第527話「一休僧人VS猫耳藍色」
雨あられと規則性と不規則性をどちらも柱にして攻めたてた藍色の拳撃を完全に受けきったというだけで、すでに勘や経験の範疇には収まらない。
つまり、もうパンチを命中させることは不可能だといってもいいだろう。
要するに完全防禦の術だと断定すべきだ。
ならば、藍色にはもう為すすべはない。
―――通常ならば。
だが、五大明王の菩提心に目覚めている藍色にとっては触れずに撃ち斃すこととて可能であった。
問題は一つ。
(これから放つわたしの必殺ブローは、まだ試し打ちもまともにおわっていにゃいのです。そこをあいつに狙われたら一たまりもにゃい。さて、どう使いますか……)
フットワークを使い、距離を置きつつ、上下左右に動いて一休僧人の様子を窺う。
しかし、その程度では眼も耳もきかない廃棄僧侶はまったく揺さぶられない。
フェイントというものは、五感と思考に対しての錯角であり、特にこの敵に対してはまったく効果がないようだった。
だから、藍色がしているのはただの時間稼ぎだった。
「……おかしなことを考えているな。もしや、一休はうぬには一切手を出さんと思うておるのか。だとしたら、短慮だな」
しゃれこうべ付きの錫杖を振り上げて、一休は叫んだ。
「〈
すると何もないはずのしゃれこうべの眼窩の奥が妖しく光り、中から黒い煙が立ち込める。
その煙は、人のごとく四肢を備え、巨大になり、地面を這う女の姿に形を整えていく。
瞬く間に長い髪をだらしなく下げて顔は見えない、原油の様に真っ黒な女となった。
しゃれこうべの中にどれだけの煙がはいっていたとしてもありえない量である。
破戒僧とはいえ、もともと仏法に帰依していたものの所業としては悍ましすぎる術であるといえよう。
もっとも一休はともかく、奇怪な光景を目の当たりにしても皺ひとつ動かさない藍色という巫女もまたまともではない。
「〈森女〉―――またの名を
「そう。これもまたこの一休を愛し、語らい、その敵を滅ぼす。花は桜木、人は武士、柱は桧、女は〈森女〉という訳だ」
「女を用心棒としか考えにゃい発想は男らしくありません」
〈森女〉はぐるぐると身体を螺旋に揺らしながら、無気味な這うような動きで近づいてきた。
これはもともと死霊であることに間違いはない。
この世を呪って死んだ悪霊だった。
それを操るという悍ましい唾棄すべき術だと藍色は思う。
しかし、仏凶徒とはそういう壊れた坊主どもの名称だ。
彼らにとってはどうということもないことなのだろう。
(同じ女を盾にして戦わせるやり方でも、あの京一さんとは天と地ほども違うというわけですか)
ふと、きっと近くで何かをしているだろう友人の少年のことを思い出した。
もしかしたら、藍色にとってもっとも親しい異性に当たるかもしれないあの少年は、ほとんど戦闘能力もない癖に今も彼女の親友と事件解決のために奔走しているに違いない。
出会って一年程だが、ああまで善良で、しかも頼りになる男の子はそうはいないと信じている。
少しだけ胸が熱くなった。
また彼にあったときにちょっとだけでも自慢できるように、この危機を乗り越えるとしよう。
(或子さんだけにいい思いをさせるのはさすがに業腹です)
徐々に近づいてくる〈森女〉という死霊はおそらく通常の物理法則では倒せない。
ただのパンチでは駄目。
清浄な思念を〈気〉として昇華したものを、拳や足にこめたもので打撃することでしかダメージを与えられない。
〈護摩台〉がない状態というのはそういうことだ。
だが、正直な話、藍色にはもう〈護摩台〉は必要がなかった。
彼女にはもうそれだけの神通力がある。
(雷をもって悪を撃ち滅ぼす大いにゃる〈金剛牙〉の使いどころということですね)
藍色は体内に存在する微量な静電気の存在を感じ取る。
それは人の細胞が他の細胞と接触することで生じる0.00000000000……の電気だ。
無いにも等しいものを在ると意識するのだ。
そのまま全身の〈気〉を循環させ、〈気〉に電気を溜めていく。
