第348話「この世界の下側で」
海外のビジネスマンが日本に来たとき、先輩から教えられることがあるという。
それは、「地下鉄にあまり乗るな」である。
別にマンハッタンのサブウェイのように強盗が頻繁にでるとか、暴行事件が日常茶飯事だとか、落書きが酷くて憂鬱な気持ちになれるといかいうことではない。
あまりに正確なダイアルで運行されていて、それに慣れてしまうと本国に戻ったときに苛立って仕方なくなってしまうから、という理由だった。
もちろん、ジョークだ。
これに付け加えて、「日本でケーキ屋に入るな」とか「寿司やてんぷら以外の日本食を覚えるな」とかがある。
日本での地下鉄というとだいたいは東京がイメージされることから、まあ、これは都内で暮らしている外国人向けのお話だろう。
ちなみに日本では地下鉄における事件というものは、ほとんど認められず、平和であることがまさに平常運転ということであり、世界的には奇跡ともいわれている。
だが、実際はそうではないそうだ。
地下に広がった空間や施設というものは、結局のところ、地上の人間の目に触れるものではなく、その中で蠢いているものどもがいたら滅多に発見されないだろう。
今回、江戸時代からこの東京を根城にしてきた妖狸族が敵愾心を顕わにしている元凶は、その地下で蠢いていた妖魅の一族であった。
『―――奴らはモグラだあ』
「モグラ? あの土を掘って移動する? アマゾンの仲間の?」
『ワシらタヌキがハクビシンどもとやりあっているのをチャンスと見たんだろうさ。わらわらとどこからともなくやってきて、地上にちょっかいをかけてきやがった』
「どんなちょっかいをかけてきたの?」
『最初のうちは、一人でいる人間を攫っていたのさ。そのうち、どんどん大胆になって知恵をつけてきやがって、家出人やらホームレスやら、後腐れがなさそうなのを狙い出した。あと、チンピラや風俗業の女とかもだ。あいつらは、急にいなくなっても怪しまれねえからな。―――奴らは肉食だ』
……日本では1956年以降、毎年8万人以上が行方不明になっているという。
その中には、すぐに見つかったものもいるだろうけど、戸籍のしっかりした国でもこれだけの人がいなくなるのだ。
自分の意志で行方不明になったものだけではなく、他者の関与によるものもあるだろう。
そして、わずかだろうけど、妖怪をはじめとする妖魅の餌食になったものもいるはずだ。
僕の隣にいるタヌキたちのように、人間社会に溶け込んでいる連中と違って、文字通りに人間を食い物にする妖魅によって。
「モグラの妖怪ってことか。君らとやりあっているということは、相当な数がいるんだね」
『正確な数はわからねえ。やつら、地下にいるからな。こっちの監視の目が届かねえんだ』
「……〈社務所〉は動いていないの?」
関東を鎮護する退魔巫女の組織である〈社務所〉が、そのモグラ妖怪の脅威を認識していないというのはあり得ない気がする。
『薄々は勘付いているだろうが、動いていねえな』
「どうして?」
『〈社務所〉の巫女たちの一番の情報源は、空を飛んでいる八咫烏や同じ人間たちからだ。ワシら以上に、地面の下には不如意なのさ』
確かにそうだ。
八咫烏は神出鬼没だけど、それは地上で妖怪や悪霊たちに襲われている人たちを見つけ出すことに関してだけだ。
トンネルや地下施設まで届く千里眼がある訳ではない。
だとすると、〈社務所〉がいまいち把握できていないのもわかる。
「―――わかった。七條さんも餌として目をつけられたということだね。でも、ハローワークとか介して、どんな理由があるのかな」
『そりゃあ、吟味してんだろ』
「吟味?」
『ここしばらくで奴らが餌にしていた人間は、下衆な言い方をすれば底辺層だ。栄養が偏っているのもいれば、クスリ漬けもいるし、刺青で変な味がついているのもいる。それは飽きてきたんだろ』
「ああ、ハローワークだけじゃなくて、もっと色々なところに触手を伸ばして人狩りをしているということか……。正社員やバイトを募って、自分たちの舌に合いそうな人を探している訳だね」
反吐が出そうになる。
妖怪退治なんてものに関わってから、幾度となく嫌な話は聞いてきたけど、これはなかなかシビアにきつい。
自分の住んでいる世界の、下側でそんな非情なことが日々行われていたということか。
足元がむずがゆくなる。
僕の中にある、熱いマグマのような衝動が抑えられない。
「……七條さんはお眼鏡にかなったということか。急いで助け出さないと、あの変な人まで食い殺されてしまう」
『
「まさか。七條さんが東大出身だから?」
『ああ。オツムの良さでは折り紙付きってことだろ。しかも、ハローワークの履歴書に嘘を書くわけがねえから、経歴は本物だ。いっちゃあなんだが、公共の職業紹介所にそんな出物が流れてくることはそうはねえ。だから、モグラどもは一刻も早くあんたのダチを確保しようとしたんだろうさ』
そこまで聞いたら、あとはもう簡単だ。
七條さんを助けに行く。
まだ頼みの綱の藍色さんは来ていないが、時間がない。
少なくとも建物の受付で騒ぎを起こせば、少しは時間稼ぎができるはずだ。
しかし、歩き出した僕の二の腕を分福茶釜に掴まれた。
『どこにいくんだよ、
「七條さんを助ける。騒ぎを起こす」
『あんなモグラの巣につっこむのはいくらなんでも無茶だ。巫女の姐御たちならともかく、兄弟みたいな普通の人間じゃあ飛んで火にいるフェニックスだぜ』
「放せ。時間がない」
『そうじゃねーよ。……ワシが行くっていうことさ』
すると、分福茶釜はいきなりいつもの大タヌキの姿の戻って、さらに全身を名前の通りに鉄製の茶釜で覆い尽くす。
まるで、聖闘士が
かつて、御子内さんですら砕けなかった鎧である。
これによって、分福茶釜はただの化けダヌキから、〈三代目分福〉に変身する。
「分福茶釜……」
『行こうぜ、
押しつけがましいけど、分福茶釜の心意気は感じ取れた。
七條さんを救うためには、やっぱりこのタヌキの手助けが必要なのは間違いない。
江戸前の英雄タヌキ、五尾の一角である〈三代目分福茶釜〉の。
「ああ、頼むよ、タヌキの兄弟」
僕はこれが終わったら兄弟盃ぐらい交わしてやってもいいかなという気分になっていた。
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