第129話「浅草寺のタヌキどの」
「……その動きづらそうな図体で、わたしとやりあえるおつもりにゃのですか?」
相変わらず、「な」の喋り方が「にゃ」に変わる藍色さんだった。
自分の対戦相手の、動き回るのも不自由そうな体格を心配しているようである。
あと、ほんのちょっとだけ怒っている感じ。
そりゃあ、こんな風船タヌキと本気でやりあえと言われても、戦いに関して誇り高いボクサーである彼女の癇に障らないはずもない。
アップ・ライト・スタイルの構えを崩しもせずに、じっと超・肥満体のタヌキを睨みつける。
『くくく、人間め。ワシの外見だけで判断しているようだな。だがな、それが命通りになるぞ、フギャー。……やれやれ』
浅草寺のタヌキはかったるそうにコーナーポストから身を起こすと、ようやく真面目に対峙した。
単純な感想だけを上げるとしたら、あのタヌキが巫女ボクサーのパンチをどれだけ堪えられるかの勝負にしかなりそうもない。
だが、きっとそうはならない。
少なくとも、浅草寺の化けタヌキは何かを持っているはずだから。
すでにゴングはなっているので、どちらが先に仕掛けてもいいところだ。
しかし、どういう訳か、藍色さんも動かない。
左右に小刻みにフットワークを繰り返すが、前に出ようとはしないのだ。
「―――藍色さんはどうして仕掛けないのでしょう」
「出方を見ているんだろう」
「ボクサーのフットワークを活かして、機動力勝負の方がいい気がしますが」
「あの肥満体はさすがに警戒しなければならないのだろうな。いくら格闘には体重差が優位に働くとはいっても、単純な移動にさえ困難なほどのデブでは意味がない。だから、きっと奥の手があると踏んでいるのだろう」
「なるほど」
グリフィンさんもイギリスでレスリングをしていたというだけあって、解説は淀みないし、的確だ。
その指摘通りに、藍色さんはジャブも撃たずにずっと機を窺っている。
焦れたのはやはりデブの方だった。
『だあああ、面倒じゃあああ!!』
超・肥満体のタヌキはよたよたと前進する。
身体ごと浴びせ倒しでもかけてやろうかという読みやすい動きだった。
当然、藍色さんはフットワークを駆使して、円を描くように滑らかに回転して、タヌキの腋にジャブを放つ。
牽制ではなく、腰ののった重いジャブに見えたが、受けた方のタヌキは平然としている。
ラーテルのような分厚い脂肪だけでなく、黒々とした豊かな体毛もあって、ジャブ程度ではびくともしないのだ。
藍色さんはワンツーで切り替えて、左のフック(どちらかというとリッキー・ハットンのスマッシュっぽい)を叩きこんだがこちらも大して効いてはいないようだった。
その間に、浅草寺のタヌキは向き直ると、投げやりな張り手で藍色さんを吹き飛ばす。
やはり体重差は深刻だ。
例えるのならば、小錦と相対した少年相撲の子供ほどの差がある。
しかも、あの小錦はショックを緩和する毛皮まで備えているのだ。
とはいえ、藍色さんの力の入ったスマッシュを受けて、完全にノーダメージだったとはいえないらしく、反対側の手で被弾箇所を撫でまわしていた。
張り手を受ける瞬間に自分から跳んで威力をやわらげていたらしい藍色さんは、そのままもう一回転円を描いて、今度は逆のわき腹を痛打する。
邪魔なハエでも掃うかのごとき張り手をダッキングで躱し、今度は下方から突き上げるアッパーを打った。
『ぐへええ!!』
通った。
今のアッパーカットは威力を消されることなくタヌキにダメージを与えたようだ。
「入りました! 藍色さんの一撃がタヌキの分厚い肉を貫いた!」
「打つ瞬間に、一瞬タメを作ってを力を籠めましたね。動きながらでもアレができるのがボクサーの技術です」
「つまり、これを繰り返せばいかに肉の鎧があったとしてもいつかは倒せるということですか?」
「理論上は。ただし、それをさせてくれる相手ではないでしょう」
こぶしさんの断言通りに、耐えがたい痛みを感じたタヌキは無造作に動き回ることを止めた。
コーナーポストの一角に慌ててスタコラと逃亡すると、憎々しげな顔をして、
『いてえなあ、この野郎!! 何をしゃがんだ!!』
試合をやっているとは思えない緊張感のない苦情を発した。
当然のこと、藍色さんはサディスティックな眼差しでタヌキの苦情を一刀両断する。
「戦いというのは交互に痛みを受ける事ですよ。自分だけが何もされにゃいと思っていたのかしら。ちゃんちゃらおかしいわ、このデブ。さっさとライザ○プにでも通って痩せてきにゃさい」
藍色さんは肥満に対して厳しい。
ボクサーの持つストイックさとは反対に位置するものだからだろう。
『舐めるなよ、人間! ワシの幻法を喰らうがいい!!』
すると、タヌキは大きく息を吐いて、もう一度吸いなおした。
その隙を捉えようと藍色さんも少し動いたが、危険を感じ取ったのか、おいそれと飛び込んだりはしない。
何かをしようとしているのは事実だが、邪魔をするのも危ないということだ。
闘士としての勘が正しかったのか、空気を吸い始めたタヌキの動きはまったく止まることがなく、マット上に異常な乱気流のようなものが暴れはじめた。
リングの外にまでその影響は及び、僕らの髪の毛やグリフィンさんの帽子が飛んで行ってしまうほどだった。
リングに近い観客のタヌキたちは吹きすさぶ嵐のような風に翻弄され、体勢を崩して地面に落下するものまででる始末である。
それだけの異常な乱気流を正面から堪えた藍色さんの足腰には特筆すべきものがあるといえよう。
だが、彼女からすれば堪えなければならない事情があったともいえる。
なぜなら―――
『うっひぇひぇひぇひぇ』
あのたった一息吸い込んだだけで、どれだけの空気を体内に取り入れたのか、浅草寺のタヌキの姿は二倍以上に膨れ上がっていた。
まるで空気を注入された風船のように。
丸い体格はそのままで体積だけが増加したかのごとく。
まさに、巨大化、していた。
『うっひぇひぇひぇひぇ、これぞ我が江戸前の妖狸族に伝わる幻法〈狸提灯〉よおおお!!』
でかくなったからか、聞こえてくる声にもエコーのような揺らぎがついていた。
僕たちが見上げる角度も拳一つ分以上は上がっている。
そして、何よりも、リングの六分の一ほどがタヌキの身体に圧迫される結果になっていた。
対峙する藍色さんとの体格差はまたも広がり、今度はその差を埋める事さえもできないだろうと思われるまでになっていた。
さきほどの張り手の範囲でさえ拡大しているのだ。
いくら、藍色さんでも……と思った瞬間、
「へえ、さすが藍色ちゃんね。一寸たりともビビっていない」
こぶしさんの賞賛の声が聞こえた。
つられてリングの上の彼女を見て僕はほっと胸を撫で下ろした。
平然とタヌキの巨大化を受け止めている藍色さんの笑みを見て。
レイさんといい、藍色さんといい、やはり退魔巫女は違う。
この程度のピンチ如きで怯懦に駆られる弱い心の持ち主はいないのだ。
そう、彼女たちは決して怯むことのない精鋭たちなのである。
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