第48話「神の化身か眷属か」



 カアアアアン!


 妖怪を〈護摩台〉という名のリング上の結界に閉じ込め、逃げ出せないようにするゴングが鳴り響く。

 僕は急いでリングの外に出て、池に落ちないようにバランスをとりながら赤いコーナーポスト、つまり御子内さんのための場所にセコンドとしてつく。

 だが、すぐには戦いは始まらなかった。

 普段なら迷わず突貫するはずの御子内さんが珍しく慎重に歩を進めたからだ。

 なぜなら、対峙している妖怪についてわかっていることは、蚊の集合体であるということだけだからだろう。

 その能力も、正体も、名前さえも未知数。

 闇雲にしかけることはできそうもない。

 しかも、その姿は琵琶を持った羽衣と金の冠をつけ、波打った黒髪を結わえた妖艶なものである。

 どう見ても弁財天―――弁天様そのものなのである。

 御子内さんは退魔の仕事をしているが、もともと神に仕える巫女だ。

 その巫女が神かその化身と戦うというのははっきりいって分が悪いはず。

 だからか、彼女にしては慎重なぐらいに間合いを詰め、これ以上は詰め切れないと悟ると背後に下がってロープの反動を使い、かく乱する作戦に出た。

 縦に横に走り回り、弁財天の隙を窺う。

 しかし、その御子内さんの動きに対して弁財天は身動き一つとらない。

 恐ろしいまでの存在感をもって立ち尽くすだけだ。

 とはいっても巫女レスラーに翻弄されている訳ではない。

 おそらくはカウンター狙い。

 何か特殊な攻撃を持っているのかもしれない。


「御子内さん、吸血に注意して!」

「わかってる!」


 あの弁財天は、多数の蚊が実体化したものだ。

 ということは蚊の妖怪が、弁財天の姿を模しているだけという可能性が高い。

 ならば、蚊という害虫の最も危険な要素である「吸血」を注意するのは当然のことだ。


「どこに蚊が血を吸うための管なのかわかんないな……」


 蚊は長い口吻を持っている。

 この口吻を使って生物の毛細血管から血を吸うのだが、あの弁財天の姿にはその管と呼べる要素が見当たらない。

 どこかに隠されていて、ここぞという時に使う気なのだろうか。

 だとすると、かなり危険だ。

 御子内さんが下手に組んだりすると、動きを止めたところを狙われるおそれがある。

 彼女の得意のスープレックスは止めたほうがいいだろう。

 ただ、僕には少しだけ疑問があった。



 という点についてだ。

 さっき御子内さんは二匹の蚊を潰したが、どちらにも血液は付着していなかった。

 であるのならばまだ給餌はしていなかったはず。

 それなのに、のだ。

 僕のたいして働きの良くない勘ががんがんに警鐘を鳴りたてる。

 あいつを蚊の妖怪と断定するのは危険だ、と。


「でりゃあああ!」


 御子内さんの得意の上下に分けたナックルパートのあとに、くるりと腰で回転しての上段蹴りのコンビネーション。

 それは弁財天の琵琶によって防がれる。

 しかも、かなりの勢いがあったというのに微動だにしない。


「とおっ!」


 お次は跳びあがっての連環腿れんかんたいによる二段蹴り。

 これも琵琶によって防がれた。

 なんちゃってとはいえ、御子内さんの八極拳は高い攻撃力を持つというのに、ああまで容易く受け止められるとは。

 いったん体勢を整えようと下がった時、弁財天の琵琶が一弾き、かき鳴らされた。


 ジャラララン


 音を耳にした途端、一瞬だけ、御子内さんの動きが止まる。

 僕には何もないのだから、あれは指向性の音による攻撃の一環に違いない。

 耳にするだけで巫女レスラーの動きを邪魔するような。

 その隙をついて、弁財天の怒涛のごとき張り手が唸りを上げて横に薙がれた。

 御子内さんは両腕をカーテンのように閉めて、その攻撃を受けきる。

 鉄のカーテンならぬ肉のカーテンだ。

 ボクシングでいうところのピーカーブーいないいないバアだが、御子内さんはよく次に左を狙うときにもこれを多用する。

 そして、いつものように弁財天の左脇に突き刺さるようなボディブロー。


『ゴッ』


 多少は効いたらしく、弁財天がはじめて揺らいだ。

 そこで、彼女の起死回生の一撃―――ローリング・ソバットが炸裂する。

 狙い過たず人でいうところの鳩尾に命中した蹴りが、弁財天にたたらを踏ませた。

 しかし、追撃はしない。

 両耳を抑えて苦しそうにしていた。

 あれだ。

 さっきの琵琶の音だ。


「御子内さん、気をつけて! あれは聞くと死んでしまう楽団系の技だ!  デッド・エンド・シンフォニーとか、ストリンガーノクターンとかバランスオブカースとか、そのへんの!」

「……わかっているよ。ちょっと鼓膜がやられただけだ。まだ問題ない!」


 聞こえているならいいけど、あんなのを何回も食らったらさすがの彼女でも。

 でも、あれが弁財天あいつの切り札?

