―第51試合 墓場屍禽―
第397話「死の臭い」
無料低額宿泊所、という制度がある。
正確には、社会福祉法という法律によって、政府への届出さえあれば設置できる福祉的居住施設のことである。
生活をすることが困難な人間のために、ただもしくは安い料金で、簡単な住宅を貸して住まわせる事業ということになっていた。
字面からすると、大勢の人間は家賃的なものが無料あるいは只に近いぐらいに安いものと考えるだろうが、実際は違っている。
ほとんどの無料低額宿泊所の入居者は、生活保護を受けている貧困者であり、むしろ生活保護を受けていることこそが入居条件といってもいい運用がなされているのだ。
それは、入居料=家賃の額が生活保護における住宅扶助の最上限額に設定されている施設がほとんどであるということが物語っていた。
生活保護を受けるということは、憲法で保障される最低限度の生活に至っていない生活レベルであるという証拠であって、彼・彼女たちは弱い立場の人間であるということの証明でもある。
戦う力や知恵、あるいは勇気が足りていない場合が多いということでもあった。
そして、世の中にはそこにつけこむ、悪がいる。
弱者を―――貧困者を食い物にしようとする「悪」が。
生活に苦しんでいるものを助けるなどという建前で、住む所をあっせんし、そこを住所として生活保護の申請をさせるのだ。
入ってきた生活保護費を、家賃や食事代などの名目で搾取をし、実際の困窮者の手にはほとんど渡さないということをするのである。
実行するのは弱者を食い物にするのをビジネスとする暴力団員や、半グレ出身のチンピラのような連中が大半だが、中には金しか頭にない亡者もいる。
よってたかって他人を食い物にして、骨までしゃぶる、まさに「悪」人たちであった。
埼玉県にある「憩いの村」は、まさにそういう無料低額宿泊所であった。
運営をしている不動産会社は、関西の広域指定暴力団の傘下にある暴力団のもとのメンバーが社長であり、ただ生活保護者から搾取するためだけに作られた施設である。
「憩いの村」手口は、埼玉県内にいるホームレスや刑務所からでてきたばかりの高齢の元犯罪者を、自作自演の炊き出し作業の場に連れてきて世話をし、親しくなったところで住まわすというものだった。
その際、警戒心のあるホームレス達を騙すために、サクラといってもいい内通者を用意して、「憩いの村」を薦めるということもしていたため、多くの生活保護者たちは騙されて入居していた。
しかし、「憩いの村」の内部は名前とは百八十度違う、監獄のような場所であり、月一度支払われる保護費も、たった千円だけを残してとり上げられてしまうという逃げ場のない空間であった。
一度でも踏み込んでしまうともともとの生活基盤のないホームレスたちはすぐに出ていくこともできず、外にも出られず、暴力団員たちの金づるにされてしまうのだ。
当然、そのような扱いをする以上、手厚い世話などされるはずもない。
法律で定められた最低限度の広さに、消防法違反スレスレの敷居で区切られた、タコ部屋と変わらない場所に押し込められ、食事さえ満足に与えられない環境を強いられるのだ。
しかも、この「憩いの村」が暴力団経営だということは知られていて、査察にやってきた市役所職員も強引には入り込めない。
なぜなら、この施設を管理する中年男は明らかにヤクザとしかいえない人間だったからだ。
無理に内部に踏み込めば間違いなく暴力を働くことだろう。
ただし、ただの市の職員に警察のような捜査権はない。
警察が捜査でもしない限り、内部をみることはできないのだ。
だから、いつまでたっても改善はされない。
市もある程度は把握しつつも、まさにお役所仕事のまま何もしようとはしなかった。
「憩いの村」はほぼ地獄といってもいい場所であった。
「―――おおい、荒井さんよ。タバコ、貰ってきたぞ」
この地獄のような施設であっても、友情の花が咲くこともある。
半年前に一緒に騙されて入居した、坂巻甚六と荒井諭は歳も互いに五十半ばと似通っていたこともあり、当初からよく話す間柄であった。
