第330話「冬の花吹雪」



〈サトリ〉がいずみを連れてきたのは、天国であった。

 いや、天国というのが相応しい、様々な種類が咲き誇るお花畑であった。

 十二月ももうすぐ終わり、新年を迎えようとする時期に、奥多摩の山中とは思えないほどに美しい花たちが咲き乱れ、芳しい香りを放ち続ける。

 周囲の葉の散った枯れ木たちが羨ましがるように乱舞する花の群れは、とてもこの世のものとは思えない。

 しかも園芸の知識のあるものならばすぐに看破したであろうが、この一画にある花畑で咲いているのは春、夏、秋、冬、花期がいずれも異なるものばかりなのである。

 人工的なビニールハウスで育てているものならばさておき、自然界においてこのような生育の仕方はありえない。

 どのような奇跡が起きれば、こんな美しい混沌の光景が生まれるのであろうか。


『―――このあたりはな、竜神の背びれが飛び出している場所だで、いつ来ても花が咲いとるんだあ』


 竜神とは龍脈―――地球の生命エネルギーともいえるレイラインのことである。

 妖怪である〈サトリ〉は、そもそも自然の力の動きについて詳しく、人間では理解できない龍脈の存在さえもはっきりと認識していた。

 この花畑はその龍脈の力がわずかだけ漏れ出ている場所であり、地球そのものの力がすべての季節の花を咲かせるという奇跡を演じているのだ。

 そうでなければこのような奇跡は起きるはずがない。

〈サトリ〉はいずみの手を引いて、花畑の隅に案内した。

 足の踏み場もないほど咲き乱れている花を一株も踏むことなく〈サトリ〉は歩く。

 この妖怪には花の声さえ聞こえているのだ。

 だから、無造作に歩いているようで絶対に踏むことはない。

 いずみはそんなことはできるはずもないので、花を何本も踏みつぶしてしまうが、〈サトリ〉は仕方のないことだと割り切った。

 里の人間に、彼と同じことはできるはずがないのだから。


『これだあ』


 そっと跪くと、〈サトリ〉は一輪の花を指さした。

 白いふっくらとした花が咲いていた。

 白詰草シロツメクサ

 クローバーの名で親しまれているシャジクソウ属の多年草である。

〈サトリ〉が指さした辺りは、その白詰草で溢れていた。

 根元には三小葉からなる複葉が生え、時折四小葉のものが見つかると「四つ葉のクローバー」として幸運の御守りとして珍重される。

 日本には1800年代にオランダからもたらされ、明治に入ると野生化して様々な場所に広がっていくことになる。

 外来種であるがゆえに、本来ならば奥多摩のこの寒い地域に根付くものではないのだが、この辺り一帯だけは例外なのか、他の植物と同様にすくすくと育っているようであった。


『おめ、が好きなのはこいつかあ』


〈サトリ〉の問いに対して、いずみは、


(うん、大好き)


