第483話「〈不動明王神腕槌〉」
千葉県でも有数の川幅を誇る夷隅川の水面が膨れ上がり、その頂から水が流れ落ちた。
落水は飛沫を上げ、俺たちまでわずかに届いた。
水が孕んだ女のように産み落としたのは、全長二十メートル以上の魚とカエルと人のハーフであった。
さっきのカエルの妖怪の親玉としか思えないほどにそっくりな姿をしていたが、何十センチもありそうな牙も、鍛え上げられた人間のものによく似た筋肉のつき方も、全身を覆う鱗とべっとりと張り付いたフジツボは明らかにより深海に棲んでいる存在であることを証明していた。
夜の闇でも輝いて見えるのはまとわりついた粘液のせいだろう。
カエル面の怪獣の恐怖に俺はすくみ上った。
鬼や悪魔など比較にならない大いなる魔物だった。
怪獣映画などではおなじみの光景だったが、現実に迫られると人間の精神は免疫を持たないようだ。
首筋のエラらしきものが開口すると夥しい水が零れ、アサリのように石と砂を吐きだしていく。
こいつはまさに宇宙的恐怖の落とし仔であった。
魔物は身をよじり絶叫した。
背骨が折れたような衝撃を受けた。
物理的に痛かったのだ。
これだけの大きさの生き物(といっていいかはさておく)の吐いた
俺は麻痺した。
精神も肉体も。
猛烈な震動をあげて魔物が上陸しようとしても俺は一歩も動けない。
映画「ゴジラ」で実況を続けるアナウンサーのことを想い出した。
あれは職業的使命感でも気が狂っていたのでもなく、単に強迫観念だけに支配されていたのだろう。
逃げることもできない俺の今がその証明だ。
魔物の人のものに似た剛腕が振りかぶられ、無造作に降ろされた。
身長二十メートルはある魔物の一撃はトラックの直撃に等しいだろう。
それが振り下ろされた先には、―――明王殿がいた。
「―――っ!!」
声は出せなかった。
枯れ果てていたのかもしれない。
逃げろといいたかった。
いかにあんたが強くてもこんな魔物には勝てやしない。
逃げるんだ!
俺に予想できたのは惨劇だった。
誰よりも優しい巫女が一撃で破裂してしまう絶望のシーンが瞼に浮かぶ。
だが、分厚い鉄板すらも突き破りそうな異次元のパワーが虚しく止まった。
いや、止められた。
何に?
どんなにあり得ない真実であったとしても、眼前で繰り広げられてしまったのならばそれは事実だ。
もしかして俺は何よりも予想していたのかもしれない。
そうなることを。
GYヰヰ∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀∀!!!
人間の咽喉では再現できない咆哮だった。
魔物にもわかったのだ。
さすがに五メートル近くは後ずさったが、自分の拳を受け止めたものがいるということを。
しかも、それがちっぽけなニンゲンだということを。
「―――わかるはずだぜ、神の眷属なら。さっきのカエルどもとは一味違う、オレがどういう存在かということも。おまえらの天敵だということを」
巨岩を持ち上げたこともそうだが、何倍も大きな魔物の拳を受け止められるというだけですでに明王殿も人外だった。
逆に考えれば、あの強引な洞窟封印をできる女が、たかがでかいだけの相手と力比べできないはずがないということでもある。
明王殿の〈神腕〉は真正面から魔物―――確かダゴンと呼んでいたっけ―――と力比べをしていた。
少し力加減をずらすだけで、明王殿を吹き飛ばせそうなのに、さすがに体格差の誇りがあるからかそのままバカみたいなに力をこめるだけのダゴンに対して、俺の巫女は真っ向勝負を仕掛けていた。
ただ、二つの腕と掌で押さえているだけなのに、明王殿はびくともしない。
むしろダゴンの方がわかる。
明王殿の方が異常なのだ。
ただ、その異常があるからこそ、この不自然で幻惑的な均衡が保たれてしまっているのだ。
しかし、このままではジリ貧だ。
一点に集中できる力が互角であったとしても、相手との体格や体重という単純明快な彼我戦力差を考えたら明王殿に勝ち目はない。
「ナウマク サンマンダ バザラダン カン!!」
また、不動明王の真言を唱えた。
そんなものを唱えたからといって強くなれるはずがない。
馬鹿の一つ覚えじゃないのか。
だが、俺のそんな心配は杞憂に終わる。
あたりまえだった。
俺が信じている女は、ただの変な奴ではない。
明王殿レイなのだから。
「ナウマク サンマンダ バザラダン カン!!」
三度の真言が鳴り響いたとき、カーンとどこからともなく響く音がした。
