第105話「ファイターは生き様を変えられない」
アフロのボクサーはフットワークを用いてリングをぐるりと一周する。
滑らかだ。
ちょんちょんと飛んでいるだけのように見えるのに、なんてスピードなんだろう。
しかも、挨拶代わりに繰り出されるジャブは適切な距離をとりつつ、ベタ足の御子内さんを近づけない。
そもそも男のボクサーと女の子の御子内さんではリーチもパワーも違うってのに、あまり不公平さを感じないのは僕が彼女を良く知っているからだ。
観客も最初のうちは違和感を覚えていたみたいだが、今となっては悪役となった御子内さんに罵声を飛ばすのも気にならなくなっているようだ。
〈ぬりかべ〉やら〈手長〉やらといった巨大な妖怪と渡り合ってきた彼女にとっては、たかだか男である程度では怯むことさえない。
他人が思っている以上に、これはハンディキャップマッチではないのだ。
鋭いジャブを躱し、時折混じるストレートを叩き落す。
パワーで押し切られることはない。
さすがに当初は驚いたようだが、アフロもプロらしい。
自分よりも小さい御子内さんを侮らずに倒しにかかっている。
「……御子内さんを警戒している」
振り向くと、残りの九人のボクサーの端に隠れるように改造巫女装束の藍色さんがいた。
きっとアフロは彼女の影を見ている。
だから、だろう。
男のボクサーが本気を出している。
教本通りのアウトボクシングだが、コンビネーションは正確に御子内さんを撃ち貫こうと企んでいた。
もし、これが普通の試合ならば僕も見惚れて歓声をあげていただろう。
いや、逆だ。
歓声はとっておいたか。
御子内さんのために。
アフロが仕掛けた。
三回のジャブのあとに上体をスイッチし、豪快なフックを放ったのだ。
仕留めるための必殺のフック。
まともな相手ならば顔面を削り取られて気絶していてもおかしくない強烈な一撃だった。
すべての観客もガッツポーズをとったかもしれない。
しかし、次の瞬間には冷水をぶっかけられたように沈黙する。
何がおきたか把握するのは難しかったはずだ。
なぜなら、アフロの顔が一瞬ぶれたと感じたときには彼が膝から崩れ落ちていたからだ。
そして、その前には大木をぶち抜いたような右ストレートの姿勢を保った御子内さんがいる。
必殺ではあったが、不用意なフックであったのだ。
御子内さんがクロスカウンターを当てたという認識が浸透するのに時間がかかった。
あまりにも見事なカウンター過ぎたのだ。
アフロは舐めてはいなかった。
だが、知らなかった。
御子内さんが拳技においても図抜けた存在であるということを。
アフロはマットの上できょとんとしていた。
立ち上がろうとしても足がふらついて動かない。
殴り合いでは最強のボクサーがただの一撃で撃沈するなんて信じられないのだろう。
彼だって百戦錬磨のはずだ。
たかが一発の右ストレートで沈んだ経験はほとんど皆無だろう。
しかし、もう立ち上がれない以上、勝負は決した。
「……まだやれる」
「次は俺だぜ」
リング下にいつのまにかやってきていた、細身のモスキート級の選手がアフロの肩を叩いた。
「おまえ……」
「脚にきているじゃねえか。替われよ。俺もやってみてえんだ」
「―――バカが。強いぜ……おそらく」
アフロはまだ御子内さんの強さを実感しきっていない。
だから、もう少しやりたいのだろう。
ただ、立てないのは事実なので二人は入れ替わった。
「待たせたか?」
「まさか。ワクワクしていたけどさ」
「……おまえ、猫耳の同類か。道理で」
「やろうか」
モスキート級の選手らしくさっきのアフロよりもさらに速い。
パンチの重さはないかもしれないが、その分軽量で機動力に優れているのだ。
さっきよりもリングを大きく使い、コーナー付近までも自在に操ってヒット&アウェイを多用してくる。
まさに”
ある意味では蔑称のような階級名だが、この階級の選手たちのあまりに素早い身のこなしを観れば実感できるだろう。
蚊の動きも恐ろしいと。
中央で棒立ちに近い、御子内さんをジャブの嵐に沈めようと襲い掛かってくる凶虫。
どうする、御子内さん。
「シュッ!」
モスキートが飛んだ。
一気に流れるようなスパート。
あの中に吸血の歯が紛れ込んでいる。
御子内さんがそれに合わせてストレートを放つ。
外れた。
顔面にはあたらない。
しかし、彼女の右手はモスキートの歯に絡みついていた。
パンチの内側から絡みつくように御子内さんの細い腕が合わさる。
「ぐっ!!」
何があったのかわからないが、モスキート級は腕を押さえたまま膝をつく。
その眼には驚愕が浮かんでいた。
彼自身は何をされたのかわかっているようだった。
「……折ってはいない。ただ、ちょっと筋を痛めさせてもらっただけだよ」
