第673話「水淵の妖神〈クトゥルー〉」



「じゃあ、まずオレから行くわ」


 真っ先に踏み出したのは明王殿レイであった。

 仲間たちの視線が集中する。

 言語化こそしないが、全員の考えたことはほぼ同一であった。

 すなわち、この五人の中で最も破壊力の高い武器を持つレイの力で敵に通じなかった場合はどうするのか、ということである。

 敵―――〈クトゥルー〉の力は未知。

 まずは様子見をして限界を計るべきではないのか、という現実的な見解だった。

 だが、レイはそんな小さな計算を鼻で笑い飛ばした。


「いくさにおいては先手必勝、可能な限りの最大火力でぶっ叩くのが常道だ。よく戦いは火力だと言うじゃねえか。だから、初手からオレがぶっ放すのが正解なんだよ。スパロボだって、まずは一番破壊力の強いロボットでボスの体力を削るだろ? それと一緒さ」


 確かに彼女の言うことは正論であった。

 初手に最大火力を集中し、敵の出鼻をくじき、可能ならばそれで早期終焉を図るのはいくさの定石だ。

 ゆえに他の巫女たちもそれは当然と考える。

 ただ、敵はただの妖魅ではない。

 大邪神〈クトゥルー〉だ。

 そんな当たり前の作戦が功を奏するであろうか。

 しかし、レイはすべてを勘定に入れたうえで今の台詞を吐き、先鋒に立候補したのだ。


「オレは報告に上げた通りに一度〈ダゴン〉とやりあっている。それで〈ダゴン〉と〈クトゥルーあいつ〉との力の差が図れるはずだ。オレの術で殺れなかったとしても、できる限り野郎の妖力が削り取れればそれはそれでよしだしな」


 音子がその肩をぽんと叩いた。

 意図が完全に呑み込めたのだ。

 仲間内で最大の戦力である巫女が捨て石になって邪神の力を計ろうというのだ。

 それにとやかくいうのは野暮であり、女の崇高な決意に泥をかけるのと同じことだと悟ったのである。

 一度ひとたび理解したのであれば、止めることなどできはしない。

 彼女たちは〈社務所〉の媛巫女。

 死に際と死に場所は常に弁えている。


「―――何で行くの?」

「〈不動明王神腕槌ふどうのあきらおうしんわんのつち〉から〈九曜紋火焔掌くようもんかえんしょう〉をぶっ放してみる。それで邪神のおおよその強さが把握できるはずだぜ」

「……人知を超えた化け物の力に打ちのめされるだけかもしれにゃいですよ」

「ばーか。てめえら、? 違うだろ。オレたちは神を目前にしてもさして気にしない図太い神経の持ち主だったから〈社務所〉にスカウトされたんだぞ。つーか、罰当たりなのは明王殿家オレんちでも神宮女おとこんちでも同じだし、藍色の家だって皐月のとこだって変わらねえはずだ」


 伝法な口調で親友たちを見渡し、


「八百万の神さまや仏様たちに対するのならともかく、どっかからやってきたような新参のよそ者の邪神なんて連中相手にイモ引くような可愛い女じゃねえだろ。……オレたちがなんのために、〈護摩台〉なんてリングみてえなものの上で妖魅どもと素手でやりあっていたのかを忘れたのか。ありえねえ、バカみたいな修業をやってきたのがどうしてなのかを忘れたのか? 邪神ああいう奴らとだってガチンコで戦うためじゃねえか。どんなピンチでも奇跡の逆転ファイトを決めるためじゃねえか。ルール無用の魔物どもに正義のパンチをぶちかますためだろ?」


 演説でも説得でもない。

 ただ、これまで培ってきた何かを確認するための言葉だった。

 だからこそ、聞いているものの胸を打つ。

 同じ戦いを繰り広げてきた戦友の心に響く。


「だったら、行こうぜ、てめえら。―――弱い奴の戦い方のお手本はもう何回も見せてもらっているだろう。ただの普通の男子高校生にできることがオレら退魔の巫女にできねえはずがねえんだよ。力に劣るヒトが圧倒的絶対的存在に挑むってことを、よ!!」


 最後は淡々としたものだった。

 死ぬかもしれない鉄火場に臨むというのに逆に落ち着いたものだった。

 むしろ、それこそが女の心意気というものなのかもしれない。


「でめえら、よく観てろ。これがオレたち人間と邪神の差だぜ」


 ナウマク サンマンダ バザラダン カン!!


