第628話「〈ハイパーボリア〉の静けさ」
「トシ、やばいぜ!」
「今度はなんだ!?」
Bブロックのものたちにとっては会議室でもあり憩いの場でもあるのが食堂であった。
そのブロック内で最も広い室内に慌てて一人の作業員が飛び込んできた。
古株の一人で、力も強く度胸もあることから若手に人気のある男だった。
会議室で頭を突き合わせて対策を練っていた主幹相当の男たちが視線を向ける。
参加していた医師と鉢本いすゞも同様だった。
「下層の連中、俺らを一歩もブロックの外に出さないつもりだ!」
「……待てよ、ベースとの通信をさせねえだけでなくて、こっちを軟禁するつもりなのかよ。くそ、魚ヅラどもめ。構わねえから、やっちまえ。何人かぶっ飛ばせば折れるだろう」
「それがよ……」
飛び込んで来た作業員が背中の方をちらりとみる。
すると、肩を担がれた三人の男たちがフラフラになりながらやってくるところだった。
全員、施設Bブロックの中では血の気の多い、冗談で武闘派と呼ばれているものたちだった。
三人ともあまりにもボロボロの姿で意識も朦朧としているようだった。
「もう、こいつらが手を出してやられちまったんだ」
「おいおい、待てよ。まさか、おまえたち、あいつらが下層の連中にフクロにされていたのに助けもしなかったのよ」
「っざけんな! 仲間がフクロ叩きにされていたら、俺らだって遠慮はしねえ。ハンマーもって突っ込むさ!」
「だったら、どうして!?」
報告に来た作業員は伏し目になって言った。
「こいつら、たった一人にボコられたんだ。一人なんだか顔を出してきたやつがいたから、逆にこいつらが袋にしようとしたんだが、あっという間にこの様だ……。おまえも知ってんだろう、“ほほえみ
「な……」
“ほほえみ
下層Xブロックで最も大柄な作業員で、力仕事のほとんどに担ぎ出されていた。
ただ、気の弱そうな態度と間抜けそのものの顔のせいで〈ハイパーボリア〉の作業員の全員に遠巻きにバカにされていた男だ。
同じ班にいたらイジメの対象になっていたかもしれないが、Xブロックでは“ほほえみ河豚”のようなどんくさいのがたくさんいたので、そういう扱いはされていなかったようだ。
力はあるはずだが、喧嘩が強そうとは誰も思っていなかった。
「あいつら、ちょうど“ほほえみ河豚”が顔を出したから鬱憤晴らしにやっちまおうとしたんだよ。だが、返り討ちさ。あっという間すぎてこっちも手を出さないぐらいにな」
おそらくそれだけではないだろう。
あまりにも“ほほえみ河豚”が恐ろしかったのだろう。
だから、誰も助けに行かずにぶっ倒れた三人組を引きずってくるだけしかできなかったのだ。
人間は暴力に弱い。
特に激しすぎる暴力を目の当たりにすると身体が竦んで動けなくなってしまうのが常であった。
トシも空手の道場で何度か見たことがある。
ただ、人が動けなくなるのはそれだけではなく、暴力の正反対にある武の美しさの体現を見たときも、であるのだが。
「やられちまったのは仕方ねえ。だが、本当に奴らは俺たちを外に出さねえつもりなのか?」
「ああ、間違いない。表に出るための出口も非常扉の前にもあいつらがバリケード作ってやがる。中には器具を持ち出して振り回しているのもいるぐらいだ。出ようとしたら、こいつらみてえにボコられる。いや、凹る程度ですみゃあいいが」
「どういうことだよ?」
「……下手すりゃあ、あいつみてえになるってことだ」
ちらりと一瞥されたのは、食堂の隅のテーブルに白いテーブルクロスがかぶせられているものだった。
表面にどす黒い染みがいくつもついていて、誰もその近くに寄ろうとはしない。
死体―――トイレで銃で殺された作業員の亡骸であった。
〈ハイパーボリア〉Bブロックの嘱託医である関田医師が治療中に痙攣と共に死んでしまったばかりの生の死骸である。
検視した段階でわかったのは、五発の銃弾を撃ち込まれていたこと。
うち二発は体内に残り、壁に残っていた三発は肉体を貫通したものであること。
そして、このメタンハイドレード採掘基地である〈ハイパーボリア〉に銃で人を殺した殺人者がうろついているということ、であった。
トシたちはその事実を確認すると、直ちに本土と連絡を取ることにした。
でなければ、どんな混乱が巻き起こるかわからないからだ。
なんといってもここにいる限り、誰もすぐには外部からはやってこないし、でていくこともできない。
ここは孤島であったからだ。
そう、この〈ハイパーボリア〉は、神奈川県三浦市の剣埼灯台から千葉県館山市の洲埼灯台までを線で引いた中央部―――東京湾の出入り口に建設された超ド級の採掘施設なのである。
浦賀水道を含んだ外湾部にぽつんと建設されていることから、知らない人間には無人島と勘違いされることもあるのは、その全長があまりにも桁外れだからであろう。
全長2km、幅1.25km。
海面からの高さは最高90m、海中部は地上のビルでいうと六階に相当する深さにまで達している、まさに人工の島であった。
外部との連絡は定期船とヘリコプター任せであり、衛星を使った通信でしか繋がっていないというほどに閉鎖された環境であった。
晴れた日には本土が視えることもあるという近場にありながら、ある意味ではどこよりも日本から遠い、絶海の孤島。
それが東京湾どころか、世界で最大の超ド級の施設〈ハイパーボリア〉なのである。
殺人を現認してしまった以上、すぐに本土の基地に報告しなければならないのは規約だ。
いかに隔絶していたとしてもここは日本の領土であり、行政管区としては東京都の管轄であり、無法地帯ではない。
警察の捜査を待つのがまともな思考というものだ。
だが、居住区兼仕事場であるBブロックには、外部と連絡を取るシステムがない。
携帯電話もスマホも圏外なのである。
高周波を発する電波のパワーアップ装置は禁止されており、外部と連絡を取り合うのはAブロックにある通信室と中央管制室のどちらかに行って衛星通信を行うしかない。
もしくは定期船に仔細をつげて伝えてもらうか、だ。
しかし、それはできなかった。
Bブロックから通信室に向かおうとしたトシと関田医師らはなんと同じ〈ハイパーボリア〉の作業員たちによって止められてしまったのである。
「人殺しがあったんだぞ、そこをどきやがれ!!」
必死の言葉にも耳を貸そうとはせず、トシと仲間たちはBブロックに強制的に閉じ込められることになった。
100人いる作業員たちであっても、〈ハイパーボリア〉にいる他の1400人すべてが敵に回れば多勢に無勢、何もできるはずがない。
この段階で、すでに彼らは孤立無援の状態に陥っていたのである。
何もわからぬまま、何も理解できぬまま……
そして、この数時間後に待ち受ける、殺戮と恐怖の時間を知らぬまま、ただ時間がすぎるのを待っていたのである。
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