―第48試合 蜘蛛の理―

第370話「そのサラリーマンはなにをしていたのか」



 その日、僕は珍しく混雑した駅のホームにいた。

 夜遅くまで〈社務所〉関連のバイトがあって、池袋駅前のマンガ喫茶で一晩過ごしてからの朝帰りだった。

 年末の無断外泊でだいぶ叱られたけれど、最近、両親はあまり僕のしていることに口を出さなくなった。

 見捨てられたという訳ではない。

 それなりに心配されているのは実感しているし、妹の涼花経由で両親が色々と探りを入れてきているのもわかっている。

 どうも何か両親にとって劇的なことがあったらしくて、僕の不規則な生活についても見て見ぬ振りする方針になったらしい。

 僕の貯金残高はなんだか凄いことになっていて、この一年で五百万を越えたことから大学の学費は十分に溜まっている。

 なんだか〈社務所〉の不知火こぶしさんが暗躍していて、御子内さんたちが進学するだろう神道系の大学への推薦枠もとれそうになっている。

 とりあえず、これからの進路という意味ではあまり問題はなさそうだ。

 僕にも特に不満はない。

 ここで自分の人生に対して何か不満でもあったら、葛藤みたいなものがあるのかもしれないけれど、平々凡々に生きてきた僕は今の充実感の方が大事だった。

 将来への不安はあるけれど、気の合う相棒も仲のいい友達もいるし、遣り甲斐のある仕事もある。

 漠然とした不安に身をゆだねて、現実にあるものを蔑ろにはできない。

 その環境を許してくれる両親には感謝しかないというところだった。

 ……とはいえ、期末試験も近い時期に高校生が朝帰りというのはよくないことではあったので、さすがに怒られるかな。

 まだ早朝だというのに、結構駅は混んでいる。

 以前ここに来たとき、僕は女の子の格好をして、いやらしい痴漢妖怪相手の囮なんかをしていたのであまりいい印象はない。

 山手線の乗り場で次の電車を待っていると、何か背筋がざわついた。

 最近、たまに感じる勘働きだ。

 一年以上御子内さんたちとつきあって修羅場を体験したことで、鈍い僕でも成長するのか、嫌な予感のようなものを察知できるようになっていた。

 とはいえ、野生のケダモノのような御子内さんと違い、どういう質のものかまではわからないけれど。

 だから、目立たないようにしてキョロキョロとしてみた。

 妖怪―――か、幽霊か―――

 けれども、僕がおかしいと感じたのはゆっくりと歩いている一人のサラリーマンだった。

 眼鏡をかけて髪はきちんと整えた、清潔そうな二十代後半の人である。

 地味なコートを着て、首元には紺のマフラーを巻いて普通なら誰も気にも留めないタイプだろう。

 僕がおかしいと思ったのは、ことだった。

 手ぶらで仕事にいくサラリーマンというのはあまりいない。

 軽くしていても、書類入れぐらいは持っているものだ。

 だからどうして持っていないのか、ということが気になった。

 そして、キョロキョロしていた僕とは真逆に、彼は一点だけを食い入るように見つめていた。

 いや凝視していたというべきか。

 まったく他を見ていないから、何度か他人にぶつかっていた。

 その度にぶつかられた相手は睨みつけるのだが、地味なサラリーマンはどこ吹く風だ。

 視線を外しもしない。

 となると、視線の先が問題となるか……


(あの男性ひとだろうな)


