第482話「岩で穿つ」



 自分の身体の数倍、重さだけなら十倍は優に越しているだろうひし形の巨岩を明王殿は額に大量の脂汗を流しながら持ち上げていた。

 あいつの両腕には、先祖代々伝わるという神の力が宿っているらしい。

〈追儺の鬼〉ほどの大柄な化け物をビンタ一閃で吹き飛ばすほどの力であるということはわかっていたが、それをフルに使えばこんな十トン近い重さのものであっても持ち上げることができるということなのだ。

 しかし、実際に目の当たりにしなければ理解できない衝撃的な光景だった。

 あんな大きなものを肩に担いで、明王殿は一歩を踏み出す。

 常識的に考えれば恐ろしい。

 妖怪なんかよりももっと形容しがたい、目を背けたくなるような異常のはずだ。

 例えCGであったとしても、一人の女性がこんな真似をしていたらグロテスクにしか思えないだろう。

 それなのに俺は目を離せなかった。

 何よりも美しく、尊く、かけがえのないもののように感じた。

 神々しかった。

 明王殿のやっていることは、異常で人間離れしているかも知れないが、なんのためにこんなことをしているのかわかっている俺からしたら、殉教者のそれに等しいからだ。

 僧侶が仏に祈るように、神父が神の救いを求めるように、今の明王殿の行いはすべて見ず知らずの他人のためのものなのだ。


「おおおおおおおおおお!!」


〈神腕〉という奇跡の力をもってしても、これだけ巨大なものを支えるのは困難なのか、形のいい明王殿の唇から裂帛の気合いが放たれる。

 実のところ、このとんでもない光景に目を奪われていたのは俺だけではない。

 洞窟の中から這い出そうとしていたカエル妖怪どもも同様だった。

 凶暴な癖にもともとは間抜けヅラをしている連中が更にきょとんとした顔をしているのは不細工そのものだ。

 だが、そんな異界の爛れた脳みそをしている連中にも明王殿のしていることの凄さはわかるのだ。

 ただただ身動きもせずに見つめていた。

 その鋭い眼光が見据えているものが自分たちの周囲だというのに。


 ぐらり


 わずかに巨岩が傾いた。

 明王殿が持ち替えたのだ。

 なんのためになんて確かめるまでもない。

 狙った場所に落とすためだ。

 この時になって、ようやく妖怪どもは明王殿の真意を悟った。

 慌てて洞窟から出ようとする。

 無数のカエルどもが洞窟の奥に潜んでいたが、出口が狭いせいもあり、完全に外に出られたのは二匹だけだった。

 俺がバイクごと突っ込もうとしたのはその狭さを考慮に入れてのことだ。

 映画のようにいくはずがないとはわかっていても、俺の考え付いたアイデアはその程度しかなかった。

 だが、そんな俺のくだらないアイデアの上を明王殿は行く。

 誰が岩をどこからか呼び出して洞窟に蓋をしてしまおうなんて思いつくだろうか。

 明王殿たち、退魔巫女と呼ばれる連中の凄味を思い知った。

 逆にいうと、この女たちに信頼される京一の恐ろしさも理解した。

 どんな奴かは知らないが、ここまで規格外で非常識で、そして命がけの連中の信頼を勝ち取るためにはどれだけの修羅場をくぐらなければならないのかも想像できた。

 俺のように、ただ流されて生きていくだけでは、命がけの明王殿を少しでも助けることはできない。

 恋人どころか、友人になることさえ遥か彼方の出来事だ。

 がっくりと肩を落とすと同時に、徐々に高く持ち上げていた巨岩を明王殿が洞窟の入り口に突き刺す光景が見えた。

 予想すらできない大きさの震動が大地を巡る。

 十トンクラスの岩が落ちたのだ。

 洞窟の入り口辺りは立っていられないほどの衝撃があり、二匹だけ外に出ていたカエル妖怪どもがすっころぶ。

 もっとも、こいつらはまだ運のいい方だろう。

 明王殿が落とした巨岩に挟まれて完全にミンチになった連中に比べたら。

 雪崩に巻き込まれた方がマシという、正真正銘の轢死体となったであろう奴らの赤い血が飛び散った。

 断末魔の声は轟音にかき消されたので何も聞こえない。

 だが、完全に封を為されたため、もうどんなにあいつらが泣き叫んで怨嗟の声を上げたとしても誰にも届かないだろう。

 それほどまでに完璧な封印だった。

 俺が考えていた儀式とか呪法なんか歯牙にもかけない力技で明王殿は、土岐氏の盟友どもをもう一度地の底に送り返したのである。

 我に返った残りの二匹が、逆上して襲い掛かっても二発のビンタで何メートルも離れた川にまでくるくると回って吹き飛ばされていた。

 インパクトの瞬間、「ゴギっ!!」と耳障りな音が聞こえてきたので、首の脛骨辺りは完全に叩き折られていたはずだ。

 これなら洞窟の中に何百匹いても明王殿なら勝てなくもなさそうだった。


「いくら、オレでも多勢に無勢ということはあるぜ」


 明王殿の白衣は汗でずぶ濡れになっていた。

 身体のラインがくっきりと浮かぶ上がるぐらいにセクシーで、肩で息をするぐらいにバテているようだ。

 膝をつかないのが不思議なぐらいに疲労困憊といった様子だ。


「あの岩はどこからとってきたんだよ」

「―――〈社務所〉の施設に呪術加工してあった霊的要石を〈呼び寄せアポーツ〉で喚びだしたんだ。こんなくそでっかいものはオレの力だけでは無理だから、不動明王の力も借りたけどな」

「不動明王って……。あんたらは神道の巫女じゃないのか」

「オレらは神仏混淆の極みさ。仏さまの力だって、八百万の神の力だって使えるんならなんでも借りる。さっきの魔法円みたいにな」

「……すげえな」

「そのぐらいでないと、何も護れやしねえし、心底でかい敵さえも斃せやしねえんだ」


 そういうと、明王殿は川下の方を見やった。

 あまりにも真剣なまなざしに思わず追従した。

 そして、見た。

 川の水が逆流してくるのを。

 激流とはいえない夷隅川が、あんな勢いで流れることはないというぐらいに怒涛が近づいてくる。

 水が、岩が、木々が、飛沫をあげて舞い散った。

 何かが、とてつもなく巨大な何かが川を登ってやってくるのだ。

 

「親玉が来やがったか」


 明王殿が呟く。

 ああ、彼女が膝をつかないのは、あの逆流の主がやってきていることを感じ取っていたからか。

 休んでいる暇はないと見抜いていたのだ。

 だから臨戦態勢を解かなかったのだ。


「いすみ市を覆う影の正体が姿を現しやがったということかよ」


 俺たちの少し先で止まったそいつは二本の足で立ちあがりやがった。

 洞窟の蓋に使った巨岩より身長のある、まさに巨人めいた怪獣であった。

 その姿はさっきのカエルの妖怪どもに瓜二つだった。

 ただ、サイズがはるかに違うというだけで。


「―――おまえ、ダゴンっていったか? 海淵の怪獣野郎め。ここはオレたち人間の領土だぞ。ちっぽけな人間が生きる場所に、てめえらみてえに、でけえだけの邪神の居場所はねえんだよ」


 しかし、明王殿レイは高らかに喧嘩を売った。

 美しい闘神のごとく。

 

 強すぎる意志をもって、日ノ本不敗の巫女が神の眷属に挑む。

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