第355話「黒い鉤爪の男」



 気が付いたら、貴瀬久子は高校時代の母校の教室に立っていた。

 どういうわけか、すぐにここが夢の中であるとわかった。

 夢だから、卒業して三年も経ってから久子が制服を着て、所在無げに立っているのだろう。

 しかも、窓から外は真っ暗で夜だとわかる。

 煌々と月光が輝くこんな真夜中に学校にいたことはない。

 一瞬だけ思考が曇ったが、自分が夢の中にいるということだけははっきりと認識できた。

 起きていたときに交わしていた会話の影響だろう。


「サム・ブレイディ……いるの!?」


 久子は叫んだ。

 彼女のルームメイトを無残に殺害した、夢に潜む殺人鬼が必ずいることはわかっている。

 そして、もう何度も夢の中に現われては、久子を執拗に揶揄い続ける悪鬼は、今度こそ彼女の命をとろうとするだろう。

 なぜなら、殺人鬼を追い詰めようとする白い力が動き出しているからだ。

 母国のアメリカにはない、邪悪な妖魅を打ち倒す正義の力が。


「出てきなさい、殺人鬼!」

『……カカカ、うるせえ嬢ちゃんだぜ。そんなにラブコールを送らなくてもすぐに出てってやるぜ。俺と哀愁デートしようぜ、マジで』

「黙れ、変態!!」


 教室の前の扉から、のっそりと男が入ってきた。

 黒いコートと革のパンツをまとった、ハンチングを被った男だった。

 左手にはナイフのように鋭い鉤爪をつけて、顔には白い仮面をつけている。

 何度も夢で遭遇したことのある男だ。

 名前もよく知っている。

 サミュエル・ブレイディ―――夢の殺人鬼だ。

 アメリカですでに何十人もの若者たちを無残に殺してきた、超常の連続殺人鬼。

 久子のルームメイトまで手に掛けた怪物であった。


『ようやっと日本語? ってのを覚えたぜ。睡眠学習はまったく良く効くよなアア』 


 カチカチカチと手についた刃を鳴らしながら、黒づくめの殺人鬼―――サム・ブレイディは教壇に腰掛ける。

 数日前までは英語しか喋らなかったのに、いつのまにか日本語が流暢になっていた。

 サム・ブレイディは自分が宿主にしている久子の記憶から言葉を学んだのだ。

 盗んだといってもいいかもしれない。


『んー、俺をどうにかしてやろうと思っているんだろ、あんた。で、どうにかできると思っているのかい?』


 仮面の奥から甲高い嘲るような声をだす。

 爪で教壇の天板を何度も引っ掻きながら、サム・ブレイディは獲物である久子を揶揄い続ける。

 これが彼の嗜好だった。

 逃げられない獲物をいたぶって弄んで、最後に切り刻んで殺す。


『何をしているんだい?』


 気が付くと、後ろから肩を抱かれていた。

 爪が久子の眉に添えられていた。


『メイクアップするなら、眉毛のお手入れは必要だよねえ』


 耳孔に生温かい息を吹き込み、背筋を冷やすと、今度は仮面をずらして耳たぶを甘く噛んできた。

 好きな男にされれば快楽で喘ぎたくなるような行為も、不気味で恐ろしい殺人鬼にされれば怖気が走る気持ち悪さだった。

 長い間、くちゃくちゃと舌で弄ばれ、湿った耳たぶを乱暴に吐き出すと、サム・ブレイディは首の後ろから服の中に手を差し入れた。


「やだ!!」


 さすがに耐えきれず払いのけたが、その手を掴まれて、くるりと回転して向き合う形になる。

 最悪のダンス相手だった。


『あんた、わりと年を食っているねえ。東洋人は年齢がわからないからいけない。俺の好みはミドルからハイティーンなんだけどねえ』

「……や、やだ」

『大丈夫だよ。触ってごらん。俺の股間のビッグボスとポケモンはあのときの火事で焼けちまってないから、床の上でのラテンダンスはできないのさ』


 掴まれた手が殺人鬼の股間にさしだされたが、確かにそこにはどんな突起物もなかった。


『俺を殺したバカな学生どものせいで、こんなにされちまったんだよ。だから、そのお返しに俺がもっと楽しい死に方をプレゼントしてやっているという訳。わかるぅ?』


 本人としてはただの復讐のつもりなのだろうが、もともとはこの殺人鬼の犯した悪行の報いなのだ。

 ただの卑怯な報復に過ぎないのだが。

 生前も死後もアメリカで多くの殺人を重ねてきた怪物は、薄汚い執着をみせて、久子の顔を撫でた。


「やめて、やめて……」


 どんなに拒もうとしてもここは夢の世界。

 今までに何人かには逃げられてきたが、だからといってそれがサム・ブレイディにとっての致命的なしくじりということにはならない。

 逃げた獲物はいずれ始末するとしても、自在に操ることのできる夢の中、しかもそこに憑りついている彼をどうにかできるものはいない。

 少なくとも、アメリカでの彼は無敵の存在であった。

 かつて一度だけ失策を犯して一時的に夢の外にでられなくなり、趣味の殺人がなかなかできなくなることもあったが、彼を止めることができるものなど皆無であった。

 例え異郷であったとしても、それは変わらない。

 人間が夢を見る生き物である以上、彼は無敵だ。

 知識は憑りついた相手から得ればいいし、死霊であることから食べ物も必要がないから飢えることさえもない。

 だから、遠く故郷ネトル・ストリートを離れた外国でもこれまで通りに好き放題に振る舞えばいいのだ。

 誰も邪魔はしない。

 しかも、この国では彼のことを知るものは少なく、さっさと姿を隠してしまえばアメリカから敵が来ることもないだろう。

 サム・ブレイディの天国はまだ無限に広がっているのだ。

 そう彼は高をくくっていた。


『―――そう考えると、あんたのお友達についてきてよかったぜ。東洋人の女の泣き叫ぶ声というのもオツなものだったしなあ』


 サム・ブレイディは仮面をとった。

 そこにあったのは、もう死んでしまったルームメイト・亜紀の顔であった。

 しかし、亜紀ではあっても亜紀ではない。

 朗らかだった友達は、あんな歪んだサディズムに満ちた狂笑は浮かべたりはしない。

 気持ち悪い下品な目つきで舐めまわしたりはしない。

 友達の顔を奪って穢しているだけだ。


「亜紀を殺した癖に……」


 許さない。

 この化け物め。

 夢の中だろうがなんだろうが、友達を殺されて黙っていられるものか。

 許してたまるものか。


『殺したからどうだっていうのかな~。殺しましたよ、それで何か?』


 まだまだサム・ブレイディは久子をいたぶるつもりだった。

 そのために、すぐに殺さずに何日もいたぶっていたのだ。

 さて、どうやって殺そうか、悪魔の悪戯に相応しいやり方を舌なめずりして探しながら。

 悪魔の蹂躙がまたも一人の女を手に掛けようと這いずってきたとき、


「―――なんて悪趣味な奴だ。こういうのはやっぱり入国禁止にしないといけないね」


 教室の後方の扉が音をたてて開いた。


『なんだ、あんたは?』

「キミがサム・ブレイディか。薄汚い殺人鬼に名乗るのは心外だけど、化け物相手だろうとボクらのやり方は変わらない」


 白衣と緋袴、黒いリングシューズを履いた、闘志あふれる美少女が顔を出した。

 関東を鎮護する〈社務所〉に属する退魔巫女にして、最強の巫女レスラー・御子内或子が夢の中であろうと助けを求める声を聞きつけてやってきたのである。


「行くぞ、メリケンの殺人鬼!!」



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