人懐っこい坂巻と、無口ではあるが物知りな荒井は、親友といってもいい関係になっていた。
ともに一時期タクシー運転手であったという過去が二人を結びつけたのかもしれない。
糖尿になっていた坂巻だったが、心臓を患っていて動きにくい荒井をいつも気遣っていた。
週に一度、病院に連れていく程度は「憩いの村」側でも許してくれたので、いつも連れ立っていくのが二人の習慣だった。
そして、たまに職を探しにハローワークに出掛けて行った坂巻が、他人からタバコをもらってきたときは、それをともに分けるのもいつものことであった。
「……荒井さん? 寝てんのか?」
真っ暗で狭い部屋に入ると、ぷんと異臭がした。
小便の臭いだ。
漏らしてしまったのだろうか。
「電気つけんぞ」
スイッチを押すと、荒井がベッドの下に落ちて横になっていた。
何故か、ズボンをはいていない。
横たわってじっと動かないままの親友の肩を叩いた。
「おい、そんな格好で寝ていると風邪ひくぞ」
ゆすっても起きる気配はない。
それどころか、妙に堅いし、しかも冷たかった。
人の体温ではない。
まるで物だ。
さすがの坂巻も何かを感じ取った。
剥き出しのふとももに触れた。
こちらも冷たかった。
ほとんど死人のようだ。
いや、違う。
この状態には前も遭遇したことがある。
「荒井さん、あんたまさか……」
……死んじまったのか、という言葉は呑み込む。
タバコをポケットに戻し、坂巻は部屋から出ようとした。
管理人に知らせなければならないと考えたのだ。
できたら、救急車を呼ばないとならない。
助かる見込みはもうなさそうだったけれども。
だが、その時、外で何かが動いた。
無料低額宿泊所の部屋は、採光・採風できることが求められる。
この部屋にも空気窓以上になる窓が用意されていた。
分厚いカーテンの向こうに、何かが蠢いていた。
通り過ぎていった車のライトがその何かを照らし出す。
「ひぃぃぃ!!」
それは巨大な鳥のシルエットであった。
大きな羽根を広げ、丸い頭らしいものをもち、尾びれを持った巨大なる鳥。
ただし、鳥と呼ぶには胴体が長すぎ、まるで大蛇のようでさえあった。
ライトが数秒だけ照らし出していた影も、車が方向を変えると消えてしまう。
もっとも、坂巻の勘は、まだそこに、窓の外に巨鳥が羽を広げていると感じていた。
いたずらとは思えない。
「憩いの村」のこの一室は、外に何もない畑の真ん中の二階建てのアパートの二階なのだから。
そのうえ、誰が生活保護でギリギリ生きているような老人を脅かして楽しむだろうか。
そこまでの悪趣味さはヤクザでさえもっていないだろう。
では、あの影は何だ。
どうして、あんなものが見えたのだ。
坂巻の頭の中をぐるぐると回っていた疑問に答えが見つからない。
とはいえ、逃げた方がよさそうだし、荒井のことも誰かに伝えなければならない。
改めて部屋から出ようとしたとき、背中に、
『いいいいいいいつつつつつままままままででででででででええええええええええ』
かつて聞いたことのない不気味な声が聞こえてきた。
「ひいいいい!!」
思わず耳を塞いで坂巻は逃げる。
耳の傍で鳥の羽ばたきのような音が聞こえたのは幻聴であったのだろうか。
あまりに羽ばたきの音が大きすぎたせいだろう。
さらに耳元で囁くような声もした。
『いいいいいいいつつつつつままままままででででででででええええええええええ』
男か、女か、子供か、老人か、人か魔物かもわからぬ怨嗟に満ちた泥が耳孔に詰まるような不快な感覚があった。
「助けてくれええ!!」
だが、坂巻の悲鳴を聞きつけて出てくるものは一人もいなかった。
かろうじて表に逃げ出した彼の目には、「憩いの村」の屋上にじっと停止して彼を見下ろす巨大な鳥の姿が映った。
それは―――ヒトと同じ丸い貌と鮫のような鋭い歯を備えた、見たこともない化け物であった……
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