第176話「酔いの彼方へ」



〈闘杯〉の誓いをすると、僕らの周囲にぬるい衝撃が走り、不可視の結界が張られる。

 これが〈闘杯〉というただの酒の飲み比べを決闘のバトルフィールドに変える仕組みなのだろう。

 結界のせいで逃げることはできそうもないことだけわかった。

 聞いていた通りだ。

 もともと逃げるつもりはなかったので、僕は指定した銘柄の酒の瓶をとった。

 スクリュードライバーはウォッカベースのカクテルだけど、ほとんどオレンジジュースと変わらないので飲みやすい。

 やはり濃度の高いアルコールが入っているため、奥歯のあたりで苦味を感じてしまう。

 ただし、口に含んだ段階ではオレンジの柑橘系の酸味がごまかしてくれためか、かなり飲みやすい。

 僕なんかでも結構いけそうな味だ。


『なんでえ、これじゃあ餓鬼の飲み物じゃねえか。酒とはいえねえな』

「でも美味しいですよ」

『ばっか、酒ってえのはもっとガッと頭にくるもんでなきゃならねえんだよ。さっきの覆面の巫女が持ってきた、て、てけぇーらなんかそうだろ。こんな、飴みてえなもんで酔えるかってんだ』

「でも、ウォッカが入っていて強い方なんですけど」

『お、おっか? よく知らねえがどこの酒だ?』

「えっとロシアかな」

『ああ、紅毛人の国か』


〈のた坊主〉はウォッカを知らないのか。

 やっぱり舶来品というか、外国で造られたものについてはあまり詳しくないみたいだ。

 つまり、

 予想通りだ。

 だったら……


「食べないんですか?」


 僕は大皿を〈のた坊主〉の方に押しやった。

 だが、妖怪は嫌そうに手を振るだけだった。


『ワシは酒が飲めればいいんだ。おい、わかっているのかよ、これは〈闘杯〉なんだぞ。まったく、てめえは呑気な餓鬼だぜ』

「まあ、そうは言わず。これとか、どうですか?」


 大皿の向きを引っ繰り返して、フルーツの盛り合わせを薦めた。

 瑞々しい果肉が美味しそうなフルーツである。

 うっとおしそうにその果実に視線を落とした〈のた坊主〉がいきなり硬直した。

 今にも食いつきそうな目つきのまま、くんくんと鼻を鳴らしていた。

 口元から、夥しいほどの涎を垂れ流している。

 明らかに食欲が暴走していそうだ。

 妖怪としての〈のた坊主〉の好物である酒を前にしたときと比べても、その変化は異様なほどである。


『な、なんじゃ、その美味そうな―――臭いは』

「この店にあった商品なんですけどね。海外から輸入されたものなんで、きっとあなたには馴染みがないと思いますよ」

『これは……おおお……』


 鼻につく臭いが漂っている。

 僕はあまり得意ではないけどお好きな人にはたまらない刺激なのだろう。


「どうぞ、食べてください」

『おおおお』


 箸なんて使わず手づかみで食べだした〈のた坊主〉を放っておいて、僕はカルーアミルクを飲んでみた。

 こっちは甘い。

 コーヒー・リキュールのカルーアを、ミルクで割ったカクテルなんだけど、口当たりもよくて柔らかかった。

 女の子とか好きそう。

 つまり、〈のた坊主〉の口には合わないだろうということ。


「はい、カルーアミルク」

『おおお』


 むしゃむしゃとフルーツを食べながら、カルーアミルクの瓶を空ける妖怪。

 僕どころか、酒の銘柄の変化にも気が付かないぐらいに夢中だ。

 あの人間からするときつい臭いがいいんだろうけど。


「もう少し食べます?」

『お、おお。頼まア』


 奥に戻り、同じフルーツを雑に切って持ってきた。


『―――おい』

「なんです?」

『一応、確認しておくがあ、この中に眠り薬みてえなものは仕込んでねえよな』

「ええ、まあ。だって、そういうのは禁じ手なんでしょ」

『ああ。酒によけいなものを混じらすのは、大山祇神オオヤマズミノカミが嫌っていることだけからな』

「それは確認しました。レギュレーションは知っておいた方がいいですからね」


 音子さんが〈闘杯〉に入る直前に、こぶしさんから聞き出しておいたのだ。

 あと、妖狸族の二匹からも教えてもらった。

 だから、僕は無謀な〈闘杯〉を受けることにしたのである。


「―――じゃあ、もう一杯」


 フルーツをがつがつと食べ続ける〈のた坊主〉の前で、僕は倒れた音子さんの額の汗をハンカチで拭う。

〈闘杯〉のペースは遅い。

 僕が付き合えないというのもあるが、〈のた坊主〉が喰うことに夢中になりすぎて、こちらを忘れかけているせいだった。

 ただ、それは僕の望むところであった。


『うぐっ……』


 そのうち、おかしなことが起きた。

〈のた坊主〉が丸いメタボな腹を押さえて呻きだしたのだ。

 それだけでなく短い足をバタバタさせて悶えだす。

 口角に泡が立ち始めた。

 肌が蒼白になり、瞳孔が開きだした。

 確実にこの妖怪に何かが起こっている。

 しかも、この短時間の間に。


『て、てめえ、ど、毒を盛りやがったのか!!』


〈のた坊主〉が凄まじい形相で僕を罵った。

 だが、僕は首を振る。

 嘘じゃない。

 絶対に毒なんて混ぜていない。


『ふ、ふざけるな!! こ、この悪寒は!! 腹が膨張するような痛みが、毒じゃねえってのか!! そんなことがあるもんか!!』


 僕は〈のた坊主〉の食い散らかしたフルーツを手に取り言った。


「この果物はね。ドリアンっていうんだ―――果物の王様とも呼ばれている」


 そして、可哀想にのたうつ〈のた坊主〉に教えてあげる。


「ドリアンと一緒にアルコールを飲むと食べ合わせで食中毒を起こすと言われているけど、研究の結果、実際に人間ではそういうことにならないらしい。でも、あなたの正体であるムジナ―――タヌキがその例外かどうかは……僕の知ったことじゃないかな」

『てめえ、この餓鬼……覚えてやがれよ』


 泡を吹いてぶっ倒れた〈のた坊主〉の姿が、そのまま消えていき、代わりにちゃんちゃんこをまとった人間と同じぐらいの大きさのタヌキのものになった。

 普通のタヌキの成獣の二倍はあろう大物だ。

 これがこいつの正体なのだろう。

 酒に溺れてタヌキの姿に戻れなくなったというが、呑み過ぎで逆に正体を取り戻すというのは皮肉なものだ。

 こぶしさんたちを呼ぼうと立ち上がったとき、頭がくらりとした。

 ああ、やっぱり酔いが回り始めている。

 これじゃあ明日は酷い二日酔いかな。

 足がガクガクしているよ。


「しまったなあ。でも、まあいいか」


 まだ具合の悪そうな音子さんを看病しながら、内部の異常に気がついてこぶしさんたちが突入するまで、僕は勝手に売り物の炭酸水を飲んで待つことにした……。

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