第114話「熊埜御堂てん、おそるべし」
私ことロバート・グリフィンは透明人間だ。
全裸のスタイルでいる限り、誰の目にも映らない。
だから、いくら狭いリングの上だといっても気がつかれないように回り込み、一瞬で熊埜御堂てんの首を絞めて落としてしまえば勝負はつく。
暗殺者として育てられた私は、当然のこととして絞め技についてもマスターしてある。
むしろ、透明人間としての特性を活かすためには、数々の徒手格闘術の方が有用なのだ。
イギリスに古くから伝わる「
殺すこともできるが、殺さないように絞めて落とすことだって容易だ。
蛇のように音もなく近づくスネーキングさえも身に着けている。
グリフィン家特有の足の裏の剛毛がその助けになってくれるのも助かる。
ゆえに、私はスルスルと滑るように熊埜御堂てんの背後に忍び寄った。
(今だ!)
私が手を伸ばそうとした時、熊埜御堂てんは何故か左へと跳んだ。
まるで私が見えているかのように。
「っ!」
思わず息を吐いてしまう。
それを聞きつけたのか、巫女の少女は私のいる場所を睨んだ。
「そこ!」
彼女の順手によるパンチが飛んできた。
同じ側の手と脚を突き出して打つのが順手だ。
ボクシングでも空手でもない、奇妙なパンチの打ち方であった。
しかも、左腕で防いだ時に気がついたが、パンチではなくて、掌であった。
掌打?
奇妙な攻撃をする。
と思った瞬間、腕を筋肉ごとがしっと掴まれた。
女の子らしい小さな掌だというのに信じられないほどの握力を備えていたのだ。
そのまま、左手で私の手首を握る。
(やばい!)
咄嗟に私は彼女を力づくで放り捨てた。
見えていないことから力を籠められるタイミングを計れなかったのだろう、熊埜御堂てんは私の腕力に引きずられてあえなくマットを転がっていく。
いつまでも掴まれているのは危険だと本能が叫んだのだ。
案の定、私の左手首にはヒリヒリとした痛みが残っていた。
透明ゆえに私自身でさえも確認できないが、おそらく掴まれていた両部位には赤い指の跡がついていたに違いない。
私の頭の中には、「握撃」という技名が浮かんだが、あの娘の手のサイズではそれは無理だろう。
むしろ、手を取ってからさっきのコマンドサンボの技に移行するつもりだったのではないだろうか。
関節技と寝技ならば、私の「敵に見えない」という優位性もやや減少してしまうからだ。
だが、私にも「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」というレスリングスタイルがある。
もし捕まえられても凌ぎきる実力はあるはずだ。
私はまたもスニーキングを用いて、巫女の視界から外れる。
彼女は透明な私に対して、ほとんど恐怖を感じていないようだった。
とことんおかしい少女だ。
普通ならば闇雲に叩いたり、蹴ったりを繰り返して、私を近づけないようにして体力を消耗してしまうはずなのに、落ち着いてマットの中央で片膝を立てて、前に手刀をだした構えを崩さない。
試しにわざと音をたててみても身じろぎもしない。
ただひたすらにこちらの気配を探っているのだ。
透明人間をまったく恐れていない。
まるで視えないものとの戦い方を教わってきていたかのように。
「君はいったい何者だ?」
思わず、聞いてしまった。
「―――妖怪退治の退魔巫女ですよー」
「だが、君の戦い方はただの魔導師のものとも違う。いったい、それはなんだ?」
「ふふーん、耶蘇教圏内の魔導師、大陸の巫術師、仏教の仏凶徒……。そんな連中に匹敵するうちらのことを知らないなんて、ただのモグリですね」
「なんだと」
「この関東を鎮守する聖なる巫女のうちらを、そんじょそこらのか弱い女の子たちと同視してもらっちゃあ、女が廃るってもんですよー」
私は彼女の正面に回った。
視線が一点に集中しているが、時折、小刻みに左右に動いている。
警戒しているのだろう。
あまりにきょろきょろしているので気持ち悪いぐらいだ。
正面はやはり危険と見えたので、私は少しずれた場所に位置をとった。
目の前だと、ミニスカートの中身が見えそうになるので眼の得―――いや、毒であるからだ。
もう少し透明人間であることを利用して女の子にイタズラでもしておけば、こんなことにならなかったのではとちょっと後悔した。
それから、身を屈めて陸上競技でいうクラウチングスタートの体勢をとる。
私の狙いは一気に肩からチャージをかけて、力で彼女を粉砕しようというものだった。
ちまちまとした攻撃ではまた手や足をとられてサンボの餌食になる。
「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」があるとはいっても、それは最後に回すとしよう。
まずは少女にどこからともなく狙われることに対しての恐怖を植え付ける。
(キックオフだ)
私は故郷でラグビーをしていたことを思い出し、力任せの特攻を敢行しようと足に力を込める。
赤色筋肉を一気に爆発させる。
真っ正直に肩からのショルダーチャージを喰らわせるために。
だが、その瞬間、熊埜御堂てんがこちらを見る。
どうして気づかれた?
