ー第11試合 中華戦人ー

第72話「深夜病棟悪夢譚」



 新宿にある第二区立病院に勤める看護師の青年は、つい三日ほど前に霊安室に運び込まれたままのご遺体について、同僚と話をしたいと思っていた。

 どうにも黙っていられなかったからだ。

 口にしないでいると、自分に災いが返ってくるような気持ちの悪さがあった。


「……なあ、霊安室のご遺体、どう思うよ」

「どうって、なんだ。あの中国人か?」

「それ意外ねえだろ。で、おまえはどう思うんだ」


 彼と同じケイシーの医療着を着た仲間は首をひねって、


「一応、死因は不明ってことだよな。医者連中は心不全で片を付けるって話だぜ。何か疑問があるのか?」

「もしかしたら、伝染病なんじゃないかと思ってさ」

「……ああ、なるほど」


 件の遺体は、新宿の繁華街に観光旅行に来ていた中国人の男であった。

 観光先の免税店で突然倒れ、救急車で運ばれてきたのだ。

 救命救急室で処置された時にはもう手遅れだったらしく、運ばれて来た時にはほとんど死人だった。

 死んだ男とともに観光していた中国人たちは一人も病院に訪れることもなく、観光会社の者もやってこないことから、名前すらわからないという有様だった。

 名前がわからなければ遺体の引受先もなく、病院の事務は中国大使館のルートを使って、死んだ男の身元を聞きだそうとしたが無駄に終わる。

 それから三日経っても、どうにも事実確認も進まず、とりあえず遺体安置だけはしておこうということになっていた。


「中国からの伝染病ってさ、例のSARSとか新しいのがあるだろ? その類じゃねえのかな」

「その可能性はあるか。ただ、医者(せんせい)たちは何も言ってないぜ?」

「おいおい感染症の専門家でもない連中なんだぜ、救命センターの担当ってのは。だったら、未知の伝染病が見抜けるわけないじゃん」

「でも、そんな馬鹿なにことが……」

「だから、中国人の身内が一切やってこないんじゃねえか。病気が怖くてやってこないんだよ」

「考えすぎだよ。きっと、観光客じゃなくて不法滞在者とかなんだろ。入管にチクられる方が怖くて黙ってんだよ。俺の家は百人町だけど、そんな連中は山ほどいるぜ」


 特にここは新宿だ。

 アジア系の不法残留者など腐るほどいる。


「まあ、ただの死体さ。いつもお看取りしている患者たちと変わらない」

「だから、そんなに割り切れるものじゃねえっての。……って、ちょっと待て」


 片方が指を指した。

 そこは霊安室の扉の前だ。

 指をさすのはあまり行儀のいい行為ではない。


「どうした?」

「今、誰かが入った」

「……マジか? 深夜の見回り中なんだぞ。何かあったら、俺らの責任もんだ」

「でも、おかしいだろ。霊安室だぞ。―――もしかしたら幽霊じゃねえのか?」


 さすがに人の生き死にまつわる病院に勤めているだけあって、二人の看護師はその手の怪談話については詳しい。

 もっとも、実際に体験でもしていたら、もうこの職には就いていられない自信はあったが。


「……確認しとくか。もし何かあったら、俺らが叱られる。下手したら、馘首クビだ」

「だな」


 二人はそっと霊安室の前に向かった。

 見ると、電気が点いていない。

 一応、室内には作業用の豆電球がついているが、電気を点けずに作業できるほど光源がカバーされているわけではない。

 だから、誰もいないはずだった。

 だが、ドアを開けてそっと覗きこんだ室内には、


「……三つのこんがなくて七つのはくのみになた死人様に歩いて帰る力をくれてやろ」


 と、気持ちの悪い猫なで声で独り言をつぶやく男がいた。

 わずかな灯りからわかる姿は、黄色いだぶついた着物のようなものを着ていた。

 ボタンやファスナーを使っていないこともあり、どことなく古い中国映画の登場人物のようだった。

 しかも耳に入ってきた言葉は、とても特徴的な訛りがあり、聞くに堪えないレベルだった。

 一瞬で外国人だとわかるぐらいだ。

 中華街ならばともかく、この病院内でははっきりいって不審人物以外のなにものでもない。

 看護師としての職業意識が二人に働きかけてきた。

 不審者への対応をしろと。


「おい、おまえ! こんな時間に何をしている!」

「警察を呼ぶぞ!」


 普通の人間ならば、悪事かそれに類する行為を見られたことから慌てても仕方のないところになのに、不審な外国人は口元を歪めただけであった。

 二人ともそれが嗤いだと気がつきもしなかったが。


「邪魔をするな。身どもは大事な仕事のためにここにいる」


 正面から向き合うと、この不審人物はかなり若い人物のようだった。

 声がしわがれていたためわからなかったのだ。


「こ、この時間は、誰であろうと職員以外が勝手に動き回ってはいけないだ! あんた、関係者でもないみたいだし警察を呼ばせてもらうよ!」