 不動明王の真言。

 同時にレイの背に一面二臂で降魔のための三鈷剣と悪魔を縛ってつるし上げる羂索けんさくを手にした炎の化身としての明王の像が顕現し、〈クトゥルー〉と真っ向から対峙する。

 体長はいすみ市で戦ったときと同じ。

 あの時はまだ〈ダゴン〉であったが、今は〈クトゥルー〉。

 それがどれだけの違いを出すのか。

 青と赤の二色の究極の炎が渦巻いて、神の威光を照らし出す。

 しかし、それに対応するのは〈クトゥルー〉―――深海に封じられし神。

 同じような神の現身といえど、衆生救済のための仏法の守護者と混沌と殺戮と破戒の魔王たる邪神では発する力が違う。

 そして、その力は明瞭に二柱のもつ力の差を物語る。


「〈カーン〉!!」


 レイが宇宙の慈悲深き心を知り、仏の菩提心に目覚めるための覚醒のための真言を叫ぶ。

 まだ完全に使いこなせてはいないとはいえ、日本でも三大怨霊に数えられてきた非業の死を遂げた英雄の御霊を慰めるために焚かれた炎をまとった不動明王の拳が伸びる。

〈クトゥルー〉のタコにも似た顔面に入った。

 だが、大いなる怪物にして深海の怪獣には効いたようには思えない。

 本来、すべての邪悪なるものを焼き尽くす煉獄の炎が耐え凌がれる。

 邪神ども以外ならどんな妖魅でも斃せるだろう拳が効かなかった。

 レイはそのことは覚悟していた。

 この程度で撃退できるというのならば、誰も千年のときをかけたりはしない。

 日本のやんごとなき家系がずっと脈々と受け継いできた大和のみならず世界を守護する大々呪法の被験者である自分たちは、渡されたバトンを生かすことしか道はない。


「〈不動明王神腕槌ふどうのあきらおうしんわんのつち〉!!」


 今度は右の張り手をかました。

 レイの動きとシンクロした〈神腕〉の破壊力さえ追加する大ビンタだった。

 ただし、これも〈クトゥルー〉の顔面で堪えられる。

 不動明王の連撃を喰らってまだ立つのか。

 下から山さえも抉り取れるような鋭いパンチが走った。

〈クトゥルー〉のアッパー気味の拳だった。

 技術も武術もない力任せの破壊業。

 だが、それでレイが顕現させ背負った不動明王が揺らぐ。

 人間のものに酷似した殴り合いの様相を見せて、邪神〈クトゥルー〉が今度は上から被せるような振り下ろすハンマーパンチを撃つ。

 アロワナが小魚を捕食する時のような、アッパーによってできた低い体勢で前のめりになった不動明王を、その体勢のまま視角の外から大きな弧を描くように撃ち抜いてきた。

 レイ単体だけならばともかく、顕現した不動明王では躱しきれなかった。

 海神のものと思えぬ極太な一打に今度こそ、不動明王の身とまとった炎が歪む。

 現身じったいのないはずの守護神にダメージが入ったのだ。

 ありえない話であった。

 しかし、不可思議なことではない。

〈クトゥルー〉は邪神であり、かつて世界を支配していた埒外の怪物なのだ。

 常識など何の枷にもならない。

 この世には存在しないアストラル体の神像を霧散させることも容易い、まさに神の御業であったのだ。


「―――っ!!!」


 巫女たちははしたなく呻いた。

 まさか、レイの顕現させた不動明王を単純な腕力だけで雲散霧消させるとは!!