言葉で説明するのは容易いが、実際にできるかと言うと絶対に不可能な行為だ。
機械でもない人の身ではありえない。
しかし、猫耳藍色が菩提心に覚醒した金剛夜叉明王は、古代インドにおいて雷を放つ神であり、大日如来によって善を知った、雷撃の化身である。
旧き人々は、雷のことをどのような障害をも貫く聖なる力であると信仰していたのは、その恐ろしい力のためでもある。
つまり金剛夜叉明王にとっては、体内の微量な電気も雷の一種として操作可能なものにすぎない。
その力を持つ藍色にもできないことはなかった。
全身を駆け巡った電気を纏った〈気〉はそのうちに一か所に溜まっていく。
藍色の拳と爪先。
ヒトの四肢の先端だ。
……雷そのものを放出しやすいように、……雷撃という威徳を武器とするために。
〈金剛牙〉。
右に電圧、左にプラズマ。
二つの力が藍色の拳に宿る。
これはヒトの技ではない。
妖魅の秘儀でもない。
神の―――武装なのだ。
「うおおおおおおおお!!!」
藍色は吠えた。
魔猫は雷獣と化した。
利き腕ではないためフィニッシュブローとしては使うこともない右ストレートが放たれたとき、藍色の右腕が消えた。
いや、存在はしていた。
だが誰の目にも留まらない高速のパンチは一瞬で〈森女〉の顔面を破壊した。
首から上を失くした死霊がしばらく動いてしまうほどに一瞬で。
「なっ!?」
一休にも何が起こったかわからなかった。
震動を感じ取ることで五感の代用としている彼にとって、震動も何も感じさせずに打たれたパンチなど理解の外にあったからだ。
ただ、自分の操っていた死霊がその偽りの命を絶たれて断罪されたことだけはわかった。
「何をした……」
震動が五感のすべてであるということは、それが意味をなさない状況において一休はただの目も見えず耳も聞こえない聾唖者にすぎない。
ゆえに震えあがりそうになった。
すべての攻撃を受け流す〈風狂〉とはまさにそこにタネがあるのだから。
(まさか、この娘もあの〈五娘明王〉と同じ……)
昨晩、一休と天海が潜んでいた家にやってきた〈社務所〉の巫女との遭遇は、彼にとって忘れられないものであった。
あの時、一休は産まれてから〈風狂〉に目覚めるまでの数年間に感じた心細さ、孤立感、虚無感、純粋な恐怖を思い出す羽目になった。
自分を包む環境からすべての震動が消え去ったのだ。
いったい、何が起きたのかわからなかった。
彼を護る〈風狂〉が根こそぎはぎ取られたような気さえした。
元に戻ったのは、ほんの数秒後のことであったが、その元凶であるのが〈社務所〉の巫女であることだけはわかっていた。
〈森女〉と同じ方法で使役していた家に憑りついていた地縛霊の一体とやりあっていた巫女を制圧できなければまた同じことをされていたかもしれない。
どのような仕組みなのかわからないが、捕らえた巫女の仕業なのは明白であった。
〈社務所〉の〈五娘明王〉という連中を侮っていたことを自覚せずにはいられなかったのである。
だからこそ、天海の制止を振り切って迎撃に出た。
あのまま、教会の地下に潜んでいればもしかしたら見逃されたかもしれないのに。
「……だが、この一休。仏法隆盛のために逃げる訳にはいかぬのだ!!」
〈森女〉などという小手先はやめだ。
彼には〈風狂〉と並ぶ奥の手がある。
「
彼の襲名した一休の由来となった〈
「〈風狂〉を破れるものなら破ってみるがよい!! この一休にはまだ奥の手が……!!」
しかし、次の瞬間、猫耳藍色が放った雷撃の左ストレートがコークスクリュー気味に彼の左胸―――心臓の真上に命中し、一瞬だけ臓器の役割を停止させ、そして意識まで吹き飛ばした。
プラズマのごとき左の拳が、まさに光速となって勝利を貫いたのである。
「―――金剛夜叉明王〈金剛牙〉ですにゃ」
……この日、上智大学脇の戦いは猫耳藍色の完全勝利に終わった。
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