あのプロレスリングめいた〈護摩台〉のゴングの音に似ているような気がしたが、それよりもずっと生き物の発する声に近かった。
(〈
俺の脳にそんな聞いたこともない言葉がするりと入ってきた。
自慢じゃないが、俺には霊能力なんて欠片もない。
だから、突然、霊能力に目覚めたなんて言われても眉唾物だ。
俺程度の理解力でわかるのはただ一つ。
この言葉は明王殿の本当の力なのだろうということだ。
それが波動みたいなものを通して周囲に伝播していたったのだろう。
逆にいえばそれだけ強い波動だということである。
あのゴングみたいな鐘は、実は明王殿たち退魔巫女に対して霊的な働きかけをするためのものであって、ただの合図なんかではなかったということか。
「マジかよ……?」
思わず呻いてしまったのも仕方ない。
誰だって絶句するだろう。
明王殿の背後に―――後光がさしたかのように爆発的な光が現われるとそのままダゴンの背丈と同じぐらいの紅蓮の炎の渦が竜巻いたのである。
どこに種火かあったのか、そんなことは関係ないとでも言うがごとく、突如として顕現した火焔の竜巻は周囲を照らして赤く染めた。
しかも、その炎を間近で背負っているというのに明王殿は怯みもしない延焼することもない。
対峙しているダゴンがカエル顔を背けるぐらいに熱そうにしているのと真逆だ。
心頭滅却すれば火もまた涼しという有名な辞世の句に相応しい在り様だった。
ただし、まだそれだけなら驚愕の「き」程度で済んだかもしれない。
もう驚き慣れちまったとはいえなかったようだ。
俺はその炎の中にさらにとんでもないものを見た。
「―――あれってまさか……不動明王かよ……」
独り言をつぶやかねばいられない驚天動地の事態はその後に来た。
明王殿が背負う火の螺旋の中心に、まるで実在しているとしかおもえない高密度の赤い仏教の将が来臨したからだった。
大きさはダゴンと同じかそれよりもわずかにでかい。
下半身が炎の中なので上半身だけの姿だが、それだけでダゴンとほとんど変わらないのだ。
その不動明王の炎でできた胸像が眼を見開いた。
一面二臂だが、降魔の利剣と羂索を手にしておらず、今の明王殿と同じように素手のまま腕を組んでいる。
天界の火生三昧に住むという不動明王らしいたたずまいで、ぎろりとダゴンを睨みつける。
さすがの魔物も自分よりも大きなものに見下ろされるのは初めてなのか、腰が引け始めた。
弁髪でまとめ上げられていた髪が怒りによって逆巻く。
「ナウマク サンマンダ バザラダン カン―――〈
明王殿の叫びとともに、火炎のまま出現した不動明王の似姿が両手を腰まで引いて、次の瞬間に前に突きだした。
双掌底突きと呼ばれる古武道の技であった。
現在、この技を主軸と使う流派はほとんどないという。
なぜなら、人の肉体でこれをまともに食らえば命の危険があるからである。
それは例え魔物でも―――怪獣ダゴンでも変わりはない。
ぐふっ!!
血の生贄を求め、永劫の死と破壊だけを求めている邪悪な異世界の水生怪物であっても呼吸するための肺と心臓を持っていたのだろう。
それが炎の明王のただ一撃で破壊され、背中から折れた骨が突きだして、緑色の血らしき粘液を噴きだした。
筋肉質の胸には明らかな掌底の跡がくっきりと残り、それによるダメージだということは一目瞭然である。
巨体がぐいとのけぞり、再び夷隅川の中に沈んでいった。
それほどの深さはないはずなのに、いったいどうやってあの巨体が消えたのか不思議なぐらいにもう浮いては来なかった。
倒れたときの水柱が俺のところまで飛沫いてきたがそれまでだ。
立ち尽くしているのは明王殿だけ。
ダゴンはもう影も形もなく、緑色の粘液だけが戦いの後を物語っている。
「明王殿!!」
俺が駆け寄ると、戦いの勝者はゆっくりと膝をついた。
疲労が凄まじい域に達しているのだろう。
意識があるのが不思議なぐらいだ。
「―――よお」
「しっかりしろよ!! 救急車を呼んだ方がいいか?」
「ちょっと休ませてくれ。さすがに邪神とはいえ、神の眷属相手は無茶だったぜ……」
そんな相手にあんたは勝ったじゃないか。
十分な大金星だろ。
「……さて、オレもようやく〈五娘明王〉の領域か。―――てんの奴に負けちゃいられねえよな」
俺にはわからないことを呟くと、そのまま明王殿は目を伏せて眠りについた。
こちらが心配になるほどの鼾をかきながら……
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