 乗り場の先頭に文庫本を読んでいる彼と同年代のなかなかのイケメンのサラリーマンがいた。

 背も高く涼し気な印象がある。

 文庫は講談社のもので、ごく普通のジャンルだった。

 若手のサラリーマンとしては、憧れたくなるぐらいに決まっている。

 シャツの襟ぐりもアイロンで綺麗に整っていて、左手の薬指に指輪がはめられているし、おそらくは既婚者だろう。

 イケメンをじっと睨むように凝視し続けながら地味なサラリーマンは近づいていく。

 手がポケットから出てきた。

 何かを掴むように手をワキワキさせる。

 ここで僕はさすがにピンときた。

 僕は逆に地味なサラリーマンだけを見続けて、人波をかき分けながらそちらに向かう。


〔間もなく電車が参ります 白線の内側まで下がってお待ちください〕


 駅構内にアナウンスが響き渡る。

 地味なサラリーマンがイケメンのすぐ後ろにつく。

 これでだいたい予想はついた。

 間に合うだろうか。

 ポケットの中から丸い平べったい缶を取り出し、蓋を開ける。

 歩きながらなのであまりうまくはいかないが視線を落としている時間はない。

 サラリーマンの手が伸びる。

 イケメンの背中に向けて。

 ぶるぶると震えているのもわかった。

 一度広げた掌が閉じられる。

 止めるのか。

 いや、また広げた。

 今度は躊躇わないかもしれない。

 僕はサラリーマンの隣に立った。

 用意しておいた缶の中のベタついた粘液を指先につけて、裏拳で殴るようにノールックで指を突き立てた。

 人差し指と中指がサラリーマンの額に触れた。

 サラリーマンの全身がびくんと震え、今までずっと凍りついていたような表情だったのに、一気に熱が戻ったかのごとく汗が噴き出す。

 開き切っていた瞳孔が収縮する。

 何が起きたのか、頭の中で嵐が渦巻いているに違いない。

 彼がやろうとしていたのは……


 


 目が覚めれば、当然自分の仕出かそうとしていたことに苦しむのは当然だ。

 僕はイケメンどころか周囲の人間が誰も勘付かないうちに、サラリーマンの手を引っ張りここから離脱することにした。

 最初は訳が分からず抵抗していたが、自分の置かれた立場に気が付いたのか、すぐに黙ってついてくるようになる。

 僕らはホームからいったん降りて、駅中のコーヒーショップに入った。

 サラリーマンを空いている椅子に座らせると、二人分のコーヒーを買って席に戻った。

 疲労困憊した顔で座っているだけで、こちらを見ようともしない。

 コーヒーを差し出すと、ようやく僕の方を見た。


「君は……」

「まず、これをどうぞ」


 僕はポケットから手鏡を出して渡した。

 手鏡といっても、どこにでも売っているような品ではない。

〈照魔鏡〉と呼ばれる、不可視の妖魅さえも映しこむというアイテムだ。

 昔と違って、強い地縛霊ぐらいなら見えるようになったとはいえ、神通力のない僕のために〈社務所〉が用意してくれたものである。

 使う時は、ペルセウスがメドゥーサを視るときみたいにかざしながら用いる。

 とはいえ、今回は〈照魔鏡〉としてではなく、ノーマルな用途なのではあるが。


「額に塗ったものを拭いてください」


 鏡を覗き込んだサラリーマンは目を丸くする。

 額に桃色の点のようなものがついていたからだ。

 サイズからして一円玉大。

 彼には覚えのないものだろう。


「なんだ、これ……?」


 僕はさっきの缶を開けて中身を見せた。

 同じ色のねっとりとしたものが詰まっている。


「これは桃の実の成分と金属粉、そして動物の脂を練りこんだもので、これを額のチャクラの位置につけると魔が差している思考をすっきりとさせて、我に帰ることができるものです」


 要するに魔除けだった。

 こちらは〈照魔鏡〉と違って、僕が中華街の元華さんから貰ったものだ。

 おそらく大陸の道教の道士様が使う丹の一種だろう。

 妖魅に接触すると頭の中にどろりとした粘液がまとわりつくように、考える能力というものをはく奪されることがある。

 それは妖魅のもつ妖力が人を狂わせるからなのだが、その状態ではまともに働くことはできない。

 だから、それを避けるために僕はたまにこれを額に塗っている。

 いざという時の用心のためだ。

 今回は、明らかにおかしなサラリーマンの様子を見て、もしかしたら魔に憑かれている可能性を考慮して塗り薬を使ってみた。

 そうしたら善く効いたという訳だ。


「魔が差していた……というところですか。駄目ですよ。人を殺そうとしたら」

「……君は医者……じゃないな……もしかして霊能力者とかそういった職業の人なのか……」

「僕は学生ですよ。制服着てますし」

「あ、そうか……高校生みたいだ」

「でも、まあバイトで御祓いみたいな仕事に関わったりしてもいます」


 副業といえば、副業だね。

 それに退魔師みたいなものは、高校生と兼業していると逆に絡みやすくて受け入れやすいかも、と思い真実ではなくても嘘ではないことで安心させることにした。


「そうか……霊能力者から見ても俺はおかしく見えていたのか……。もしかしたら、あのまま柳を殺してしまったかもしれないのか」

「柳さん? さっきの男性ですか」

「ああ、柳萩人やなぎはぎと。中学生の頃から親友だった」


 親友を突き落としかけたというのか。

 この人は。

 いったいどうして。


「……おれの彼女から、夫を殺してほしいと頼まれたんだ……」


 ん……夫を殺してくれという依頼をしたのが、この人の彼女ってことは。


「不倫相手ってことですよね」

「ああ。おれは柳の奥さんから頼まれたんだよ。親友を……柳を殺してくれって……」


 ―――いや、未遂に終わってよかったですね。

 そんな陳腐な感想しか僕からは出てきそうになかった。

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