 そういう感じはしない。

 そもそも弁財天に化身した姿とかいうのならば、芸術の神であるのだから予測の範囲だ。


(きっと他に何かがあるはず)


 ほんのわずかの攻防でしかないが、明らかに御子内さんは不利だ。

 いつもの彼女とは違う。

 それは何故かというと、相手が弁財天―――神の化身かもしれないからだ。

 ただの妖怪ではない神の眷属か、それに従属するもの。

 だとすると巫女である彼女にとっては戦っていい相手ではない。


「でも、さっき妖気を感じると言っていたし、社務所も妖怪の仕業として退魔巫女を派遣している。つまり、あれは妖怪であるはずなんだ。見た目は神さまのようだけど……」


 おそらく御子内さんには心理的なブレーキがかかっている。

 巫女として、神の姿をしたものと戦わなければならないということに対しての禁忌めいたものがあるのだろう。

 いくら彼女でも力を抑えたまま、あんな化け物と戦うのは無理だ。

 

 ―――要するに、あいつの正体を突き止めてしまえば、いいということだよね。


 僕はセコンドとして、御子内さんの助手として、やれることをやることを決意した。

 以前の女子高生たちのようにパイプイスをもって乱闘したりするのではなく、御子内さんを手助けするために知恵を働かせることで。

 マット上での戦いを見つめながら、僕はこれまでのことを思い出す。

 今回の事件での最初の被害者は汲尾きゅうおという仲の良い夫婦。

 この二人が先月この井の頭公園でボートに乗り、その直後に「別れなければならない」と言い出して騒ぎになった。

 周囲の説得に応じず、〈社務所〉につながりのある神社に話を持ち掛けて御祓いを受けると、微量の妖気をまとっていて妖怪の仕業であることが判明した。

 調べてみると、似たような症例が他にも見つかり、ことを重んじた〈社務所〉が最強の退魔巫女である御子内さんを派遣した。

 ……と、こういう流れだ。

 事件が始まったのは、夫妻がボートに乗った日。

 確か、僕と御子内さんが映画を観に行ったあの春にしては暑い日のことだ。

 初夏みたいに暑い日。


 ……夏のように暑い?


 夏みたいに暑くなればなるほど―――蚊は活発に活動して生物を襲う。

 そういうものだ。

 つまり、夫妻が襲われたのは暑かったから、蚊が活動できて、血を吸ったからだ。

 

 いや、血を吸っただけかな?


 蚊の特性にはもう一つあったはずじゃないか。


 去年の夏から秋にかけて、どんなことがあったかを僕は思い出した。

 スマホで調べてみると、確かにこの井の頭公園でもあることが行われていることが判明する。

 その経緯についても。

 僕が探してみたものは、インドから中国、そしてこの日本へと渡って来ていた。

 そして、はるばるインドからやってきたものが、同じようにインドからやってきた女神の守る池に辿り着いた。


 ……これでわかった。

 この弁天様の守る池に妖怪の反応があるということが。

 彼女は、同郷のものを匿っていただけなのだ。

 そして、たぶん、池をかいぼりしたことによって匿われていたものが表に出てきた。

 それがたぶんの妖怪の本体―――いや本質。


 僕の推理には突飛なものが多く、無理もある。

 あとで〈社務所〉の専門の禰宜さんに調べてもらう必要がある。


 ただ、今はこれで足りる。

 御子内さんを守るためにはこれで足りる。


「御子内さん、わかったよ!」

「なにがだい? 急いで説明してくれよ!」


 取り込み中とも、うるさいとも言わない。

 御子内さんは僕の戯言を、僕のただの妄想でさえも受け入れてくれる気なのだ。

 そこまでの篤い信頼に、信頼で返せないやつは絶対に男じゃない。


「そいつは、弁財天じゃない!!」

「だろうね!」

「―――そいつは、おそらくはアプサラス! もしくはラクシャーサ! インドからやってきた水の精。そして、その正体はインドで広まった感染症、今でいうデング熱が妖怪になったものだと思う!」

「……なんだって? そんなことが……」

「だから、御子内さん、から、ボコボコにしてしまっていいよ!」


 御子内さんは笑った。

 戦いながらずっと口元を綻ばす、"笑う退魔巫女"の本性発揮の笑顔を湛えたのである。

 今、最強の退魔巫女、御子内或子のストッパーがついに外れたのだ!


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