しかし、足はもう止まらない。
私は突貫していく。
相手を吹き飛ばすために。
熊埜御堂てんは両手の掌を手首でがっちりと合わせ、私の肩を正面から押さえた。
視えていないはずだから、当てる面積を増やして確実性を増したのだろう。
とはいえ、相手は50キロにも満たない体重しかなさそうな少女だ。
私の80キロを受け止められるはずがない。
少女は私の体重を受けきれずに吹き飛んだ。
その寸前に力のない蹴りが私の腰のあたりに当たったが、それでダメージが減殺されることはない。
彼女はマットを再び転がって、赤コーナーポストに追い込まれた。
ただし、すぐに立ち上がり、さきほどの片膝を立てた構えをとる。
多少フラフラとしているのは、やはり私の肩に全気力をこめたタックルを受けたからだろう。
両手で防いだといってもまともに食らっているはずだ。
なにしろ私は透明人間なのである。
技が来る方向と目的がわからなければ躱せる道理もない。
「―――肩からのタックルですか……。今の感触からして」
「余裕がなくなったみたいだな。いいかい、もうこの辺でやめておこう。君が私を見逃してくれればいいだけのことなんだ。ただ、それだけでいいんだ」
だが、少女は唇を尖らせて、
「あなたを見逃したら、てんちゃんが見習いから卒業できないじゃないですかー」
「まだ、そんなことを言っているのか」
「あたりまえですよー。それに……」
「それに、なんだね?」
「……別にいいんです。これから、あなたを叩きのめしてから教えてあげますよーだ」
まだ戦う気のようだ。
さっきのタックルへの恐怖はないのだろうか。
「次は容赦しない」
「ご自由にー。それどころか、さっきのタックル程度なら、このてんちゃんの十本の指だけで受けてあげますよー」
彼女は手刀をやめて、さっきタックルを受けた双掌をくっつけて並べた構えをとる。
発言こそお気楽だが、その顔には極限まで張り詰めた真剣さが溢れていた。
挑発されているのか。
いや、あまりに真摯な表情には真っ正直な輝きしか感じられない。
正直なところ、私ももし手足を掴まれたらと考えると下手な手出しはできないのが本音だった。
さっき〈のっぺらぼう〉たちの手足を折った彼女のサンボはあまりにも素早く危険すぎた。
それに背後から近寄った時の超反応もだ。
体重がない分、
下手に手を出せば一瞬で手足をへし折られるおそれがある。
だから、肩でのタックルはある意味では防禦も兼ねた最適手といえた。
それにあんな女の子に挑発されて乗らないのではブリティッシュの名が廃る。
「よし、大怪我をして泣いても責任はとらないぞ」
「どうぞご自由にー」
この期に及んで口調だけは軽い。
私は覚悟を決めた。
あんな女の子に本気でかかるのはどうかと人は言うかもしれない。
だが、私の見てきた限り、あの熊埜御堂てんは化け物にもひるまない怪物である。
情けを掛けている余裕はない。
だから、私は、全身全霊をかけて、クラウチングスタートからの、タックルを、放った。
「―――手がマットを離れる音を消せてませんよー」
はっ!
私が熊埜御堂てんの言葉を理解した時、すでにタックルに使った左肩に彼女の掌が触れていた。
こちらが力を加えたタイミングに、寸分の狂いもなく相手もタイミングを合わせてきた。
おかげでこれだけの
続いて肩に激痛が走る。
熊埜御堂てんの指がとんでもない握力をかけて、私の肩に食い込んだのだ。
筋肉さえも破らんばかりのアイアンクローのように。
それで一瞬ひるんでしまったのが失敗だった。
彼女は完全に視えないはずの私の位置を特定していた。
腕に手首が絡まる。
小さな体がまるで私の腕を鉄棒代わりにしてくるりと回転した。
首にミニスカートから伸びた細い脚が巻き付く。
太ももが私の呼吸を止めた。
ほぼ同時に彼女の反対側の脚が、私の軸足を払う。
無様にも顔面から私はマットに倒れこんだ。
いや正確には押さえこまれた。
裏・腕十文字堅めにとられたのだ。
そして、案の定、私の腕は壊された。
ぐきっ
激痛はあったが、関節を壊された訳でも骨を折られた訳でもなく、肩の骨を外されただけで済んだのは彼女の慈悲の心のおかげだったが。
―――こうして、私は暗殺者として育てられた透明人間でありながら、極東のコマンドサンボ使いの巫女さんになすすべもなく倒されてしまったのである……。
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