「俺のストレートに合わせて折ろうとしたのか……? まさか、猫耳以外にそんなことできるのがいるのかよ……」
「自分で言ってたろ、ボクは藍色の同類だって。あいつにできることで、ボクにできないことはそんなにない」
相手のストレートにカウンターを合わせることは、カウンターパンチャーならばよくやることだ。
だが、その合わせた腕を折ろうと極めるなんてことはできない。
今の会話からすると、実は藍色さんもあれができるらしいのが恐ろしいところだけど。
やはり退魔巫女は普通じゃないのだ。
「さあ、次が出て来い。ボクはまだ疲れてさえいないんだぜ」
アフロとモスキート。
二人の並ではないボクサーをただの一撃で葬り去った化け物のような可愛い女の子が挑発する。
すでにブーイングはない。
あまりに凄まじい御子内さんの戦いぶりに魅入ってしまったからだ。
この時点で余程頭の回転の鈍いものでもない限り、御子内さんの強さと彼女の挑発が演技であることに気づいていた。
これほどの力を持つものがあんな安い挑発をする必要はないからだ。
「あたいがやるぜ」
リングに上がったのは、この間、藍色さんにやられた元女子プロレスラーだった。
「グラブはつけないぜ。あたいはまともなボクサーじゃないからな」
「だったら、ボクも自分のスタイルで相手をしようか。言っとくけど、縛りがなくなったボクは強いよ」
「わかるぜ。あんた、藍色の友達なんだろ。だったら、強いに決まってら」
「ふん。あんな頭が堅いのと友達なんて認めたくないけどね」
結局、友達なのは変わらないじゃないか。
グラブをつけず、バンテージを巻いただけの女子プロレスラーは力比べの体勢のままジリジリと前進する。
力比べに応じる御子内さん。
サイズはだいぶ違うが、彼女の握力がまともでないのは知っているので、心配することはない。
ガッチリと組みあった二人は、一気に相手に重圧をかける。
互角だった。
さっきのアフロほどではないにしても階級に差がありそうな組み合わせだというのに、御子内さんは平然と手を握り合っての力比べが続く。
さすがに膠着状態が続くのは体力を消費するだけとみたか、御子内さんは跳びあがり、ドロップキックのように女子プロレスラーを吹き飛ばした。
二人は離れ、再び、双方ともに一気に詰める。
がっちり四つに組みあった。
御子内さんは回転し、袖がらみの勢いをもってアームホイップで投げ捨てる。
プロレスのものと違ってテンションの堅いボクシングのリングだと投げられるとダメージが大きい。
受け身をとらないとすぐに身体を痛めてしまう。
女子プロレスラーは今度こそ、自分のテリトリーに入ってきた敵を倒すために身体を張る気だったが、その目論見はすぐに崩れた。
彼女がプロレスラーであるように、御子内さんは巫女レスラーなのだ。
むしろ、こちらの土俵の方が強い。
数多くの妖怪と死闘を演じてきた御子内さんは、ただの人間のレスラーの相手は相当久しぶりのはずだ。
いつもよりも愉しそうなのが見て取れるぐらいに。
「だっしゃああああ!!」
「でりゃあ!!」
プロレス技の応酬を繰り広げる二人のレスラーを、ボクシングファンまでが固唾をのんで見守っている。
彼らも惹きこまれていた。
なんだかんだ言っても、広い意味での格闘技ファンたちなのだろう。
この戦いの発する魅力に囚われてしまっているのだ。
そして、最後に御子内さんが女子プロレスラーを抱え上げ、顔を太ももに挟み、頭からマットに打ち付けるパイルドライバー(しかも脚を正座するように折り曲げるツームストーン式だ)で決着をつけると、なんと拍手がまばらに起こった。
さっきまで、全体に敵視されていたはずの御子内さんを応援する動きが出たのだ。
空気が変わり始めた。
すべてが御子内或子という稀代のファイターの戦いぶりが招き入れたものだと思うと、胸が熱くなる。
「さあ、次は誰だい!? 十人すべてブチ倒してあげるよ!」
今度の御子内さんの挑発に応えたのは、ボクサーたちの端でずっと沈黙を守っていた女性であった。
「―――私がやります」
スポットライトがたった一人を照らし出す。
演出過剰すぎるね。
「これ以上、このボクシングファンのための〈合戦場〉を荒らすというのにゃらば、如何に或子さんでも許さにゃい」
瞳孔が縦に長い藍色さんの双眸に鬼気が宿る。
本気だ。
まとっている雰囲気さえも変化し、熱い風のような何かが倉庫内に吹いた。
「ジョートーだよ、藍色。さあ、ここまで上がって来い!」
御子内さんの手招きに藍色さんが応じる。
始まるのだ。
今すぐに。
ハイレベルなんてもんじゃない、巫女レスラーと巫女ボクサーのガチのセメント・バトルが。
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