第347話「人間は美味なるものか否か」
(ククク、おいでなすった)
悟郎は口元が緩んで愉しそうな笑いが浮かばないようにするのに苦心した。
(人はどうして美味なのか、だと? ほおほお、そういう判じ物めいた問答で俺を試そうって訳ね。OKOK、クールに行こうじゃないか。俺が伊達に赤門を出ていないってことを証明してやるぜ)
彼の思考は、二人の面接官が彼に向って発した『人間はどうしてあんなにも美味なのかな』という言葉は、要するに彼の知性を試そうとする手段だと認定したのだ。
真っ先に彼の学歴について問いただしてきたことからの推測である。
こういう一見、雲に巻くような質問を発して、相手方の知性の煌めきを確かめようという作戦だな。
(ここで、相手の意図を読もうとして質問を聞き返すのも手だが、英語のヒアリングテストじゃあるまいし、パードン? なんて言っちまったら評価を下げるかもしれない。ここはシンプルに勝負を受けるのが肝要だぜ)
悟郎は分析を開始した。
面接官と思しきものの台詞は三つだ。
『七條悟郎サンですね。あなたにおききしたいことがあります』
『あなたはこの国の最高学府の出身だときいています。確か、国立東京大学―――』
『人間はどうしてあんなにも美味なのかな』
というものだ。
しかも、男たちの会話の抑揚のなさから、はっきりと疑問形で語られているとは思えないが、問答を仕掛けてきていると考えるのが妥当だろう。
最初の二文は確認、問題は最後の問いかけだ。
まず、意味を単語ごとに分解してみよう。
(人間―――広い意味での人間であることは間違いないだろう。会話の流れなどから特定の人物を指しているとは思えない。これは確定。次に、美味だけど、カニバリズム的に美味しいという意味と、美味しい地位にいる等のおいしいの可能性もある。まあ、前者は気持ち悪いし犯罪だからありえないとして、やはり後者だろう。しかし、立場的にうまみがあることを「美味」と称することは通念上少ないことだから、一端とりあえずおいておくか)
悟郎は思考の並列処理ができる。
だから、二つのことを同時に考えることができた。
定義建てをするのと同時に、文脈も検討を開始していた。
(どうして~なのか? というのは、理由を聞いているのは間違いない。構文としてもおかしくないしな。わざわざ「あんなにも」と強調しているは、「美味」にかかっているとみていいだろう。文脈としては問題ない)
結論としては、
(「美味」がなんなのか、それを応える必要がある)
悟郎はそこから思考を巡らす。
(俺が東大出の超絶エリートであることを知って仕掛けてきたのである以上、この答えは複雑なものであることは確定済みだ。そして、複雑な問題は常に二つから三つ以上のシンプルな悩みが絡まっているからややこしく見えてくるだけで、実際のところは答えそのものはシンプルなものに落ち着くはず。……つまり、そこに俺の真価を問うている訳だ。ククク、法解釈の場合と同じく、俺がこの問いにズバっと端的に答えたら、こいつら、きっと腰を抜かすぞ……)
途中から問題の検討よりも自己アピールに偏っていくところが、七條悟郎という男のダメな部分であるのだが、本人にはまったく理解できていなかった。
大学に合格してまずやったことは、クラスで対立していた生徒に対するアピールという名の自慢話であり、その後、大乱闘になったことについてはまったく悪びれていないという清々しい過去を持っているほどである。
まともな神経の持ち主ならば、面接官の態度と問いに異常を感じ取って当然と言う状況で、自分のアピールばかり考えているというのは尋常ではないだろう。
そんな彼の様子を、幾分おかしな目で見ている二人組について疑問を感じることもないのが、悟郎のある意味では大物な性格であったが。
面接官らしい男の一人は、やや奇異に感じられるぐらいに腕の長い男であった。
着ている背広がぴたりと袖まで揃えられているので目の錯覚のように見えるが、実際にその手はぶらりと下げると膝のあたりまではあった。
しかも、口を開くとぐちゃぐちゃの醜い歯並びをしていて、まともな人間ならば正視に絶えないレベルである。
こちらが悟郎に問いを投げかけた方である。
片方もまともな容姿とはいえない男であった。
―――猫背、なのだ。