 と、しばらくしてから心で答えた。

〈サトリ〉は嬉しくなって眼を細める。

 彼はこういうくすぐったくなるようなやりとりを欲していたのかもしれない。

 人間という、何をするかわからない生き物と暮らすことはできないが、さりとて孤独のまま生きるのは耐え難いこともある。

 妖怪でありながら、人の心が読めるがゆえに、人に近い妖魅である〈サトリ〉にとっていずみは夢のような生き物であった。

〈サトリ〉が懸命に心の奥底まで探ったとしても、ほとんど何も読み取れない。

 だけれど話しかければ応えてくれる。

 嬉しかった。

 同族もあまりおらず、たった一体で生きてきた彼にとって、いずみは初めて出会った希望のような生き物であった。


『……おめ、ずっとわいと暮らすか?』


〈サトリ〉は思わず願望を口にしてしまった。

 しかし、いずみは答えなかった。

 初めて会ったときと同様、心にはどんな言葉も浮かび上がってこない。

〈サトリ〉は後悔という言葉を知らない。

 だが、この時、彼は自我を持って以来、初めて後悔という言葉に近い感情を覚えた。

 それは―――「哀」という感情であった……



                 ◇◆◇



 ヤクザたちの山狩りの指揮を執っていたのは、一人の背の高い坊主であった。

 黒い法衣を着込み、さらにその上にインバネスのようなマントをまとっている。

 しかし、その右肩の部分が不自然なほどに盛り上がっていて、まるで頭が二つあるように見えることから、この坊主は「聯頭」と呼ばれていた。

 聯とは連なることであり、二つで一つのものを表すときに使われる語であり、右肩の異常な盛り上がりと本物の頭が、まるで奇形のようだと揶揄してつけられた異名であった。

 聯頭自身は意外と気に入っている名前ではあったのだが。


「……まだ、見つからんのか、若頭ぁ」

「ワリいな、奥多摩こんなやまおくで一人を探すなんてすぐに終わるこっちゃねえ」

「見つからんとなって痛い目を見るのは拙僧ではなくて、ぬしらだということを忘れるなよ」

「わかってるよ。ったく、本当にこっちなのか?」

「うむ。麝香じゃこうの匂いがこちらから漂ってきておる。あの娘、すでに呼吸はせぬから吐息は漏らさぬが、服に縫い付けた匂袋は役に立っておるとみえる。どれ、ここからは拙僧が案内役兼猟犬役を勤めるとしよう。いやいや、それよりはトリュフを探す豚の役かも知れぬがな。ガッハハハハ」


 聯頭はくんくんと鼻を鳴らすと、手にした錫杖を鳴らしつつ、歩き出した。

 そのあとを二十人のヤクザが慌てて追う。

 すでに朝からの捜索で疲れ切っているとはいえ、ここで休んで手を抜けばどうなるかぐらいはわかっている。

 ヤクザの頭は親分や兄貴分からの暴力にだけは強く反応できるように躾けられているからだ。


「てめえら、聯頭殿に引き離されるなよ。なんとしてでもあの女を戻さなきゃあ、うちの組がやべえんだからな!!」

「へい、合点だ!!」


 威勢のいい掛け声とともに子分どもがついていくのを、一番後方で見つめながら、全体の指揮を執らされている年配の若頭は歩き出した。


「ったく、どうして俺がこんなわけのわからんシノギのケツ持ちをしなきゃならんのだ。半グレどもの尻拭いなんぞさせんじゃねえよ……」


 思わず本音がでる。

 上からの命令に無条件に従えるほど辛抱強い性格であれば、ヤクザのようなゴミになどなりはしない。

 若頭は不服しか頭になかった。

 しかも、名目上は指揮者だが、あの胡散臭い坊主のいうことを黙って聞かねばならぬ身だ。

 腹立ちもしようというものである。


「もともとはあいつらが、手あたり次第女をヤク漬けにしたせいじゃねえか……。くそ、忌々しいぜ」


 あまりにも腹が立っていたので、激情のままに通りすがりの木を蹴飛ばそうとしたとき、


「思ったよりはいい殺意じゃん」


 と、横から声がした。

 だが、その声の主に気づく前に足が誰にも触られていないのに、ぐいっと引きずられるように勝手に動いた。


「なっ!?」


 若頭はそのまま仰向けのまま大地に倒れてしまう。

 枯れ葉が敷かれているとはいえ尻をしたたかに叩き付けてしまい、尾てい骨あたりの筋肉が悲鳴を上げる。

 すぐには起き上がれなかったが、彼の目の前にロック歌手のような派手な格好をした巫女が屈みこんできて見下ろしてきた。


「あんた、武術とかやってた系のヤー公みたいだね」

「なんだてめえは!!」

「うちは広瀬アリスっていうんだ、よろしくね。ちなみに妹はすずで、お母さんは広瀬香美」

「バカ野郎、ロマンスの神様にそんなでっけえ娘がいるか!!」

「―――律儀に突っ込まれちゃったよ。参ったなあ」


 得体のしれない巫女に対して手を伸ばしたが、その手は宙を掴んだ。

 ロック巫女が何もない空間を車のハンドルを切るように回した途端、凄まじい激痛とともに腕が捻じ曲がる。

 

「ぎゃああああああああ!!」


 中年男の叫びが渓流に響き渡る。

 だが、あまりに深山のため、先に行った子分どもには届かなかった。


「なかなかいい殺気を出すもんだから、技が出しやすいったらありゃしないよ。オジサン、刹彌流のいいお得意様になれるよ」

 

 刹彌皐月はヤクザ者を相手にしてもまったく普段と変わらない陽気で呑気な笑顔を浮かべた。

 他人の殺気を視て、掴んで、投げるという古武術・刹彌流柔の使い手である傾いた少女は、木に当たり散らそうとした若頭の殺意を利用して投げ飛ばしたのである。


「雑魚なんかいくら捕まえても仕方ないから、オジサンに聞こうか。さて、いったい、何があってあんたらは山狩りみたいなことをしているのかな? 〈サトリ〉を狩ろうって訳じゃないよね? で、どうしてなのかなあ」


〈社務所〉の媛巫女の中でもヤクザの人権など欠片も認めていないのは、もともとサイコパス気味の熊埜御堂てんと、そしてこの刹彌皐月の二人だともっぱらの評判なのである……






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