―第67試合 妖魅都市〈新宿〉 5―

第526話「〈金剛牙〉」



「今泉先生!!」


 妻と子供たちの待つ家に帰ることもできずに、選挙対策本部に近いホテルでビールをちびちびと飲んでいた今泉康友は、部屋にとびこんできた騒々しい秘書に思わず感謝してしまった。

 このまま、朝になるまでじっと酒を飲んでいるしかないような空虚な気分に駆られていたからである。

 これだけ世間から注目を浴びた舞台に関わり合ったのが初めてといっていい、いまだに経験不足の彼からすると明日の結果がどうなるにせよ、絶対に利益となるのがわかっている。

 とはいえ、まんじりともできそうにないのはどうしょうもなかった。


「どうした」


 いつもの自分らしく鷹揚とした態度で接することにした。

 少しでも他人に弱みを見せるのは政治家を志してからほとんどタブーとしていた。

 例え、初当選の時から十年来のコンビを組む秘書が相手でもだ。


「す……官房長官からお電話です」

「なんだって!? ……都選のことか?」


 国会議員ではあってもいまだ三回しか当選していない程度では、官房長官から直接に電話が来ることなどない。

 少なくとも現在の今泉では、注目の的である都議選にやや関わり合っているぐらいの注目度しかないはずだ。

 かといって、政権の中枢を担う官房長官から名指しで電話をかけられる理由は他になかった。

 

「お、おそらく」


 こんな夜も遅い時間にくる連絡とはいったいどんなものであろうか。

 受け取った電話を耳に当てると、いつも国会中継で聞く声が飛び込んできた。

 思わず背筋が伸びる。


〔……今泉くんかね〕

「は、はい、官房長官!!」

〔こんな夜遅くに非常識で済まない。君にいますぐにでも動いてもらわなければならない状態になってしまってね。どうかね?〕

「よ、喜んで働きます!! ……で、何をすればいいんでしょうか!!」


 政治家として、裏の首相ともいえる官房長官直々の頼みを断ることはできない。

 特に今の官房長官は、現役としてベスト5に近い歴任日数を持つ猛者だ。

 覚えを良くしておいて悪いことは一つもなかった。


〔なに、簡単なことだ〕

「簡単なのですか?」

〔ああ。……朝になったら真っ先に選挙対策委員会の事務所に入って、とある報告をまってくれればいい〕

「報告……ですか……?」


 どういうことだ。

 今泉にはさっぱり意味が分からない。


「それはどういう内容の……」

〔はっきりということはできないが―――そうだな。その報告の中には、巫女がどうとかいう単語が含まれているかも知れん。……ということだ〕

「み、巫女?」


 巫女といえば、神社のアシスタントの少女のことだ。

 ただ、それがどんな形で関わってくるのか。

 暗号か何かだろうか。

 今泉は混乱しかけていた。


〔そうだ、巫女だ。……その場合、君には持てる力の全てを振り絞って指示に従ってほしい。そうすれば、君の将来は約束されるといって過言ではないところだ〕

「私の……将来」

〔ああ。この件については、私と総理だけでなく、もっと次元の違うお方の御心が関与しているといえることだけは確かだ。……君は千代田区も活動拠点であったな。だからこそ、君の働きが必要なのだ〕

「は、はい!!」


 はっきりとは断言されていないが、これだけヒントを出されて理解できないのでは政治家失格である。

 即答だった。


「わかりました。巫女という単語が絡むすべての指示に対しては、堅忍不抜の精神で邁進していきます!!」


 と若乃花のようなことを言ってしまう。


〔では、お願いしますよ〕

「はい!!」


 見えない電話の相手に最敬礼すると、通話が切れてしまう。

 ただ、それでも今泉の興奮は収まらなかった。

 今の官房長官の発言からすると、この依頼をうまくこなすことができれば魑魅魍魎の跋扈する日本の政界における出世の道が開かれるかもしれないからだ。

 うまくやれば、数年後には政府の役職に就くことができるかもしれなかった。

 秘書を退出させたことが悔やまれる。

 一緒にこれからのことを話し合うにはいい相棒だったからだ。

 

 ……ただ、自分が何をどうするべきかはともかく、官房長官が伝えた指示の意味が不明であったことは引っかかっていた。


「巫女っていったいなんなのだろうか?」


 その答えのために、尋常ならざる魔戦が新宿区のあちこちで繰り広げられているという闇の出来事について今泉は当然知り得ることはできなかった。

 ただ、これは表の政治にも関わる大きな事態が眼に見えぬところで進行しているということの証拠の一つであったのである。



          ◇◆◇



 猫耳藍色と一休僧人の戦いは、一方的なものであった。

 一方がただひたすら攻めたてて、片方がずっと受け続けているという点において。

 もっとも、戦っている当事者の二人からすれば事情は180度回転する。

 何十発のパンチを放ち、思いつく限りのフェイントを仕掛け、神速のフットワークを駆使しても、ただの一発とて掠りもしないのだ。

 藍色の戦歴においてもここまでの異常事態はかつてあり得なかった。

 ワンツーはおろか、ヒットマンスタイルに切り替えてからの五月雨うちのパンチでさえ、一休僧人のしゃれこうべに完全に防がれるのである。

 これでは、ただ藍色だけが消耗する。

 攻撃が徒労になるということの疲労感は並大抵のものではないからだ。


「これが〈風狂〉……。物事に囚われにゃい様か」

「そうだ。どのような攻撃でも一休には触れることも叶わない。それが雲と歩む初代一休の名を襲った我の力よ」


 つまり、考え方が逆なのだ。

 藍色の攻撃が防がれているのではなく、当たるはずがない攻撃を藍色が続けているだけ、ということになる。

 これが〈八倵衆〉一休僧人の秘術〈風狂〉であった。

 術者の躰を決して触れられない聖域と化して、侵略するものをことごとく受け流す。

 藍色がしていることはまさに徒労。

 まったくもって無意味なことだ。


(……まだ、予知とか先読みの類いにゃらばよかったんですけど、もともと触れることが因果的に叶わにゃいというのは最悪ですね)


 だが、藍色は無策のまま戦っていた訳ではない。

 彼女にも考えはあった。


(奥多摩で或子さんが捕らえたという一遍僧人の〈捨聖〉と似通っていますね。……こういう受けに徹した防禦の術が〈八倵衆〉の特徴ですか)


 ならば手数で砕くだけ、というのが藍色の本来の戦法なのだが、今回に限ってはそうもいかないようだ。

 術の力で触れないというのならば、まさに術を破るしか道はないのである。

 だから、藍色は覚悟を決めた。


「金剛夜叉明王の力。……使うしかにゃいですね」

「ほお、くるか、〈五娘明王〉!!」

「どのみち、いつかは抜かねばにゃらぬ剣ですからね」


 藍色はいったん飛び退ると、ピーカーブーを止めて、自然体の立ち姿を作る。

 明王の力持つものによる皮肉な仁王立ちであった。


「北方を守護する、金剛夜叉明王。―――またの名をvajrayakṣaヴァジュラヤクシャ。雷をもって悪を撃ち滅ぼす大いにゃる〈金剛牙〉の出番にゃ」


 猫耳藍色はまだ牙を捥がれていなかったのである……






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る