ノートルダムにいるカジモドまでではないが、不格好といってもいいぐらいに背中が曲がっている。
そして、斜視だった。
下からねめあげるような視線をずっと悟郎に向けている。
さっきから一言も発しないが、観察だけはじっと続けていた。
二人組は、吉祥寺の夜景も見えない暗い窓を背にして、五郎を窺っている。
獲物を狙う爬虫類のように。
しかし、七條悟郎は自分に降りかかる寸前の異変についてまったく気が付かない。
「―――そうですね。仮に、問いについての答えが、人間自体が生物としての食肉として扱われるとしたら美味なのかどうかですが、それはノーですね。なぜなら、人間は肉も魚も穀物も分け隔てなくとります。それは雑食であるということです。生物界において雑食は肉が締まる原因になりますから、基本的に美味しくない。例えばタヌキなんかもそうですよね」
これは前提の話だったのだが、悟郎の説明を聞いた二人組はわずかに狼狽えた。
『タヌキだと!? 七條悟郎サン、あなたはタヌキを食べたことがあるのか!?』
「いや、ないですよ。話だけです。喰いやしませんってあんなもの。タヌキ汁なんてカチカチ山でしか縁がないものです。……話を戻しますね。ですから、人間を食べるなんてたいして美味しい訳がなく……いや、脳みそはわりと美味しいと聞いたことがあるな。なんでしたっけ、ああアラドキン酸なんか脳神経発達に欠かせないもので、それが他の部位にはない味になるって話を聞いたことがありますね。アラドキン酸は頭のいい人間ほど強いらしいですから、私なんかはもうフルに分泌しているに違いないですよ。うんうん、すると私の脳みそは最高級の珍味ですな。それはさておき……」
すでに二人組を完全に聴衆と誤解しきってしまった悟郎はさらなる説明をしようとするが、その時、どこかからなにか大きな音が聞こえてきたような気がした。
上かも知れないが下かもしれない。
そこまで鋭敏に感性は悟郎にはない。
体感的に揺れた感じはないので、地震ではなさそうだが、いったい何かあったのか。
とはいえ、彼の思索についてはどうでもいいことだ。
すぐに忘れてしまった。
『どうした』
長い腕の男が、そのリーチを利用して普通ならば届かない位置に置いてあった内線電話をとる。
とても異常な光景だったが、自分の思案に没頭している悟郎はまだ気が付かない。
迫りくる跫音を聴くことすらできないほど無防備であった。
『―――妖狸族だと』
『どうした同胞よ』
『……一階にタヌキどもがきている。いくさになるぞ』
『ふん、地上を這いずり回る畜生どもが我らの敵になると思うか』
『
『そうだそうだ。同じケダモノどうしで噛みあわせればよい』
『そうだそうだ』
二人の会話を聞きもせずに、悟郎はまだ頭を捻っていた……
◇◆◇
分福茶釜は、
普段は最大限の隠形の術で潜んでいる妖狸族が、本来の正体を現すというのは、それだけの理由があることなのだ。
そして、彼らの敵もその程度では驚きもしないということである。
つまり、あそこの受付にいたお姉さんたちも見た目でわかるような普通の人間ではない、ということだった。
ウィィィンと自動ドアが開き、分福茶釜がくぐり抜ける。
ホテルのような受付に二人の女性、テーブルに三人のサラリーマン風の男性たち、それらが一斉に睨みつけてきた。
これでわかった。
彼らは一切、妖魅としての大タヌキを怖れていない。
それどころか敵愾心を持っている。
ここにいる五人は紛れもなくただの人間ではなかった。
『
君らタヌキも大概ケモノ臭いけどね。
と、ツッコんでいる暇はない。
五人の男女は服を着たまま、変化していく。
ふさふさと生えてきた毛のせいで小さい眼は埋まってしまい、耳もなくなってく。
鼻が長く伸びて先端に醜い突起ができ、さらに管状になって、口よりも前に突出していった。
手は外側をむき大きく円形な前肢と変わり、五本の爪が生えてきて、いかにも地下で土を掘って暮らすのに適した様子になる。
指に半分ほど、水かきがついていて、泳ぐこともできるというのがわかった。
服の布地のない部分は全身が細かい毛で覆われ、まさに獣人という姿になっていった。
分福茶釜の言う、モグラそのもの。
彼らこそ、この東京の地下に最近激増している妖魅の一族―――
〈
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