのが彼女の信念であった。
ただ、今回だけは別だった。
或子は初めて義両親への愛情よりも別のことを優先してしまった。
それは―――
「良かった。やっぱり無事なのね」
「そうだ。だから言っただろう、私たちの娘はタフなのだと」
「さっきまでずっと泣いていたのはあなたですよ。ついさっき泣き止んだばかりだから涙がでないだけなのにまったくずるい人ね」
両親はお互いに配偶者を抱いておいおいと泣きだした。
〈社務所〉での現役時代をしるものがいたら卒倒しかねない光景だった。
それだけかつては恐ろしい存在感を示した二人だったのである。
「今は、いつなんだい?」
或子が聞きたいことは一つで、それはまず自分の現況を知ることが大事だった。
「午後11時21分。おまえが倒れてから7時間ほど経過している」
「どうしてそんなに倒れていたのかな?」
「或子ちゃんが飲んだのは、〈鴆〉の毒だったのよ。いくらあなたでも伝説上の妖怪の猛毒を呷っては無事でいられるはずがないわ。魂に融合している斉天大聖の魂が拒絶しなければ絶命していたという話よ」
「……〈鴆〉は大陸由来の妖怪だからね。だから、美猴王の魂にはほとんど効果がなかったんだろうさ。まったく計算されつくされている」
「或子」
「或子ちゃん……」
自分を心配してくれ義理の両親の優しさが痛いほどわかる。
こんな訳アリで危険極まりない女の子を十年近く育ててくれたということだけで或子にとっては望外の喜びであった。
だから、二人の前では模範的ないい子でいたいとずっと願ってきていたのに、
今日限りでやめなくてはならないかもしれない。
「……ボクはまだ動けるよね」
義両親は顔を見合わせた。
拒絶の顔付きだった。
誰が好き好んで愛する娘に無理をさせようとするだろうか。
だから、二人は黙って首を振った。
横に。
「無理よ」
「しばらく安静にしていなさい」
嘘をつくのが下手な人たちだ。
体裁すら保たれていない。
「ボクにはいかなきゃならないとこがある。お義父さんとお義母さんが邪魔しても絶対にね」
「……或子が行く必要はない」
「そうよ」
義父も義母も止めた。
それが親の仕事だ。
死地に赴く子供を喜んで送り出す親はそれほどいない。
「どこに行く気なのかな」
「海の上だと思う。そこの地下にボクを待つものがいるんだ。巨大で強大で、すべての人を傷つける敵と――――――相棒が」
「いけないわ」
「どうして?」
義父がテレビの電源をつけた。
地上波、衛星波のものではなく〈社務所〉が事態把握のために流している定点カメラの映像であった。
東京湾の入り口にある未来資源採掘都市は、完全に黒い嵐に呑み込まれて誰一人として近づける様子にはなかった。
「お前が行きたがっているのは、あの〈ハイパーボリア〉だろう」
「うん」
「だが、もう人間のどのような手段を使ってもあそこには辿り着けやしない。あの嵐はかつて最強の沖永良部台風の907.3hPaを超える1000以上あるんだ。そして、風雨の影響を受けない海底をいく潜水艦も海の眷属たちに睨まれて近づくことすら敵わない状態だそうだ」
「或子ちゃん、ヒトの身ではあそこまでは絶対にいけないのよ」
「人間の持つ船舶ではあの嵐を自在に行くのは不可能だ。辿り着く可能性はおろか、中に入ることすら自殺行為だろう。―――だから、或子がいかに望んでもあそこにはいけない」
義父は渡されていた資料を読む。
「あの基地には〈社務所・外宮〉の巫女とその部下たちがいるそうだ。神撫音ララのことは私も知っているが優秀で強い媛巫女だ。今となっては彼女に託すしか道はないだろう」
義父があえて省いた事実を御子内或子は理解していた。
悟っていた。
あそこには彼女の相棒がいるのだ。
ずっと一緒にやってきた相棒の或子を捨ててまで、あの少年は地獄の奥底へと向かったのだと。
なんのために?
問わずともわかる。
「ボクを置いていくためか」
許しがたい裏切りだった。
一緒にやっていく約束を反故にして自分の道を突き進むなど。
絶対に許してはならない行為だ。
すぐにでも追いかけねば。
―――だが、その方法はない。
船も飛行機も潜水艦もだめなのはわかる。
嵐が止むのを待っていては手遅れになる。
今すぐにいかなければならない。
しかし、どうやって。
「今は落ち着いて療養しなきゃだめよ」
「そうだぞ。もし或子が動くとしてもそれはずっと先のことなんだからね」
義両親たちはものわかりがいい。
無理して或子が戦いに出ても優しく見守ってくれるだろう。
だからこそ、どんな道行も定まらない旅路には送り出してくれない。
どうやっても彼女は東京湾の嵐に囲まれた〈ハイパーボリア〉には辿り着けないのだから。
「―――だめだ。ボクは今すぐにもあそこに行かなきゃ」
或子は呻いた。
「京一を助けに行かなきゃ……」
最強の巫女は哭いた。
「早くいかないと、あの馬鹿は暴走してすべてを捨ててしまう……」
少女は泣いた。
「ボクらすべてを助けるために自分を賭けてしまう……」
だめだ。
そんな未来は認められない。
絶対に止めないと。
でも、その手段はない。
最悪でもあの海上基地にまで辿り着けなければどんな光明もない。
邪神ですら斃せる拳も何の意味もなくなるのだ。
あそこにまで、いかないと……
そのとき、病室の扉が開いた。
誰かが勢いよく開けたのだ。
そして、その誰かは能天気に言い放つ。
「その役目、てんちゃんにお任せですよー」
―――世界を掻き混ぜる騒々しい希望が放つ声は、一際陽気なのであった。
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