「あと、ご遺体になにをしていた!」


 二人が覗いた時、男はベッドの上に白いシーツを被せられて横たえられていた遺体に対して、身を屈めて話しかけているようだった。

 あまりに怪しい行動と言えた。

 身内が悲しみのあまりに魂のない遺体に話しかけることはよくあることだが、この男の冷たいまなざしではとうていそうは思えない。

 何か魂胆があってのことに違いなかった。


「何、このままここに厄介になるのも問題だろと思てな。説得していたのよ、早く帰ろとさ」

「何を言っている!? 頭がおかしいんじゃないのか!」

「まさか! 私はいたて正気だよ。では頭がおかしくない証拠を君らにもみせてやろ」


 男が手にしていた風鈴のようなものを鳴らした。

 チリンと涼し気な音色が響く。

 ほぼ同時に白いシーツがめくりあがった。

 下から。

 何かによって突きあげられたように。


「えっ!!」


 二人の看護師が眼を剥いた。

 その現象が意味しているものを正確に理解していたからだ。


「身体を起こせ」


 もう一度鈴が鳴ると、今度はシーツがベッドの上からずり落ちた。

 なぜなら、シーツを被せられていたものが身を起こしたからだ。

 ありえないことだった。

 

 すなわち、遺体が自分から腹筋の力を使って発条のように身を起こしたということしか考えられないのだ。

 もともと、そこにいたのが遺体とすり替わっていた人間でもない限り。


「うわああああ!」


 後ずさった二人を追うかのように、男はずいと前に出た。

 鈴を持った手の逆側には、三角形の小さな旗のようなものを握っている。


「行くぞ。長居は無用むよだ」


 男の命令に従うかのように、起き上がった遺体はベッドから飛び降りた。

 直立不動の状態で、どういう訳か両手を水平に伸ばしている。

 処置されていて閉じられているはずの眼がかっと見開いていた。

 瞳孔には当然に生の輝きはない。

 紛れもなく死人なのだ。

 それなのに普通に立ちあがり、勝手に動き出している。

 恐ろしいとしかいえない光景だった。


「さて、道をあけろ! 死んだ人間様のおりだ! 人間どもはささと道をあけろ! 邪魔をする者は道連れにするぞ!」


 男は呵々大笑しながら歩き出した。

 二人はあまりにも恐ろしくて飛び退るように道を開けた。

 その二人の間を、正体不明の男と―――遺体が抜けていく。

 ただ、それだけだったのならばまだ恐ろしさは薄れていただろう。

 恐怖の極致はそこで止まらなかった。

 すでに三日前に亡くなったはずの中国人の男の遺体は、なんと、のだ。

 まるでカエルのように。

 両手を伸ばして、足首の力だけで無理矢理に。

 意志の欠片もない機械のごとく。


 ピョンピョン


 ユーモラスな光景であるはずだ。

 それが生きている人間の行動であったのならば。

 だが、為している対象は「死体」なのだ。

 死体が生きているのだ。

 まるで、不審な男のあとにつく不思議なオプションのようでさえあった。


「さて、道をあけろ! 死んだ人間様のおりだ! 人間どもはささと道をあけろ! 邪魔をする者は道連れにするぞ!」


 ……また男の声が聞こえる。

 だが、二人の看護師は動けない。

 あまりに夢魔の世界の光景に完全に怯え切ってしまったからであった。

 

 数時間後、別の見廻りがやってくるまで、二人はずっと立ちすくんでいた。



             ◇◆◇


「えっ、バイト?」


 音子さんから送られてきたライントークには、「ちょっとバイトをしない?」というに内容の言葉が非常に豊潤な言葉の羅列と共に記されていた。

 最初は彼女の意図が呑み込めないぐらいに、あまりに大量のライントークだ。

 文字数の限界にでも挑戦しているのだろうか。

 とはいえ、彼女を相手にする場合にはよくあることなので、僕としても慣れている。


「……うーん、バイトかあ。夏休みの前に少し貯めておきたいんだよな。旅行とかも行きたいし」


 少しだけ思案して、僕はOKという承諾のサインを送った。

 バイトの内容は不明だが、まあ、御子内さんの試合みたいに危険なことはないだろうという甘い考えだった。

 退魔巫女の戦いは、実のところ相当に危険なものなのだが、あれだけ数をこなすと危険への警戒心も薄れてきていた。

 だから、退魔巫女であね音子さんの申し出にもひょいひょいと乗ってしまったのだ。

 それが、とてもつなく危険なバイトへの誘いだとも知らずに。



 ―――これは一年前、僕たちが夏休みに入る少し前の出来事である。

 中国人たちの爆買いという言葉が流行語になる、半年ほど前のことだった……。




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