 誰の目にでもわかる暴力は、わかりやすいからこそ効果的に弱きものの心を折る。

 この神と神との大激闘を目の当たりにすれば、通常ならば簡単に屈服してしまうであろう程の荒ぶる神の破壊であった。

 破壊にして、仏の絶対性を破戒する怪力乱神。

 身に降ろしていた明王の崩壊を受けて、レイが吹き飛ぶ。

 やられた瞬間に精神を切り離したからダメージは最小限度で済んだが、守護神が戦いで消えるという衝撃による精神侵害によって気絶しかけていた。

 ずっとずっと大切にしてきた誇りだけで彼女は意識を保っていたが、後ろ向きに倒れる寸前に支えてくれた親友たちのおかげでなんとか気絶だけは免れた。


「強ええぞ、やっぱり……よ」

「あたりまえだ。でなければ張り合いがない。かつて、あいつに滅ぼされた種も民族も国家も悔しくて死にきれないだろうさ。戦っても戦っても手も足も出ず、歯も経たず、家族を知人を国土を蹂躙されて断末魔を呪いつつ亡くなったものたちがどれだけいると思うんだ。己惚れるなよ」

「うっせえ。どうせ、てめえも単騎でやる気だろうが、爆弾小僧」

「ボクをその男の子みたいなあだ名で呼ぶな」


 すぐには回復しないだろう親友レイを壁に寄りかからせると、御子内或子はその仇討ちをするために練気をする。

〈クトゥルー〉は邪神の中でも大物だけあって無闇に暴れる素振りはみせない。

 いや、戸惑っているのかもしれない。

 自分の存在に。

 もともとのベースになっている〈ダゴン〉もまさか自分が〈クトゥルー〉になるとは想像の外であっただろうから、まだどうすればいいのか指針がないのだろう。

 ならば、こいつが〈ハイパーボリア〉に留まっている間に斃せば人類の敵を減らすこともできる。

 この採掘基地で死んだものたちの弔い合戦もできる。

 御子内或子と仲間たちは進み出た。

 敵は信じがたいほどにデカく強い。

〈神腕〉のレイをたったの二撃で退けたモサだ。

 だが、それがどうした。

 今、やられたのは六人の中の一人だ。

 最後に残った一人がこいつの首を獲れば十分に元が取れる。

 人類の決戦存在六人の命と邪神〈クトゥルー〉の魂。

 悪くない取引だ。

 

クトゥルーの強さは分析できた。ミョイちゃんのおかげ」

「まあ、にゃんとかできるレベルですか」

「どーせ無理って言ったってやるんでしょ? あーあ、武闘派の友達なんて持つんじゃなかった。もっと巨乳ちゃんに囲まれて死にたかった」

「あー、てんちゃん、セクシー皐月先輩よりも胸が出てきた気がしますよー。あとで計測に行きましょうねー」

「なんとー!!」


〈星天大聖〉も〈五娘明王〉もまだあきらめていなかった。

 この邪神に立ち向かう気力は尽きていない。

 或子が前に踏み出そうとしたとき、不思議なことが起こった。

 最後尾にいた殿の熊埜御堂てんが首をかしげたのだ。

 そして、皆に聞こえるような独り言をつぶやいた。


「えー、まあ、できますけどー、てんちゃんだとちょっと難しいですよー。その役目はハイパーレイ先輩でないとできそうにないですねー。それでいいんですかー」


 独り言にしては会話にリズムがあったが、彼女にしか聞こえない誰かと会話をしているようにふざけているとしか思えなかった。

 だが、てんは陽気で悪戯好きであっても冗談でこんなことをする少女ではない。

 仲間たちの方がよく知っていた。

 だから、てんがまだ動けそうもないレイに向かって、


「ハイパーレイ先輩ぃ!! ちょっといい作戦があるんですけどー、一口乗りませんかー!! あがいて姥貝てジタバタした挙句に最後には勝っちゃうっていう狡い作戦なんですけどねー!!」


 と呼びかけた。

 すると、なんとか気絶せずに意識を保つのも精いっぱいのはずの瞳が大きく開く。

 一回だけ息を吸うと、ふらふらとだが強引に立ち上がる。

 根性と別の何かが確信をもって彼女を支えているのだった。

 例え立てなくても立つべきだと心が燃え上がってくのだ。


「……乗った。その作戦に絶対に外れはねえ」

「ですよねー」


 尊敬するレイの復活劇をにこにこと見つめてから、てんは空へ陽気に笑いかけた。

 こんな死地にいては狂気とも取れる行動であるにもかかわらず、そこに陰惨な翳は一筋とて差してはいない。

 てんの笑顔は希望と信頼に満ちていた。


「こういうときこそ先輩にお任せなんですよー!!」


 そして、ここにはいない、だがここにいる、頼もしい先輩に向けて合図を送るのであった。



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